5、秘書官
六月末、マクガーニ中将閣下は退任し、入れ替わりに第三王子であるアルバート殿下が陸軍司令に就任した。
わたしは今まで通り、朝の八時から夕方五時までの八時間勤務を続けているが、殿下の勤務形態はマクガーニ中将よりよほど不規則で、昼過ぎや、ひどい時は夕方にようやく出勤されることも多い。その代り、家族のいない殿下は夕食のために家に帰るという感覚がないので、興が乗るとずいぶん夜遅くまで仕事を続ける日もあると、家族持ちのクルツ主任が零していた。――時間給で働くわたしは、許可なく残業したところで銅貨一枚分の金にもならないので、当然、時間きっかりに退勤する。
ある日も、終業時刻になってわたしが帰り支度をしていると、王宮での会議を終えた殿下が入ってきて言った。
「なんだ、もう帰るのか」
「はい、時間ですので。殿下のサインの必要な書類はデスクに置いてありますので、明日の朝までにサインをお願いします。……では、お先に失礼します」
わたしは出勤簿にサインしてクルツ主任事務官に渡し、殿下や副官の方々に頭を下げ、布製の鞄を持って部屋を出る。
ちょうど終業時刻だから、門の周辺には他の事務補佐官の女性たちもいた。マリアン・ブレイズがわたしの姿を認め、小走りに近づいてきた。
「エルシー! あんた上手くやったわね! 王子殿下の直属だなんて!」
大きな声で言われ、周囲の他の事務官補も一斉にわたしを見た。
「引継ぎのための期間限定よ。殿下の配下の方たちは、事務仕事に不慣れだそうで」
「でも、正規の事務官でもないのに、王族に仕えるなんて」
「正規の事務官はクルツ主任しかいないもの。一人じゃあ、いくら何でも回らないし、他から連れてきたのでは同じだからってことで。苦肉の策よ」
わたしが速足で門へ向かいながら言えば、マリアンは必死に食い下がってついてくる。
「アルバート殿下って間近に見ても素敵よね! あのセクシーな黒髪に金色の瞳!」
「そうかしら、忙しくてよく見る暇もないわ」
「でも正式ではないけど、婚約者がいるのよね? 残念ねぇ……」
うっとりマリアンは言うけれど、殿下が独身だろうが何だろうが、わたしにはどうでもいいので、それについての論評は控えた。
「今度あなたの職場に行っていい?」
「だめよ、屈強な護衛がいつもついていて、関係ない者は入れてはいけない規則になっているの。あと、殿下の話を外でするのも禁止なんですって。守秘義務なの。ごめんなさい、ここで失礼するわ」
わたしはまだ何か聞きたそうなマリアンを制して、門を出た。
やれやれ、と思ったのもつかの間、一難去ってまた一難、今度はニコラス・ハートネル中尉が声をかけてきた。
「さすがだね、エルスペス・アシュバートン嬢。王子殿下まで手玉に取ったかい」
「何のことです」
「爵位無しの、臨時雇いの事務職員が王子殿下の直属だなんて、異例だよ。殿下は君のブルー・グレーの瞳に魅入られてしまったらしい。さすが、『氷漬けの処女』」
わたしは露骨に不愉快そうに眉を顰め、ハートネル中尉を睨む。『氷漬けの処女』というのは、どうやらわたしの渾名らしい。以前、聞いてもいないのに、ハートネル中尉が教えてくれた。――愛想の欠片もないからだそうだが、余計なお世話だし、下世話で本当に不愉快だ。
「単なる引継ぎのためです。それに、殿下には結婚が決まった方がいらっしゃるそうですし」
「でも君がマクシミリアン・アシュバートン中佐の娘で、元リンドホルム伯爵令嬢だからだろう?」
「父のことはご存知のようですが、特には何も。雇用も引継ぎのための期間限定です」
わたしはそう言い捨てると、まっすぐ前を見て歩くスピードをさらに上げる。毎日、この男を振り切るために、わたしの足はものすごく早くなってしまった。
脹脛を覆うロングスカートの裾を蹴立てる勢いで歩いているのに、しかし、ハートネル中尉は全く息を切らすことなくついてくる。――男盛りの職業軍人に、二十歳前の小娘が適うはずはないのだ。
「ま、この前言ったのは俺は本気だから。殿下からクビになるのを待ってるよ」
「クビになってもあなたはご免です」
こういう手合いは遠回りに伝えても全然、通じない。わたしははっきりきっぱり断って、それから先は何を話しかけられても無視した。
一週間ほどして、わたしの元に辞令が届いた。
「……何ですか、これ」
辞令には「事務職員のエルスペス・アシュバートンを、アルバート王子直属の秘書官に登用する」と書いてあった。慌てて確認に行くと、執務室で殿下とクルツ主任が説明してくれた。
「秘書官の業務としては、王子のスケジュール管理や会議・出張への随行などがあるが、主たる業務は首席秘書官のロベルトがやってくれるから、お前は引き続き、書類の処理だけしてくれたらいい」
基本的な仕事内容が変わらないのであれば、別に秘書官にしなくても、陸軍の臨時事務職員の肩書のままで問題ないはず。そう、わたしが尋ねれば、殿下があっさりと言った。
「事務職員は時間給だから業務時間が変更できない。秘書官なら俸給制になるから、時間の融通が利くんだ。俺は夕方にようやく司令部に出勤できたりするから、絶対に五時で仕事を終えられてしまうと困る」
クルツ主任も補足的に説明する。
「基本的な勤務時間は朝八時から夕方の五時までだが、日によって昼から夜の九時の勤務に変えられるし、夜の十時までの残業が可能となる。残業手当も加算されるから」
「夜の十時って……困ります! そんな時刻に帰れません!」
夕方の五時なら一人で歩いて帰れるけれど、夜の十時はさすがに無理だ。わたしの訴えに、殿下が首を傾げる。
「遅くなったらこちらで馬車を手配する。結構な距離を歩いて通っているのだろう?秘書官なら、通勤手当も付くから、馬車に乗れば……それとも、あの男と待ち合わせて帰っているのか?」
「あの男?」
何の話だとわたしが目を丸くすれば、クルツ主任が小声で言った。
「本部付のニコラス・ハートネル中尉と恋仲だとか……」
「断じて違います! いつも偶然、一緒になるだけで……方向が一緒だとかで、つきまとわれて迷惑してたんです!」
「結婚の噂もあるが……」
「誰がそんなことを! 絶対ありえません!」
わたしが鼻息荒く否定すると、殿下は面白そうに口を綻ばせる。
「そうなのか? なんでも、ニコラスの方は得意気に吹聴しているそうだが」
「まさか!」
噂があるのは知っていたが、本人が嬉し気に吹聴していたなんて、想像もしていなかった。
「わかりました! 秘書官になれば、ハートネル中尉と一緒に帰らなくて済みます!」
その言葉に、殿下が弾けるように笑った。




