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月傾く淡海  作者: かざみや
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第一章  「最も旧き一族」

「月傾く淡海」(つきかたむくおうみ)は、五~六世紀頃の古代日本、継体天皇即位期から、黎明の飛鳥までを舞台とした物語です。

動乱の古代日本を、古い豪族である葛城一族の姫の目を通して描きました。

 見渡す限り、そこは金色の海だった。

 山裾の緩い傾斜を利用して作られた棚田には、一面に黄金の稲穂が実る。涼やかな秋の風が吹き抜けるたび、重そうな実をつけた緑の茎はざわざわと揺れた。

広い稲の海には、それを区切るようにして縦横に紅い帯が走っている。ちょうど、盛りを迎えた彼岸花だ。

 金と紅と緑の織りなす鮮やかな色彩の海の中を、一人の娘が渡っていた。

 背の高い娘は、短めの裳裾を捌きながら早足で歩く。向かいからやってきた農夫が娘に気づき、頭に乗せていた被りものを取った。

「これは、姫さま」

 農夫は肩に担いでいた鋤を下ろし、愛想よく娘に笑いかけた。

「このようなところでお見かけできるとは。今日は、よき日ですな」

 農夫の青年は屈託なく言った。

「……随分見事に実ったわね。美しいものだわ」

 娘は、黄金の海を見回しながら呟く。

「そうですなあ。これも全て、一言主さまのおかげでありましょう。まこと、この地は古くから護られております」

「そうだといいけど」

 娘は、風になびく長い髪を押さえながら答えた。

 つやのあるその髪は、少し茶色味が強く褐色に近い。この国では珍しい色合いだったが、それは娘によく似合っていた。

「無論、香々瀬王さまのお導きあってのことですが」

 そっけない娘の態度に、農夫は慌てたように付け足した。それを聞いて、娘は思わず苦笑する。

「それこそ、どうだか分からないわ」

 娘は突き放すように言った。農夫は、これ以上この話題に踏み込まぬ方がよいと判断し、さりげなく矛先を変える。

「……ところで倭文しどりさま、今から葛城山へ行かれるので?」

「ええ」

 娘--倭文は、棚田の彼方に鎮座する山を見据えながら答えた。

 鋭角的にそびえるこの葛城山は、この地の国見の山であり、古より霊畏を持つ神奈備として畏れられてきた。その為、族人であってもおいそれと近づく者はない。

「お気をつけくださまし。今日はよい天気ですが、秋はあっという間に日が落ちてしまい

ますからな」

「そうね……」

 倭文は、澄み切った青空を見上げた。

「でも、私には無用の忠告だわ」

「はあ、確かに……」

 倭文の帯から下がった平剣にちらりと目をやり、農夫はきまり悪そうに言葉を濁した。「今度、香々かがせにでもあったなら、そう言ってやることね」

 そう言うと、倭文は再び稲の海の中を歩き始める。

 その颯爽とした後ろ姿を見送り、農夫は深々と頭を垂れた。

「まったく、大した御方だ。ああ、あの方が首長おびとになってくだされば、本当に

よかったのに。何故……」



 葛城の里に降り注ぐ秋の陽光も、神山の奥深くまでは届かない。

 踏み入るものを惑わせるように複雑に入り組んだ暗い林の中を、倭文はためらうことなく歩いていた。

 代わり映えしない景色の中を、どれくらい登っただろう……不意に、周囲の温度が変わったのに気付く。

 ひんやりとした、冷気。自然のものと違い、そこには、明らかに拒絶の意志がある。

(……結界に触れたかな……)

 倭文がそう判断した時。

 空気を切る鋭い声が、突如林の中に響き渡った。

「--俺の領域を侵そうとする者は誰だ?」

 敵意に満ちた神気が木々を震わせる。呼応するように、僅かに色づいた木の葉が空に舞った。

 並の者なら、その声を聞いただけで、腰を抜かすか逃げ帰っただろう。

 しかし、倭文は平然としたまま上を向いて言った。

「私よ。--わかっているくせに」

 落ち葉の隙間に目を凝らすと、高い木の枝に腰掛けている人影が見えた。

 臆することなく、倭文は更に呼びかける。

「降りてきなさいよ--葛城の一言主ひとことぬし!!」

 急に、周囲を支配していた緊迫感が解けた。

 ザッと激しい音がして、人影が枝から飛び降りる。

 反射的に目を伏せた倭文の前に、声の主はその異様な姿を見せた。

「……我は悪事まがごとも一言、善事よごとも一言にいいのべる、言離ことさかの神。--葛城の一言主の大神なるぞ」

 そう泰然と言い放つと、「一言主」は左手に持った長矛を地面に突き刺した。

 現しうつしみの神である一言主は、人の形をしていた。ほっそりとしたその姿は、少年のようでもあり、青年のようでもある。

 彼は、高い歯のついた下駄に、膝下で切った短い黒袴を履いて立っていた。襟足のあたりで無造作に切られた髪は、紫かがった銀色をしている。


「いつもいつもそうやって遊ばないでよ。他にここまでこれる人間がいるわけないじゃない」

「……まあ、お前以外のやつが踏み込んだら、その場で殺してやるよなあ」

 言いながら、にたあ、と赤い唇を歪ませて一言主は笑った。

 彼は顔の上半分を、文様の入った仮面で覆っている。その表情を伺い知ることが出来るのは、ただ口元からだけだった。

「長い間、そういうことばっかりしてたから、ここに誰も寄りつかなくなったのよ」

「別に人間と交わりたいと思ったことはないんでね」

 にべもなく一言主は言う。

(まったく、これが葛城一族の「護り神」っていうんだから……)

 倭文はそっと、ため息をついた。

「なんなら、香々瀬の奴でも送り込んでみるかい?」

「……私は弟を殺したいわけじゃないわ」

「でも、好きじゃないだろう? ああ、嫌いっていうのか、そういうのは」

 一言主は、長矛を肩の上に担ぎ上げて言った。

「巫女姫に生まれなかったっていう理由だけを振りかざして、お前が葛城の首長になるのを邪魔した奴だぜ? 何故俺にやらせない? ……それとも」

 一言主は、倭文の持つ平剣を指さした。

「自分でやりたいって?」

「……別に、首長を『譲った』わけじゃないわ」

「へえ?」

「私は、『なりたくなかった』のよ」

「なんで」

「めんどうだから、王なんて」

「……いいねえ!!」

 一言主は、手を打って喜んだ。

「そういうところ、すっげー気に入ってるんだ」

 楽しそうに笑い、一言主はどんどん砕けた口調になっていった。

「だから、気が合うと思わねえ? まあ大体さ、本当に力を持った巫女なんて、葛城だけじゃない、もうどこの一族にも生まれないんだ。時代が必要としないんだよ」

「……そうかもね」

 そう答えながら、しかし倭文は矛盾を感じた。

 だって、「神」はいる。今こうして、目の前に。

 ……まあ実のところ、未だにその実感などないのだが。

「ねえ! 別に、そんなこと言いにきたわけじゃないんだけど」

「ふうん。じゃ、何しに来たんだよ。俺に会いたかったの?」

 一言主は、嘲弄するような口調で聞く。

「まあ、確かにそうね」

「うそつき。倭文は、嘘つきだ」

 拗ねたような一言主の物言いを、倭文はとりあえず無視することにした。こんな所でひっかかっていては、話が進まない。

「いいから、聞きなさいよ。……都で、大王が死んだのよ」

「……大王? どの大王が?」

若雀わかさざきの大王よ」

「若雀……? --ああ。二十五代目の奴か……」

 口元に手をやり、一言主は何か考えを巡らしながら呟いた。

「そいつ……多分……あと何百年かしたら、『武烈』って諡号される奴だなあ……。俺、結構気に入ってるんだ、その名前……」

「『しごう』?」

 意味の分からぬ言葉を聞かされ、倭文は思わず問い返した。

「……ああ、いい。今のお前らには、わからないことだから」

「そう」

 こういう時、倭文はいつも深く追求しないことにしていた。

 一言主はまがりなりにも「神」だから、倭文たち人間には見えないものが見え、知らないことを知っている。

 それは、『あたりまえ』のことだから、考えるだけ無駄というものだった。

「孕み女の腹を裂いて、生まれる前の赤子を引き摺り出したり、生爪を剥いだ手で山芋を掘らしたって奴だろう?死んでよかったんじゃねえ? みんな、喜んでるだろうよ」

「大げさね」

 倭文は軽く眉をしかめてたしなめた。

「そんなのは皆、反葛城派の流した根も歯もない流言よ。私は何度かお会いしたことがあるけど、政務に熱心で、法令にもお詳しい方だったわ。……それは確かに、人並み外れて裁きに厳しい方だったけど……。どちらかといえば、むしろ小心な男よ」

「へえ」

 一言主はあまり興味なさそうに呟いた。

「で、そいつが死んだわけだ。--病死? 頓死?」

「死の原因はまだ明らかにされていないわ。--というより、『大王崩御』という事実自体が、公にされてはいないのよ」

 倭文は厳しい表情で告げた。

 

この葛城の地からさほど遠くはない、大和の泊瀬にある列城宮なみきのみやを都としていた『若雀の大王』が崩御した、という知らせが倭文の下へ届いたのは、今朝方の事だ。

 倭文は仮にも、古来からの雄族である葛城氏の族長の姉--というより、族人はみな、倭文を事実上の女王として崇めている。

 表向きは、首長を継いだ弟の香々瀬に政を取らせていたが、実際倭文は、それを凌ぐほどの権力と情報網を握っていた。

 無論、大和朝廷とも独自の繋がりを持っている。香々瀬の所に正規の使者が来る前に、倭文は既にこの重大な報告を耳にしていた。

「どう公表するかは、朝廷の官人たちが考えることだろうけど……私が知っている限り、自然に亡くなったのではないわね。--殺されたのよ」

 倭文は一言主の仮面を見つめて言った。

「……お前が殺したの?」

 一言主は楽しそうな声音で聞く。

「いいえ」

「なんだ。だったら、面白いと思ったのに。じゃあ、香々瀬が命じたのかな」

「若雀の大王崩御の知らせを聞いて、この豊葦原で一番青ざめるのは、他でもない香々瀬でしょうよ」

 言いながら、倭文は頭が痛くなってきた。

 今頃王の御館の中で、あの余裕のない弟は、どれだけ取り乱して騒ぎちらしていることだろう。

 そして必ず、重臣や族人たちは、自分を頼ってくる。

 この、葛城にとっての危機をどうにか乗り切ってくれると信じて。

 しかもそのことが、余計に弟を焦らせ、ありもしない猜疑にかりたてさせるのだ……。

(いっそ、異母弟ならば、処断のしようもあるけど。同腹ってのは、ほんとにやりにくい……)

 生まれてまだ十七年しかたっていないというのに、倭文の人生は面倒なことの連続だった。

 葛城の女首長だった母がなくなり、散々頓着した後継問題に方がついたのは、ついこの間のことだ。もう当分、厄介はごめんだと思っていた。


「……葛城の長い歴史の中でも、最も偉大な王であられた《荒のすさのきみ》襲津彦さまが娘の磐之媛さまを『大雀おおさざきの大王』の大后に据えられて以来、葛城は代々の大王に后を出しながら、外戚として勢力を誇ってきたのよ」

「大雀の大王っていうと……ああ、『仁徳』の諡号をもらう奴ね。なんだ、あれからもう二百年も経つのか」

 一言主は指を折りながら、ゆっくりと数えた。

「俺、あいつ嫌いだったなあ……ほら、『雄略』っての。お前らの言い方でなんていうんだっけ? 二十一代目の、今から四十年くらい前に、人殺しばっかやったやつ」

「二十一代目の大王? ……確か……ああ、泊瀬の大王ね……」

 思い出した途端、倭文は苦虫を噛み潰したような表情になった。

 一言主は『仁徳』だとか『雄略』だとか、彼独特の呼び方をしているが、「泊瀬の大王」といえば、葛城の血を持つ全ての者にとって、決して忘れられない存在である。

 あの大王の時、葛城は決定的な転機を迎えたのだ。

そもそも、大雀の大王以来、大王家と葛城一族は良好な関係を続けてきた。

 大和地方に最も古くから続く最大の豪族・葛城氏は朝廷の政権下でも随一の雄族として、大王家と共に支えあい、協調しながら王朝を維持してきたのだ。

 互いに切り離せぬはずのその均衡を、あの異端の覇王は徹底的に破壊した--いや、しようとした。

 倭文が思うに、恐らく泊瀬の大王は完全な独裁政権を作りたかったのだろう。

 大和の王権は古来より、有力豪族の合議制によって成り立っていた。大王は盟主としてその地位を保証されているものであり、けして単独で抜きんでるものではなかったのだ。

 しかし、泊瀬の大王はそれに納得できなかった。彼は、大王家による単独支配を目指して、有力な豪族を次々に攻撃した。

 その一番手に狙われたのが、他でもない葛城である。

「あの大王のせいで……玉田葛城氏は滅亡してしまったのよ……」

 倭文は悄然と呟いた。

 

 ……それは、乱から数十年を経た今でもなお、葛城一族全ての痛みとして残る出来事だった。

 葛城襲津彦以降、葛城一族はその子である葦田宿禰を祖とする「北系葦田葛城氏」と、玉田宿禰を祖とする「南系玉田葛城氏」とに別れていった。

 玉田葛城の族長・つぶらが大臣についていた「穴穂の大王」の御代に、皇族の一人である「目弱王」という人物が大王を弑逆する、という大事件が起きた。

 事件の後、目弱王は葛城の円大臣のもとを頼ってきた。円大臣は、いかなる考えあってか分からないが、このよるべのない「反逆者」を己のもとに匿った。

 この時「穴穂の大王」の弟であった泊瀬は、自ら兵をあげ、葛城の地に踏み込んだ。そして目弱王もろとも、葛城の民を皆殺しにしたのだ。

 泊瀬は十九代目の大王の皇子だったが、彼には兄達が多くいた為、元々の皇位継承の順位は低かった。しかし、この「目弱王の乱」に乗じて、邪魔となる兄達をも全て滅ぼしてしまうことに成功したので、泊瀬は大王位を掴むことが出来た。

 倭文たちは、葦田葛城氏の末裔にあたる。それ故、この事件による直接的な影響を受けることはなかった。事実、それ以降も、葦田葛城氏は大雀系の大王に多く后を送り込み、今日までも結びつきを続けている。

 しかしあの「目弱王の乱」で、間違いなく雄族・葛城氏の権威は傷ついた。そして、祖を同じくする一族の半分が滅亡させられたのである。  


「あの泊瀬の奴が、好き放題やったから、奴が死んでからもおかしなことが続いたんだぜ」

「まあ確かに、今考えてみれば、全ての遠因はあの大王にあったような気もするわね」

 倭文は一言主の意見に同意した。

 専制支配をめざした泊瀬の大王は、多くの地方豪族を滅ぼした。そしてまた、皇位継承の障害となる、自分以外の皇族を数多く謀殺したのである。

 その結果皮肉なことに、彼自身が崩御した後、その後継が跡絶えてしまうという事態が起こった。

 一度は泊瀬の第三皇子・白髪が大王として立ったのだが、彼は后も子も持たぬうちに早逝してしまった。

 さて、白髪が崩御したあと、朝廷には後継たるにふさわしい皇族がいなくなってしまった。泊瀬があまりにも同族を殺しすぎた為である。

 結局、泊瀬の従兄弟であり、その聡明さ故に泊瀬によって暗殺された市辺押歯別王の妹・飯豊郎女いいとよのいらつめを担ぎ上げ、女王に据えた。

 しかし飯豊郎女は巫女王であり、生涯独り身を貫く立場にあった為、やはり後継問題は続くこととなった。

 そこで女王の在位中に、播磨まで行って市辺押歯別王の遺児・億計王と弘計王の兄弟を見つけだし、順番に王位につかせたのだ。

 その億計王の日継(皇太子)として大王を継いだのが、昨夜崩御した「若雀の大王」なのである。


「ずいぶん無理をして大王家を存続させてきたもんだよなあ。……大体、億計と弘計の兄弟は、ほんとに王族の血をひいてたのか? まったく、嘘くさいったら、この上ないぜ」

「そこに疑念をはさむと、若雀の大王の正統性にも問題がでてくるのよ。葛城は、若雀の大王を大雀系の王統と認めて後見してたんだもの。……疑うわけにはいかないわ」

「……そこら辺に不満のあった連中の仕業じゃねえの?大王暗殺、なんてのはさ」

「……そうかも知れないわね」

 ――だとしたら、この一件は根が深い。

 倭文はそう思った。

「……ふーん」

 考え込む倭文をしばらく見つめると、一言主は不意に大声を出した。

「よし、倭文、ついてこい!」

 言うやいなや、一言主は身を翻して駆け出した。

 高歯の下駄を履いているというのに、器用に地面を蹴りながら、ひょいひょいと飛ぶように走っていく。

 その、身軽なこと。

「ちょっと待ってよ! こっちは『ただ人』なんだからね!」

 倭文は慌てて一言主の後を追った。

 この神のきまぐれは、今に始まったことではない。

 姿を隠すも現わすも、ただ気分しだい。その場の思いつきでどこへでも行ってしまう。

 倭文も若い娘にしては相当足が早いほうだが、それでも見失いそうになる一言主の背を追って必死に走った。

「……ここまでおーいで!」

 そう叫ぶと、一言主は足を止め、くるっと振り返った。

「これは……」

 追いついた倭文は、肩で息をしながら瞳を上げた。

 彼女の眼前に現れたのは、見事に紅葉した銀杏の大木だった。

 おそらく、齢数百年は経ているだろう。その幹は、倭文が両手を広げたよりも太く、天に向かって無数の枝を突き上げていた。

 秋はまだ始まったばかりであり、周囲の林には緑を残した木々も多い。

 しかしこの大銀杏は全身に見事な黄金の葉をつけ、まるで金の雪のように、空からはらはらと落葉を舞わしている。

 この世ならぬ光景だ。

 倭文はそう思い、しばし大銀杏に見とれながら夢見るように言った。

「これは……あなたが依り憑ついている大木じゃないの、一言主?」

 問われた一言主は答えぬまま、太い幹に巻かれた古い注連縄に触れた。

 そして軽く下駄で地を蹴ると、一番下の枝に飛び上がる。

「一言主が『赦してやる』よ。……さあ倭文、おいで」

 枝の上でしゃがみこむと、一言主は倭文に向かって手を差し出した。

 少しためらった後、倭文は右腕を上げて一言主の手を掴む。

(うわ、冷たっ……)

 人にはありえぬその感触に、『神』に触れた違和感を覚えた途端、倭文の体は枝の上に引き上げられた。

「一番上まで行こうぜ!」

 一言主は、倭文の腕を掴んだまま、次々に枝を蹴って登り始めた。

 一見華奢なその体のどこにこれだけの力があるのか。

 倭文は引き上げられながら、抗議の声をあげた。

「ちょっと、私は人間なんだから! 腕が抜けちゃうでしょう?」

「これっくらいで泣き言いうなよ。それでも、俺の『弟子』かあ!?」

 一言主は平然と跳躍を続ける。

 目に入りかけた銀杏の葉を避けようと、倭文が瞳を閉じた時、一言主の動きも止まった。

「はい、ついた!」

 大声で叫ぶと、一言主は急に倭文の腕を離した。

 よろけそうになった倭文は、慌てて枝にしがみつく。

「ああ、やっぱり、いい眺めだなあ……」

 枝の上にしゃがみこんだ一言主は、感じ入る様に呟いた。

「ほら倭文、見てみろよ!」

 枝の上に座り直した倭文は、一言主の指さす方へ目をやった。

 いつのまにか大銀杏の一番上まで登ってきていた二人の眼下には、広大な大和盆地が広がっていた。

 この山に固まれた盆地の、西南に位置する葛城は、大和の要にあたる。

 ここから東には、耳成山・畝傍山・天香久山の大和三山に守られた「飛鳥」の地があり、その更に向こうには多武峰が見える。

 多武峰を北へ進むと、大物主神の神奈備である三輪山と布留の石神を繋ぐ山の辺が続いており、その辺りには古の大王の陵が多く造られていた。

 反対側へ目をやれば、斑鳩・矢田の地を越えて生駒山がそびえている。そして山ごもれる恵みの地は佐保の領を越え、彼方の山背国にまでも続いているのだった。


「……ここは、特別な地だよ」

 冷風に銀髪をなびかせながら、一言主は言った。

「筑紫からやってきた『崇神』も、山背からきた『応神』も……いや、そのもっと前の奴らも。豊葦原を制覇しようと野望を抱いた奴らは、皆ここを目指してやってきた。もっとふさわしい地が、いくらでもあったかもしれないのに……。それでも、豊葦原の中心はここでなければならない、とでもいうように。覇王はみんな、ここに都を築きたがる」

「……何か、魅かれる理由があったのかしら」

 倭文は山裾の里を見下ろしながら呟いた。

 広いような気もするし、狭いような気もする。

 けれどここは、自分の生まれ育った地だ。いいも悪いもなく。

 この地で生きていく宿命を、ただ受け入れてきただけのこと--。

「さあ。わからない。……だけどね、倭文」

 一言主は、枝の上で器用に立ち上がった。

「ずっと、ずうっと前……最初に『大王』を名乗ったあいつ……遠い日向から来て、土着していた長随彦たちを皆殺しにし、初めに都を造ったあいつが来る遙か古から……葛城の一族は、ここにあったんだ」

 恬淡と語る一言主の横顔を、倭文は座ったまま見上げた。

「葛城は、この豊葦原で最も旧い一族だ。この国の歴史は、常に葛城と共にあった。--そうさ。『応神』が河内王朝を、『崇神』が三輪王朝を開く遥か以前、ここには葛城の国が……「葛城王朝」があったのさ--!」

 一言主は話しながら空へ向かって指を突き出した。

「素晴らしい国だったよ。倭文、覚えてない!?」

「……『覚えてる』わけはないけど。そういう伝承は、古老から聞いたことがあるわ」

 倭文は冷静に返した。

 一言主が具体的に「何歳」なのか、これまで聞いてみたことはない。けれどおそらく、途方もない時を超えてきたであろうこの『神』の中では、時々時間軸があいまいになるらしかった。

「事実かどうかは、分からないけどね。大体どの一族も、自分たちの歴史を美しく誇張したがるものだわ」

「本当さ! 俺は今だって覚えてる。--葛城は、本来自分たちの王朝をもてるだけの力を持った一族だったんだ。……今の葛城は随分変わっちゃったよね。襲津彦のせいだけど。あいつが外戚政治なんか始めたもんだから、後の連中がみんな真似をしたんだよ」

「--襲津彦さまを貶めるようなことを言うんじゃないわよ」

 倭文は幾分低い声で反駁した。

 実のところ、「葛城襲津彦」は倭文が最も尊敬する先人だった。その点でいえば、この奇矯な神への崇拝を遥かに上回る。

「それに実際、葛城は常に他氏族との抗争を繰り返してきたのよ。その度に傷ついたり、危機を迎えたりしてきたわ。……今の立場は、一番効率のいい方法だった。生き残るために……」

 そう言っている内に、倭文は現実を思い出して憮然となった。

 また今、この時、葛城は窮地を迎えたではないか。しかもよりによって、自分が(事実上)一族を率いなければならないときに……。

「……泊瀬の大王以来の後継のごたごたがやっとおさまり、葛城が立てた若雀の大王の後見として盤石を固めようという所だったのよ。しかも、これから后妃を送りこもうとしていたのに。あの大王は、皇子も皇女も残さないまま、死んでしまったじゃないの!」

 叫ぶと、倭文は乱暴に肩の髪を払った。

「間違いなく、これから宮殿は混乱を極めるわ。泊瀬の大王の時と同じよ。皇族には、もうめぼしいのが残ってないんだもの。……しかも、これを機に今まで葛城に反目してた連中が立ち上がるでしょうよ、きっと……」

 倭文は珍しく、腹立たしげにまくしたてた。

 --考えるだけで、気が滅入る。

 同じことが起こるにしても、何故先代や次代の時ではなかったのか。ほんの少しずれてくれれば、まだよかったのに。

「--一言主。……葛城は、どうすればいい?」

「……うーん。その問いには、答えたくない」

 一言主は、無邪気に無責任なことを言った。

「ふざけないで。あなた、葛城の託宣神じゃない。何か言いなさい」

「俺は葛城の地祇だし、葛城が好きだけど……別に、どうしても護らなきゃいけないとも、思っちゃいないんだなあ」

「ああ、そう……」

 一言主の返事を聞いて、倭文は力が抜けた。……いや、こういう奴だとは、知ってはいたが。

「でもおかしいじゃない、倭文? 俺が、お前を気に入ってるのはさ」

 一言主は倭文の顔を見て嬌笑を浮かべた。

「葛城の最も旧くて純粋な血を引いているとこ。人並み外れて武術の腕がいいとこ。結構綺麗な顔してんのに、わりと表情の乏しいとこ。恵まれてて期待されてるのに、あんまりやる気のないとこ。……この四つだぜ? それなのに、一族のために躍起になるなんて、らしくないよなあ」

「……私だって、面倒なことは嫌い。できるなら、放り出したいわ。でも、やりたくなくても、やらなきゃいけないときがあるよ、人間にはね」

 倭文は、自身に言い聞かせるように言った。

 弟に首長を任せた時は、まだ平和な時代だった。このまま順調に行けるだろうと思ったからこそ、後見に回ったのだ。

 だが、時流は思わぬ方向へ向かって傾き始めた。

 この難局をあの単純な弟に任せたままにすれば、間違いなく葛城は道を過つだろう。

 自分の生まれた一族が危機にあるというのに、知らん顔をしているわけにはいかない。

「ふううーん。……変なの」

 一言主はどうでもよさそうに呟いた。

 そして再び、眼下の盆地へその顔を向ける。

「……ねえ、倭文。ここには都があって、人がいて、食べ物や衣もあって……豊葦原の中で、人が欲しいものはなんでもある。--でも、一つだけ、この地にないものがあるんだ。何だと思う?」

「ここにないもの? さあ……」

「--淡海うみだよ」

 一言主は鋭く言った。

「この地には、たゆたう水の護りがない。--それが、ただひとつ、けれど決定的にここに欠けているものだ。……ここで起こる全ての禍いは、その不均衡に原因がある……」 淡々と呟いていたかと思うと、一言主は急に倭文の方を向き直った。

 突如彼の周りに、威容に満ちた気配が漂う。

「--葛城の倭文姫。近つ淡海の国へ行くがいい……」

 一言主は厳然と告げた。

 その凄味のある声は、直接倭文の頭の奥へと響いてくる。

「湖国に、お前の求めるものがある」

「近つ淡海ちかつおうみ湖国ここく……淡海の国……近江?」

 倭文は、一言主の言葉をひとつひとつ確認するように反芻した。

 近江は、山背の向こうの国だ。確かにそこには、巨大な真水の海があると聞いたことがある。

「……それは、言離ことさか? 葛城の一言主」

「--我は、悪事も一言、善事も一言に言い述べる神なるぞ」

 そう言うと、また突然一言主の雰囲気が変わった。

 彼は、倭文を嘲弄するように唇を歪める。

「俺は、託宣を下すだけ。どう判断するかは、聞いた奴次第さ」

「今この時に、私が葛城の地を離れる、っていうの?」

「それもいいんじゃねえ? さっき、逃げ出したいって自分で言ってたろ。それもまた、

一つの手さ」

「だからって……」

「葛城の首長は香々瀬だ。お前はただの王族、王の姉ってだけさ。--お前がどこで何をしようが、お前の勝手だろう?」

 枝の上で立ったまま腕を組むと、一言主は突き放すように言いきった。

「--決めるのは、いつだって人間さ。神はそこまで面倒見ねえよ」



(第一章おわり 第二章へつづく)

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