第三章 「月の淡海」
山の辺は、神山と王陵の道でもある。
三輪山の麓を過ぎ、大足彦や御間城の大王の美陵を越え、平城へ向かって北上を続けていた倭文と稲目は、やがて道の終点でもある石上へとたどり着いた。
「……姫、とにかく淡海へ行くんだろ」
倭文に付き随っていた稲目が、行き交う旅人の様子に目をやりながら言った。
石上の近くには、古の神剣・布都御魂剣を御神体として奉じた大きな社がある。そのため社に仕える神官、また警護の兵、出入りする人々やそれを目当てに物を商う者達などで、なかなかの賑わいを見せていた。
「この先、どうやって進むつもり?」
「そうねえ……とりあえず、帯解から春日へ出て山背国へ入り、そこから近江を目指すってのが順当じゃないかしら?」
倭文は記憶を反芻しながら答えた。
実際には通ったことがないので知識だけだったが、多分それが一番確実なはずだ。
「ふうん……結構遠い道程だよなあ……。まだまだ、この先長いし……。ねえ、姫。だったらさ、いっそ」
稲目は倭文を見上げて言った。
「ここで、馬を買わない?」
「馬?」
「そう。姫は並みの男よりよっぽど歩くの早いけど、それでも山背を抜けるまでにはまだ何日もかかるよ。幾晩も泊まることになると、その分危険も増えるし。馬を使えば、ずっと早くつけるよ。姫は、馬に乗れる?」
「一応はね。でも、別に急いでるわけでもないし……」
そう言いかけて、倭文ははっと口を噤んだ。
ふと、傍らの稲目の様子に目をやる。
元気そうに振舞ってはいるが、明らかに稲目の顔には疲労の色が浮かんでいた。
(しまった。私の失敗だわ……)
倭文は自分の注意が散漫だったことを密かに悔いた。
なまじ、自分が細身のわりには体力に満ちあふれているので気づかなかったのだが、連れ歩いているのは僅か十歳の少年である。
まだ体の出来上がっていない稲目には、倭文と同じ速度で旅するのはきつかったに違いない。
海石榴市で出会って以来、稲目が生意気な口をききつつも、楽しそうに懐いて来るので、つい看過してしまっていた。
長い間奴卑の生活を続けていた稲目が、主である倭文に、自分から「休みたい」などと言えるはずもない。
このまま無理を続けさせて、稲目が病気にでもなってしまったら、彼を『買った』自分の責任だ。
「まあでも、山の辺の道もここで終わりだし。この先は、歩きにくい所に出るかもしれないしね。この辺で馬を買っておこうか」
倭文が同意すると、稲目は嬉しそうに笑った。
「やっぱ姫は話が早いや。--そら、あそこにいっぱい並んでるよ!」
稲目は倭文の手を引いて、近くの市に連れていった。
旅人用に各種取り揃えてある馬の中から、稲目の助言をいれて手頃な物を選ぶ。旅の路銀として持ってきていた珊瑚の珠と引き換えに馬を手に入れた倭文は、稲目を後ろ側に乗せ、自らも鞍に跨がって手綱をとった。
「姫は普通の郎女とは違って剣とかの達人だからさあ。当然、馬の扱いもうまいんだろうね!」
倭文の襲を握り締めた稲目が、期待に満ちた眼差しで話しかける。
「まあ、狩りに行ったこともあったわね……年に一回くらい」
「ええ!?」
思わぬ返答に仰天して声を上げる稲目を無視し、倭文は馬の腹を蹴った。
「--ほら、行け!」
倭文は威勢よく号令をかける。
正直、馬の扱いはあまり得意ではない。
だがまあ、動物は上位者に従う習性を持っているものだから、常にこちらが強気でいる限り、思い通りにできるだろう……と、倭文は適当に考えていた。
「ちょ、ちょっと、姫、揺れ、揺れ、る! もっと丁寧に……!」
倭文にしがみつきながら、稲目は悲鳴をあげた。
「何よ、馬を買おうって言ったのは自分でしょ! しばらく飛ばすから……っていうより、それしか出来ないから、落ちないように自分で気をつけるのよ!」
「ええ、そんな……っ。ったく、ほんとに無茶な姫さまだよ、この人は……!」
元の馬主があっけにとられ、周辺にいた旅人達が慌てて飛び避ける中を、二人を乗せた馬は全速力で疾走して言った。
人が、木が、彼方の山が、回りの景色が一瞬で吹っ飛んでいく。
「ううう、ああああ………っっ」
激しく揺れる馬上、真剣に前方を見据える倭文の横顔を見ながら、稲目は奥歯を噛み締め、馬が欲しいといった己の言動を激しく後悔した。
……しかし、結果だけいえば、馬を手に入れたことはある意味で幸いだった。
倭文が周囲の迷惑も顧みず(というより、その余裕もなく)馬を長駆した結果、彼らはわずか一日たらずで山背国を抜けてしまったのだ。
ちょうど山背国と近江国の境にあたる、瀬田川の右岸にたどり着いた頃には、さすがの馬も全速力で走る余力を無くしていた。
「……これが瀬田川ね。やっとここまで来たなあ」
乗った馬をゆっくり歩かせながら、倭文は感じ入ったように呟いた。
「--やっと、ね……」
倭文の後ろに座った稲目は、皮肉を込めて言った。
一体ここまで来るのに、何回吐きそうになったことだろう。体の打ち身は数え切れない。
しかしそれにしても、やはりこの葛城の姫はただものではない。
稲目がこんなにぼろぼろになっているというのに、彼女はまるで平然としているではないか。
この無尽蔵の体力は、並みじゃない。これもまた、葛城の古い純血がなせる業だというのだろうか?
--だとしたら、自分のような傍系など、とても適わないが。
「この川の向こうが、近江なの?」
稲目は気を取り直し、倭文に尋ねてみた。
「そうよ。綺麗ねー」
倭文は川面を眺めながら、無邪気に感嘆する。
彼女は山里で育ったために、普段見慣れない大きな水の流れなどを目にすると、つい過剰に喜んでしまうのであった。
瀬田川は、淡海から流れ出ている唯一の川だった。その流れをもって、右岸を山背に、左岸を近江に分かつ役目を担っている。
ここは東国から畿内へ入る要衝であり、その為に古くから政治的にも重要な拠点となっていた。
瀬田川の河幅は広く、水量も豊かである。ゆったりと流れるその川面には、倭文の育った青垣の国々にはない、独特の開放的な風情があった。
間もなく落ちようとする秋の陽が、川の水面にその残照を投げかける。時に金に、時に朱に輝くその煌めきは、深く心に残る水辺の夕照だった。
「……ここから、どうするの?」
まぶしさに目を細める倭文に、稲目が尋ねた。
「もう少し向こうに、橋があるはずなんだけど」
言いながら倭文は、北へ向かって馬を進めた。
びっしりと葦の群生に覆われた川岸には、人の姿は見えない。
ここは瀬田川の下流に当たるのでまだ閑寂としているが、唐橋がかかっている辺りまでいけば、もっと人気も多くなるはずだった。
「……でも、もうすぐ陽が落ちるよ。姫、今日は山背で泊まっておいた方がいいんじゃないの?」
「うーん、でも、それだと中途半端になっちゃうからねえ……わっ!!」
倭文は慌てて手綱を引いた--が、既に遅かった。
何かに驚いた馬が、急に前足をあげて激しく立ち上がったのだ。
「わああっっ」
「うわっ!」
倭文と稲目は、共に悲鳴を上げた。
二人は、同時に馬の背から放り出された。
「何よ、いきなりっ……!」
抗議の声を上げる倭文を、馬は近くの葦の上に振るい落とした。空を飛ばされた倭文は、反射的に受け身の姿勢をとる。背中から落下したが、葦の群生が衝撃を吸収したせいもあって、頭を打ったりはしなかった。
倭文は起き上がると、すぐに葦の中から飛び出した。
しかし、既に、遅かった。
道に駆け戻った倭文が見たものは、遠く彼方に逃げていく馬の後ろ姿と、道一杯に散乱した大量の小さな貝と--その中に、うつ伏せに転がった一人の人間だった。
「ああ、馬! 待ってーー!」
倭文は手を伸ばして虚しく叫んだが、無論馬が戻るはずもなかった。いやむしろ、まるで解放されてせいせいしたとでもいうように、自由になった馬は生き生きと草原を疾駆しながら去っていく。
「ああ……」
散らばった貝の中で、倭文は呆然と立ち尽くした。
「う、ああ、しじみ……」
不意に、倭文の足下からくぐもった声がした。
倭文は声のした方に目をやる。
「--しじみ! 僕の、僕のしじみ!」
叫びと同時に、貝の中に転がっていた人間が起き上がった。
それは、一人の青年だった。
青年は周囲を見回すと、土にまみれたり、踏み潰されたりした貝の哀れな姿を目に留め、悲しそうに顔を歪ませた。
「ああ、ごめんよ、しじみ達! ついさっきまで、あんなに生き生きとしていたのに! 僕が不注意なせいで、こんな姿に……」
地べたに座ったまま、青年は散乱した貝を掻き集め、愛しそうに頬擦りした。
「……」
倭文は腕を組み、無言のまま青年の姿を見下ろしていた。軽く目を瞑り、少し前に眼前で起こった光景を反芻する。
自分の記憶に過ちが無かったことを確認すると、倭文は青年の胸倉を掴み上げた。
「呑気に貝にばっかり謝ってんじゃないわよ! お前ね、さっき急に川原から馬の前に飛び出してきたのは! おかげでこっちは落馬するわ、馬には逃げられるわで散々よ! まず、私に謝罪しなさい!」
「……え?」
青年はきょとんとすると、掌から貝を取りこぼし、急に倭文に向かって平伏した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、しじみよりごめんなさい!」
青年は恐縮しきったように、何度も何度も倭文に向かって頭を下げる。
「お前の基準は、どこまでも『しじみ』が中心なわけ……?」
青年を見下ろしながら、倭文はにがにがしく言った。
「はい! しじみは、淡海の恵みですから! 白珠にも優る近江の宝です!」
「そんなわけないでしょ、馬鹿じゃないの、お前……」
倭文は腕を組んだまま、呆れたように言った。
その時、背後から彼女に声がかかる。
「なんか、苛めてるみたいだよ、姫……」
「--稲目!」
倭文は慌てて振り返った。
葦の群生の中から、片足を引き摺った稲目がゆっくり歩いてくる。
「稲目、大丈夫だった?」
「まあ、大事はないよ。でも、足ひねっちまった。やっぱ姫は凄いねぇ。落馬したってのに、それだけ元気なんだから……」
感心したように苦笑しながら、稲目は倭文の隣に立った。
「こいつ? さっき飛び出してきたの」
「そうよ、まったく。そのせいで馬はどっか行っちゃたわよ」
「--君、怪我をしてしまったのですか?」
現れた稲目の痛々しい姿を見ると、青年は激しく衝撃を受けた表情で話しかけてきた。
「ああ? いや、大したことじゃねえけど……」
「……」
傍らで強がる稲目をちらりと一瞥した倭文には、すぐに彼が無理しているのだとわかった。
本当はかなり痛いはずなのに、やせ我慢をしている。
(ほんとに、妙なところで意地っ張りよね……)
倭文は変に感心しながら、足先で軽く稲目の左足を小突いた。
「痛てーーっ!」
途端、稲目は足を抱えてうずくまる。
「……ほら、やっぱり痛いんじゃない。素直に言ったほうが可愛いのに」
「だからって、こんなやり方するかあ!?」
稲目は、大きな目に涙を浮かべて抗議する。
「てっとりばやくしただけよ。ほら、おいで。おぶってあげるから」
「い、いいよ、いくらあんたが怪力だからって、主に背負ってなんかもらえるかよ!」
「あ、恰好つけてる。子供のくせに」
可笑しくなって、倭文は揶揄するように言った。
そうすると、稲目はますますむきになって真赤になるのである。
「あ、あのう……」
存在を忘れられかけていた青年が、不意におずおずと二人に声をかけた。
「--何?」
倭文と稲目は、同時に青年の方に視線を向けた。
「よければ、僕がその子を背負いましょうか? そもそも、あなたの馬が逃げてしまったのも、その子が怪我をしたのも、僕が不注意だったせいなのだし……」
「……お前が?」
倭文は、胡乱な青年を注視した。
改めて見てみれば、青年は端正な面立ちをした、優しげな雰囲気の男だった。
年頃は、倭文より少し上くらいだろうか。均整のとれた体つきはしっかりしていて、子供一人くらい背負って歩くのは造作もなさそうだった。
「どうせ、しじみを持って帰るつもりでしたし。でも、さっきので背負っていた籠はどこかへ落としてしまったし、大漁だったしじみもこの有り様ですからね」
青年は寂しそうな笑顔で言った。
「……『しじみ』よりは、子供の方が重いわよ」
言いながら、倭文は青年に対してふと疑念を抱いた。
ただの『しじみ』取りにしては、随分といい衣を着ている。意匠は簡素だが、仕立てや素材はとても上等だ。
髪だって、きちんと櫛を使って解き角髪を結っているではないか。やたらに腰は低いし変わってはいるが--どこか、物腰に品がある。
--何者だ、これは?
「ねえ、いいよ、俺」
稲目が恥ずかしそうに言った。
「いえ、本当に、お詫びをさせてください。御二人は、どこかへの旅の途中だったのでは
ないですか? 馬は高価だし、とても必要なものだ。それを、僕のせいで逃がしてしまっ
たのだから……僕が、目的の所までお送りします!」
青年は拳を握り締めると、倭文に向かって突如決然と告げた。
「目的の場所って……まだ遠いわよ」
青年の意気込みに驚いた倭文は、試すように言ってみた。
「構いません。どこですか?」
「……淡海」
「淡海!」
『淡海』と聞いた途端、意外にも青年は、ぱあっと顔面に喜色を表わした。
「よかった! それは、僕の故郷です。ちょうど、今から宅に帰るところだったんですよ。一緒に行きましょう、さあ!」
嬉しそうに言うと、青年は素早い動作で、嫌がる稲目をさっさと背負ってしまった。
彼はそのまま、葦の川辺に向かってすたすたと歩き始める。
「ちょっと、なんでそっちに行くの? 道は向こうじゃ……」
進み出した青年の意図が判らず、倭文は困惑して彼を呼び止めた。
「舟で行くんですよ」
葦の真ん中で立ち止まると、青年は振り返って倭文に言った。
「淡海へ行くならば、陸を行くより、そっちの方がずっと早いですよ。この先に、僕の乗ってきた舟がつけてあります。……ああ、そうだ。まだ僕の名を言ってなかったですね。僕は、深海と言います」
「深海……淡海の深海?」
早口言葉のような名を、倭文は口の中で転がした。
どこか滑稽なようだけれど……それは、不思議とこの男に似つかわしいようでもある。
「いいえ、野州の深海……とりあえず、今は」
それだけ言うと、青年--深海は、また慣れた調子で葦の中を歩き出した。
倭文はしばらく「野州ってどこだっけ……」と考えていたが、すぐに我に返り、置いていかれないよう、慌てて深海と稲目の後を追った。
稲目を背負った深海の後を着いていくと、川岸に一そうの丸木舟がつけてあった。
「どうぞ。乗って下さい」
先に降りて舟の中に稲目を座らせると、深海は笑顔で倭文を手招きした。
倭文はこれまで舟に乗ったことが無い。恐る恐る縁に足を乗せると、思いのほか揺れた。
「うわ、あぶな……」
態勢を崩しながらも、なんとか中に座り込む。
大木をくり貫いた丸木舟は単純な作りだったが、その分がっしりとして丈夫そうで、大人が四、五人乗れるくらいの広さがあった。
「大丈夫ですか。あまり動かないで下さいね」
深海は櫂をとり、慣れた手つきで舟を漕ぎ始めた。
川面を滑るように、丸木舟は走り出した。
「……ねえ、こいつ、どう思う?」
深海が風読みに集中しているのを確認すると、倭文は小声で稲目に聞いた。
「……んー、ちょっと、変わってるかも……」
「やっぱりそうよね?」
倭文は確認するように呟いた。
「でもさ、姫……」
稲目は深海の横顔を盗み見て、倭文の耳元で囁いた。
「俺のカンだと、こいつはそんなに悪い奴じゃないと思うよ」
「そんなもの?」
「うん。俺、色んな奴見てきたからさ。着いていきたくない奴って、なんとなく判るんだ」
「へえ……」
倭文は深海の後ろ姿を眺めながら呟いた。
確かに、全身から人の好さそうな気配を漂わせている男だ。しかも、その柔和な面立ちに似ず、なかなかの剛腕を持っているらしい。
川面を眺めている内に倭文は気づいたのだが、どうもこの舟は、流れに逆流しながら進んでいた。
そんな走らせ方をするには余程の力が必要なはずだが、深海は一貫して楽しげに、涼しい顔で櫂を漕ぎ続けているのである。
しかも、舟は殆ど揺れない。余程彼は練達しているようだった。
「……もうすぐ淡海に入ります。そうしたら、湖水の流れに乗れますから。今より早いで
すよ」
暫く漕ぎ続けた後、深海は空を仰ぐと、嬉しそうに告げた。
倭文は周囲を見回す。
少し風が変わったようだ……と思った頃、三人を乗せた舟は、一気に広い湖面へと流れこんだ。
「うわあ……」
夕風になびく髪を払いながら、倭文は感嘆の声を上げた。
そこには、これまでとはまったく違う景色が広がっていた。
水、一面の水。
淡海の湖水は無限に広がり、果てなきもののように倭文を取り囲んでいた。
穏やかな凪ぎの湖面には、落ちかけた秋の陽が金の光を溶け込ませている。静かな波が動く度に、あちらこちらで煌々と反射するのが見えた。
「本当に、広いのねえ……」
陰りゆく彼方の山々を見やりながら、倭文は呟いた。
倭文は、これまで海を見たことがない。
しかし、これはまさに『海』だと思った。陸に囲まれた中にある、広い広い真水の海。
これが、『淡海』というものなのだと--。
「美しいでしょう」
深海は誇らしげに語る。彼の言葉に、倭文は無言で頷いた。
「我ら湖の民は、全てこの恵みによって生かされています。生まれるも、還りゆくも、全ては淡海と共に……」
深海は櫂を漕ぐ手を留めて言った。
湖流に乗った舟は、風と同じ速度で湖面を滑るように進んでいく。
淡海の湖岸は、びっしりと茂った葦で覆われていた。
葛城の地で育った倭文が、これまでに見たこともないような群生だ。
遙か古の神代、まだこの国が生まれたばかりの稚い頃、大八州は一面をこの葦で覆われていたという。
やがて葦は言葉を覚え、地を離れて歩きだし、『人』になった。
だからこの国を「豊葦原」と呼ぶのだと、昔、古老に聞いたことがある。
そんな古い神話が今も息づいていることを実感させられるような、幻想的な景色だった。
やがて倭文がもの思いに耽っている内に陽は完全に落ち、かわって薄白い月が輝き始めた。
「ああ、今宵は満月だったんですね。良かった」
空を見上げた深海がほっとしたような声を出した。
こうこうと輝く白い月が、静謐な冷たい光を湖面に投げかけている。群青の闇に覆われた淡海は、陽のある世界とはまた様相を一変させていた。
湖上の天空に輝く月を見上げていた倭文は、そのすぐ側で朱色に瞬く一つの星を見つけた。
「あれは……蛍星?」
倭文は天を指さして深海に尋ねる。
深海もつられて天を仰いだ。
「そうですね……蛍星だ。今宵は随分と大きい……」
「大きいというより……月に近すぎない?」
蛍星は特に珍しい星ではない。朱に輝く夜空の星として、古くからよく知られている。
ただ、その光が人を惑わすようにゆらめいて瞬いていることから、どちらかというと不吉の象徴のように伝えられていた。
特に、蛍星がひときわ大きく輝くときには、何か良くないことが起こると恐れられている。
「蛍星があれほど月の側で輝いているのなんて……これまで見たことないわ」
倭文は特に根拠のない言い伝えなど信じてはいない。
しかし、夜空を支配する者たちの稀な姿に、どこか尋常でない畏怖を感じていた。
「ああ、でも……綺麗だ」
空に見惚れていた深海は、ふと湖岸に目をやり、慌てて櫂を取った。
「いけない、つい見とれてしまった。もうすぐ野州に着きます」
「え、もう?」
倭文は驚いて辺りを見回した。
静かな淡海の情景に気を取られている間に、何時の間にか数刻が経過していたのだ。
近くの湖岸を見渡すと、葦原の一角を切り取ったように場所に、人工的な船着き場が設けられていた。
深海は器用に櫂を動かして、丸木舟をそこへ着けた。
船着き場には、同じような舟が幾そうも繋げられている。恐らく、ここの族の人々がよく利用しているのだろう。
「じゃ、僕の後に着いてきてくださいね」
舟に揺られるうちに眠ってしまった稲目を背負うと、深海は葦の中に作られた道を歩き始めた。
彼の後をしばらく着いていくと、やがて里の明かりが見え始めた。深海は迷うことなく、もの慣れた調子で里の中を奥へと進んでいく。
野州の里は、かなりの規模で拓けた処のようだった。
人口も多いらしく、茅葺きの宅が多く立ち並んでいる。既に日が暮れているため里中に族人の姿はまばらだっだが、それぞれの宅からは暖かな灯が漏れ、うまそうな夕餉の匂いが立ち上っていた。
(豊かな……里だわね)
周囲を観察しながら、倭文はそう思った。大和の族と比べても、遜色ない。恐らくこれも、「淡海の恵み」がもたらしたものなのだろう。
(それにしても……どこまで行く気?)
深海の後をついて歩きながら、倭文は怪訝に思い始めた。
「宅へ帰る」と言っていたから、てっきりその辺りの住居の一つに入るものだとばかり思っていたのだ。
しかし、深海はそれらの里人の宅には目もくれず……一番後方にある、立派な木造の館へと向かっていた。
警護の兵に護られているその御館を見た途端、倭文にはすぐにそれが何であるか判った。
これは、王の御館だ。
「ちょっとあなた、まさかここに入るつもりじゃあ……」
「そうですよ」
深海は平然と言うと、入り口を守っていた兵に声をかけた。
「こんばんは。ご苦労ですね」
「これは、深海さま。またどちらかへお出かけで?」
「ええ。少し遅くなってしまいました。あ、この方たちは僕の客人です。通してあげてね」
「そうですか。これは、よくいらせられました」
兵の男は、倭文に向かって慇懃に頭を下げた。
呆気にとられる倭文を伴い、深海は館の内へ入っていった。
館内は、各所で火が焚かれ、外とは比べものにならないくらい明るい。
思わず目を閉じた倭文の耳に、美妙な男の声が入ってきた。
「おやおや、これは……」
倭文は目を開けて眼前を注視する。
壮麗な館の階に、一人の若い男が腰掛けていた。
「しじみを採りに行った男が、麗し女を連れて帰るとは。面白いこともあるものだ」
男は、左手に持った薄い土器の杯を持ち上げて笑った。
それは、あたりを払うように泰然とした気配を漂わせた美丈夫だった。
悠揚とした仕種の中にも、ゆったりとした品格が感じられる。
--これは、首長だ。
倭文には、一目で判った。
この男は、一族を背負う為に、始めから頂点に生まれた者だ。それ以外の何者でもない。
「……お前は、一体どこまでしじみを採りに行ったんだい?」
男は、鷹揚に深海に問いかけた。
「瀬田川だよ」
「瀬田? そんなところまで行ったのか」
男は呆れたように言った。
「いや、始めはそのつもりじゃなかったんだけど。いいしじみが採れるものだから、夢中になっている内に、どんどん下っていってしまったんだ」
深海は頬を紅潮させながら、恥ずかしさそうに弁解した。
「まったく、お前らしい。……しかし、その折角のしじみを持っていないようじゃないか」
そう言うと、男は深海の背で眠る稲目を一瞥した。
「それが、僕の不注意で、この人たちの乗った馬の前に飛び出してしまったんだ。そのせいで、馬は逃がすし、従者の子供には怪我をさせてしまうし……しじみも落としてしまったんだ」
稲目を背負ったまま、深海は悄然と項垂れた。
「……まったく、お前は……本当に、どこででも問題を起こす奴だな」
男は可笑しそうに苦笑すると、杯を階に置いて立ち上がり、倭文の方を向き直った。
「これは、弟が失礼をした。代わって、この息長真手王がお詫びしよう。--汝は、どちらの族の郎女で?」
「--弟?」
倭文は、真手王の言葉に驚いてその顔を凝視した。
垂襟の衣を纏い、優雅に下角髪を垂らした真手王は、鮮やかな印象を残す端麗な美男である。温良な深海とは、まったく似ていない。
「いや、ただの弟分……というか、客人です。僕の生まれた族が、息長とは友族(ともが
ら)なので」
「十年以上も居座った客人だがな」
真手王は軽快に笑い飛ばした。その姿に、彼の器の大きさがほの見える。
(息長の真手王……そうか、この野州は、息長の領だったのね)
眼前の王を見ながら記憶を反芻し、倭文はやっと合点がいったように一人頷いた。
息長氏は、近江の坂田から湖東にかけて本拠を置いた、古い豪族である。大和から離れているので、宮殿でその一族の姿を見かけたことは殆どなかったが、淡海の水利権を一手に押さえているため、相当な勢威を持った氏族だと聞いていた。
そして、この野州に館を構えた、息長一族の若き王が、この真手王なのである。
「……息長では、客人にしじみを採らせるの?」
倭文は少し警戒を込めて言ったみた。
深海の正体はある程度判ったが、だからといって、しじみ採りなど首長の弟分にやらせる仕事ではない。
「ずっと前から止めろと言っているのだがね。これが意外と頑迷で、首長の命を聞かぬの
だよ」
「だって真手王、何年もただ飯くらいのまま居座ってたんじゃ、僕の気が収まらないじゃないか。何か役に立ちたいんだよ」
「……だからって、なんでしじみなの?」
あけすけな深海の言葉に少し呆れながら、倭文は彼に聞いた。
「真手王の好物なんだ。しじみの酒煮」
「淡海の珍味だよ。郎女も、召し上がられるといい」
深海と真手王は、阿吽の呼吸で言葉を交わす。
その睦まじい姿を見ていると、倭文にも二人の関係がなんとなく判ってきた。
つまり、兄弟以上の義兄弟、というわけだ。
(同母の姉弟でも、わかりあえないのもいるってのにね……)
倭文は、二人の若い男の姿を羨ましく眺めた。
「--そうだ、真手王。それで、この人は、淡海まで旅をしていたっていうんだ。ちょうどいいから、この館に置いてもらえないかな。せめて、この子供の足が直るまで」
朗らかに笑っていた深海は、急に思い出したように言った。
「淡海に旅を? ……ああそういえば、どちらからいらしたのでしたかな」
真手王は倭文に目を向け、再び聞いた。
「……飛鳥の方から……」
少し逡巡した後、倭文は言葉を濁した。
どうもこの王は、深海のように単純ではないらしい。まだ緊張を解けぬ相手に対し、倭文ははっきり本当のことを言いたくなかった。
「そう、飛鳥の姫か。山ごもれる美しの国の麗し女が、淡海の国へ来られたか。--何用
で?」
そのとき、真手王の眼に探るような光が浮かんだのを、倭文は見逃さなかった。
「……特に、用というのではありません。私は山育ちなので、一度淡海というものを見てみようと思いたっただけで……」
「それで、従者お一人だけを連れて、長い道程を旅されてきたと?」
「--ええ」
倭文は注意深く答える。
そんな彼女の様子を一瞥して、真手王は唇の端に笑みを刻んだ。
「……そうですか。まあ、あなたならばそれも大丈夫でしょうな」
「--何故?」
「あなたは、清冽な凛気を持っておられる。不埒な者には、手出し出来ぬでしょう」
真手王は瞳に余裕の色を浮かべて言った。
(ほら、やっぱり気が許せない。この男……)
倭文はずっと明確な事を避けるように返答しているのに、真手王はさっきから的確に本質を付いてくる。
まだ敵か味方かも判らない鋭すぎる男には、注意が必要だと思った。
「ご迷惑ならば、辞去いたしますが」
「迷惑など、とんでもない。淡海は我が一族の誇り。淡海の客人は、一族の客人だ。しかもあなたのような麗し女ならば、大歓迎というもの。深海の無礼もあります。どうか供人の怪我が癒えるまで、ゆっくりと滞在なされよ」
「そうですよ、折角ここまで来たんですから、ね?」
深海も口を添える。彼は、己に負い目がある分必死だった。
少し困った倭文は悩みながら、深海の背で眠る稲目に眼をやった。
安心しきった子供は、出会ったばかりの男の背で、すっかり眠りこんでしまっている。
考えてみれば、小さな子供に無理ばかりさせてきた旅だった。
(たまには、快適な館でゆっくりと休ませてあげようか。怪我もしていることだし……)
まあ仮に、何か不都合な事が起こったとしても、自分の腕ならなんとか切り抜けられるだろう。そのくらいの自信は、ある
倭文は稲目の言った『悪い奴じゃないと思うよ』という言葉を思い出しながら、二人の男に向かって顔を上げた。
「じゃあ、少しだけ……」
倭文がそう呟いた時、野州の王とその弟分は、それぞれ違う表情で満足そうに頷いた。
思わぬ野州の滞在で倭文が知ったのは、息長の若き王はかなりの遊び好きだということだった。
何かにつけ、やれ蒲生野に狩りに行こう、淡海に水鳥を見に行こう、と深海と共に出かけていく。倭文も客人であった為、その殆どにかりだされた。
大和領内では見ることの出来ない珍しい湖国の風景を目に出来るのはいいのだが、時にはこんなに毎日出歩いていてよいのかと疑問に思うことさえあった。
さりとて、真手王は政の方も予断なく行なっているらしい。数日のうちに、倭文には、真手王と深海の義兄弟が族人達からとても慕われ、信頼されている事がわかった。
……そして、真手王は今夜もまた、御館で宴を開いているのである。
明日は新月であるため、その寸前の、消えゆくあえかな月を惜しむ宴であるらしかった。
(雅なのか、無駄にばかばかしいのか……)
倭文は、土器の杯に入った櫟の果実酒を飲み干した。
純度の高い、珍しい酒である。一瞬喉の奥が熱く焼け付いたが、酒に強い倭文はこのくらいで酔いを感じることはなかった。
座の中央には主である真手王が坐し、その左右に(一応の)賓客である深海と倭文が座らせられている。
二十と十八になるという息長の義兄弟は、当時としては珍しいことに、その歳になってもまだ妻や子を持っていなかった。また縁戚の者は、遠地にそれぞれ館を持っているとかで、連夜繰り広げられる宴に、息長王族の他の者の姿を見ることはなかった。
「いつも真手王と二人だけで寂しく呑んでいたのですよ。姫が加わって下さって、賑やかになった」
早くも酔いが回ってきたらしい深海が、仄かに赤らんだ顔で言った。
「確かに。華のない宴とは、ああもつまらぬものだったのだなあ」
真手王が陽気に杯を傾ける。平然とした顔で次々に酒瓶を空けていく彼も、倭文に負けぬ酒豪であるようだった。
倭文たちの前には、真手王の用意させた宴の料理が並んでいた。
赤米の飯、鹿肉の包み蒸し、鮒の串焼き、亀と茸の煮汁、胡桃と団栗の粉で作った焼餅、里芋の煮物、しじみの酒蒸し……と、実に豪勢な食事が美しい皿や椀に盛り付けられている。
真手王と深海の二人は、気持ちよく呑みながらも、同時に勢いよく皿を片付けていっている。しかし元来小食な質の倭文は、皿の料理には手をつけず、高杯に盛られた柿を取ると、一口だけ噛んで外を見た。
館の戸は、夜空がよく見えるようにと、特別に取り払われている。殆ど月の見えない空は、星々ばかりが勢いよく瞬いていた。
(絆の強すぎる他人が一緒にいられるっていうのは……幸いなのか、そうでないのか)
星を眺めながら、倭文はぼんやりと考えた。
深海たちは口でこそ「二人だけではつまらない」などと言っている。しかし倭文の目からは、二人の結束が強すぎるあまり、逆に他人を寄せつけていないのではないかと思われた。
仲が良い……というよりも、深海と真手王は互いに互いを必要としていて、それで二人の世界は完結しているのだ。
義兄弟として育ったせいか、幼なじみとして長年同じ時を過ごしてきたせいか……理由はわからないが、これだけ気の合う友が常に側にいれば、確かに下手な恋人などは必要ないだろう。
――しかし、そんな関係は、永遠に続けられるものなのか?
(まあ、他人が口出しすることではないけれど……)
身内の人間とさえ諍うことの多かった倭文には、二人の睦まじさはむしろ奇異にさえ映った。
「……おや、姫が退屈しておられるようだ」
星を見上げて物思いに耽る倭文の姿を見て、真手王が言った。
「姫も高貴なお身ゆえ、この程度の宴には飽いておられるのかな?」
真手王は木の実を齧りながら、倭文を揶揄する。
相変わらず倭文は身元を明かしてはいなかったのだが、彼はすっかり彼女を「大和の族の姫」と決めつけてしまっていた。
「……いいえ。どちらかというと、宴は苦手な方なので……」
倭文は少し疲れたように言葉を濁す。
じっとしていなければならないのが、耐えられないのである。よく口実を作っては逃げ出していたものだ。
大体、自分がわざわざこの淡海までやってきたのは、一言主の託宣があったからだ。
彼が倭文に探すようにいった『求めているもの』とは、こんなことだったのか?
だとしたら、一言主も随分といい加減な託宣を……。
「おや、そうでしたか。だが、今宵は終わりの月の宴。特別な趣向をお見せできるよ」
「特別な趣向?」
問いかけた倭文に答えず、真手王は立ち上がると手を打った。
「――楽部を呼べ!」
真手王の指示に従い、控えていた従卑が下がると、代わってそれぞれ何かを抱えた数人の男女が前庭に姿を現した。
楽部たちは、下に筵を敷き、抱えていた品を丁寧に下ろす。それらは、細長い台形の形を大小様々なもので、みな一様に金色に輝いていた。
「姫は、あれが何かわかるかな?」
「あれは……」
倭文は目を凝らす。
金色の品には細かな文様が刻まれており、外側には円形の飾りが付けられていた。
「あれは……確か、銅鐸では……?」
「そう。銅鐸だよ」
真手王は誇らしげに言った。
銅鐸とは、収穫などの祭りを祝う時に使われた、神聖な「鐘」である。主に巫によって祀られ、その中には穀霊や地霊が宿ると信じられていた。
しかし、銅鐸がさかんに用いられていたのは、今から数百年も前の時代である。銅鐸は、外敵の悪神の侵入を防ぐ為に呪術的な意味を込めてよく里の境界などに埋められていたが、多くはそのまま忘れ去られていた。
倭文は、偶然掘り出された物を、いくつか見たことはある。それらは緑青がついて変色し、あまり顧みられることもないままに、社の片隅などに置かれていた。
「大和の国々では……今では滅多に見かけません。最近は、祀りには銅鏡を使うのが一般的で……」
「そのようですな。だが、この野洲では今も銅鐸を作り続けている。姫は、新しい銅鐸を目にされたことはないのでは?」
「ええ。初めてです」
倭文の目は、一番大きな銅鐸に釘付けになった。
それは、軽く子供一人分くらいの大きさはある。庭に鎮座した銅鐸は松明の火を受け、妖しく金色に輝いていた。
「――今宵は、大和の姫が客人に来ておられる。稀やかな、野洲の音色を聞かせて差し上げよ」
真手王が命ずると、楽部たちは持っていた銅鐸を抱え直した。
一番小さな銅鐸をもっていた女が、それを揺らす。
キィーンッと、高い音が空気を震わせた。
それを合図にして、他の楽部たちも、それぞれの銅鐸を鳴らし始めた。
――それは、不思議な音曲だった。
小さな銅鐸を抱えた者達は、それを振って音を出している。しかし、抱えきれぬほど大きな銅鐸についた者達は、バチを振るって銅鐸の外側を叩いていた。
旋律があるわけではない。音階もない。
しかし紡ぎ出される銅鐸の音色は、聞く者の魂の奥に深く染み入ってきた。
霊妙なその音色は、古から時を越えて渡ってきたのだ。冷たい秋の夜に響く古い鐘の音は、傾きながら消え行く、あえかな月の夜の淡海に相応しかった。
(……え?……)
しばらく銅鐸の音に聞き惚れていた倭文は、やがてその音色に妙な音が混じっているのに気づいた。
微かだが、遠くから、何か地を踏み鳴らすような音が聞こえて来るのだ。
倭文は振り返って二人の方を見た。
深海は、怪訝な表情をしている。真手王は、緊張を浮かべた瞳で里の方を見据えていた。
「ねえ、今、何か……」
倭文が言いかけた時、真手王が再び立ち上がった。
「――止めよ!」
鋭い声で一括する。
途端に楽が止み、代わって血相を変えた供部が彼らの前に飛び込んできた。
「た、大変でございます、真手王さま! どこかの軍が、この里を取り囲んでおります!」
「――なんだと!?」
真手王は形相を変える。和やかだった宴の雰囲気が一変した。
「奇襲か! この息長に対し、いい度胸だ。一体どこの軍だ! 返り討ちにしてやるっ」
突如激しく息巻いたその姿に、常とは違う真手王の王将としての苛烈な顔が現れていた。
「い、いえ、それが……どうも様子が変で……」
伝令の供部は、困惑したように言葉を濁す。
「どうした、はっきり言え!」
「そ、それが、ものものしい軍は里をとりまいているのですが、一向にこちら側に対して攻撃をしかける様子はなく……将と名乗る男が言うには、真手王さまにお話したい事があると……」
「なんだと?
真手王は剣呑な瞳のまま、怪訝な表情になった。
腕を組んで暫く黙考すると、真手王は深海に問う。
「――どう思う?」
「……僕は、その人の話を聞いてみたほうがいいと思うけど」
深海は真手王を見上げ、毅然とした口調で言った。
「――わかった。連れてこい」
すかさず供部に命じる真手王を見て、倭文は驚愕した。
いくら親しい義弟とはいえ、こんな緊急の重大事を、他人の一言で決してしまうなんて、倭文の――葛城の常識では、理解できないことだった。
(なんなの、この二人は……)
倭文は半ば呆れながら、尋常でない事の成り行きを見守る。
やがて、緊迫する空気の中に、息長の供部に連れられた短甲姿の武人が現れた。
「――貴公か。この軍を、我が息長の領に差し向けた将は」
真手王は武人を見下ろしながら、敵愾心を込めて問いかけた。
「――いかにも」
武人は、顔を伏せたまま短く返答する。
「敵意あってのことか。ならば、この場で貴公の首をはねる」
「いいえ、決して。息長の地を侵す意図ではございません」
武人は臆する様子もなく、丁寧に言葉を返した。
「ならば、汝は何者か! 速やかに答えよ!」
真手王が鋭く命じる。その言葉を受け、武人が初めてその顔を上げた。
(あれは……っ)
松明に照らされた武人の顔を見た途端、倭文は喫驚し、反射的に領巾で己の顔を隠した。
「我は、物部の大連、荒鹿火と申すもの。息長への突然の非礼、幾重にもお詫びいたす」
「――物部の大連?」
武人の名を聞いた真手王は、より不快そうに眉をひそめた。
「大和朝廷の大将軍が、何ゆえに兵を率いて息長まで来るか。これは、大王の命であるというのか?」
「……宮殿には、ただいま大王はおられませぬ」
「――何?」
「さればこそ、我ら軍を率いてこの淡海までまかりこしました。我が主となられる方を求めて」
「汝の……主だと?」
真手王は、ふと声音に猜疑を混ぜて反芻した。
ただ居丈高だったそれまでとは、少し様子が違う。
「こちらの館に、三尾の亡き彦主人王の御子がおられると聞いて参りました。どうか真手王どの、我らとお引き合わせ願いたい……」
「それは……っ」
真手王は、途端に口ごもる。
目に苛ついた光を浮かべた彼が、明らかに狼狽しているのが見てとれた。
「真手王どの、どうか!」
真手王の威勢が弱まったのを見て、荒鹿火は更に迫った。
その時、緊迫する人々の中で、それまで静かに成り行きを見守っていた深海が、黙って立ち上がった。 ゆっくりと歩を運び、真手王の隣に並び立つ。
「……僕です」
「――深海っ!」
止めようとする真手王を制し、深海は片膝をついて荒鹿火を見下ろした。
「僕が、彦主人王と振媛の息子です」
深海は、優しげに微笑みながら、穏やかに告げた。
「おお、では、あなたが……!」
荒鹿火は、歓喜の瞳で深海を見上げる。
「あなたが、誉田別の大王の裔の御子であらせられるか……!」
(なんですって!?)
倭文は仰天し、思わず高杯を蹴飛ばして立ち上がった。倒れた高杯から、柿や梨が転がっていく。
葛城の王姉と息長の青年王と大和の将軍は、それぞれ入り乱れた胸中のまま、やがて彼らの運命をかき乱すことになる一人の穏やかな青年の姿を、ただ言葉もなく見つめていた。
(第三章おわり 第四章へつづく)