8、ビリーの死因
翌朝、目を覚ました時には、もう殿下はいなかった。
昔、まだ子供の時もそうだった。……リジーはわたしが寝付くまでは側にいてくれて、そして朝には何事もないように部屋に戻っていた。
でも、その朝、わたしは鏡の前で身支度をして、鎖骨のところに赤い鬱血痕を見つけた。――殿下が、まるで存在の証のようにつけた印。
お前は俺のものだと告げられたような気がして、わたしは鏡の中の所有印を見つめ、そっと手で触れた。
メアリーが運んできた朝食を食べ、喪服に着替える。
今日は、祖母の埋葬の日。――祖母の遺体を土に……このリンドホルムの地に帰す日だ。身支度を整えて階下に降りていくと、やけに浮ついた声が響いて、わたしは眉を寄せた。
「えー? そうなの? 王都ってそんなの? わたし、一度しか行ったことがないの。今度連れて行ってくださらない?」
耳障りなその声は、ヴィクトリアのもの。……ダグラスに向けるのとはまた別の媚びに満ち溢れて、正直ゾッとする。あんな女に下らない嬉しがらせを言っている、つまらない男はいったい誰――と部屋に入れば、ヴィクトリアは背の高い男の腕を抱え込んで、さかんにクネクネと胸を押し付けていた。……殿下の、腕に。
わたしはもともと表情の出ない方だが――だから『氷漬けの処女』なんて渾名を頂戴したわけで――その瞬間はきっと、東洋の仮面劇の白い仮面のように顔が凍り付いたに違いない。
殿下は一瞬、ギクリとしてヴィクトリアの腕を振りほどこうとしたけれど、ヴィクトリアはヒルのように貼りついて離さない。
「……あら、エルシー、おはよう。朝食は?」
「おはよう、ヴィクトリア。……もう済ませたわ」
殿下は無理矢理引きはがすようにヴィクトリアの腕から逃れ出て、わたしに歩み寄ってくるが、不愉快なので無視して、横のひじ掛け椅子で新聞を読んでいたロベルトさんに挨拶する。
「おはようございます、ロベルトさん」
「おっはようさーん、エルスペス嬢。……ごめんねぇ、朝から不愉快なもの見せて」
「いいえ、別に気にもなりませんので、お構いなく」
背後ではまだ、ヴィクトリアが殿下に絡んでいる雰囲気を感じたが、わたしはわざと殿下には目もくれず、玄関を開けて庭に降りていく。花壇の脇のところで、背後から呼び止められ、腕を掴まれた。
「エルシー! 一人では動くなと、昨日言ったはずだ」
殿下がわたしの耳元で囁きながら、強引に人目につかない木陰に連れ込まれる。
「やめてください! こんな……」
そのまま抱きすくめられて、唇を塞がれる。殿下の服に染みついた、ヴィクトリアの香水の匂いに吐き気がした。
「んんっ……」
殿下の腕の中でめちゃくちゃに暴れてやれば、殿下は渋々、わたしを解放した。
「離して!……誰かに見られたら――」
「エルシー、誤解だ。やたらひっついてくるんだよ、あの女!」
「別にもう、どうでもいいです! あなたとは終わったんだから!」
「俺は終わらせるつもりはない!」
殿下はわたしの背中を楡の木の幹に押し付け、顔の横に両手を突き、覆いかぶさるようにして閉じ込めてしまう。わたしは殿下の大きな体に隠されるような状態になり、恐怖を感じて身を捩った。
「……やめて、離して」
「嫌だ。……エルシー、愛してる」
殿下の顔が至近距離に迫り、唇を塞がれる。熱い舌が口の中を這いまわり、蹂躙されて、わたしは足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになって、殿下に支えられた。
「……エルシ―、妬くなよ。……あんな女に俺が心を移すはずないだろ」
「別に妬いてなんかっ……」
「じゃあ、妬いてくれ」
「どっちなの?!」
「……ちょっと、知りたいことがあっただけだ。それで話しかけたら、やたらひっついてきて、閉口した。次からは近づかない。……やっぱり俺は、間諜とか諜報活動は向いてない」
今さら気づいたの、と思ったけど、わたしはそっぽを向いて黙っていた。
「なあ……ビリーが死んだ時なんだが」
突然言われて、わたしがハッとして顔を向けると、殿下がまっすぐにわたしを見つめていた。
「ビリーの死因がアレルギーだと判断した医者は、もしかして――」
「……当時の主治医の……サイラスおじ様です」
「それを、誰も疑わなかったのか?」
わたしは目を見開く。
「……まさか、疑わしい、ところが?」
「エビのアレルギーと言うが、それ以前にエビを食べて体調を崩すことがあったのか?」
そう言われて、わたしは遠い記憶を辿り、首を振った。
「でも、ビリーは身体が弱くて、しょっちゅう、風邪を引いたりしていたし、あの頃はずっと寄宿舎に入っていたから――」
「ビリーの通っていたのは、ロックウッドのハリソン・スクールだよな?」
「え、ええ……なぜ、それを……?」
「調べた」
殿下はあっさりと言って、そうしてわたしの目を見て言った。
「あの辺は河エビ料理が名物でね。寄宿舎でもしょっちゅう、河エビ料理が出るらしい。――ビリーがアレルギーの症状を起こした記録は、少なくともない」
「で、でも、アレルギーのことはよくわかっていないって――」
「そうだな。稀にだが、激烈な症状を起こして、死に至ることもある。ソバとか、落花生なんかがヤバいらしいけどな。だが、それまで何ともなかったのに、ある日突然、重篤な症状を発症して、処置も間に合わずに死亡なんて、不自然だ。――ビリーの発症から死亡までは、ほんの数十分だったのだろう?」
その指摘に、わたしはあの、悪夢のような日のことを思い出す。
たまたまあの日は、サイラスの家族も呼んで夕食を食べていた。ビリーが寄宿舎から帰省していた時だったから。夕食の最中に苦しみ始めたビリーは、そのまま喉を押えて――。
「話を聞く限り、かなり効果の早い、毒物による症状みたいだ」
「毒?……まさか、そんな――」
「通常なら、死亡が不審であれば警察を呼ぶことになるが、《《たまたま》》主治医のサイラス・アシュバートンが同席していて、死因はアレルギーだと特定した。……本当に、たまたまか?」
「まさかそんな――」
わたしはガタガタ震え始めてしまい、殿下が慌てて抱きしめる。
「すまない、まだ確証はない。だが、いろいろと不自然で、今、部下に命じてその当時の記録を調べさせている。俺が自分でここに来たのも、そのためでもあるんだ」
殿下はそう言うけれど、わたしは信じられなかった。サイラスは確かに俗物だが、人を殺すような人間ではない。彼はずっと、主治医として弟のことを診てきたのに、まさか殺すなんて。
「信じたくない気持ちはわかる。だが、人間は馬鹿みたいな理由で平気で人殺しをする。伯爵の爵位とリンドホルムの領地、この城――人を殺すには十分な理由だと思うが?」
でもわたしは首を振った。
「でも、本来なら、サイラスおじ様は継承するはずじゃなかった。ビリーが死んでも、わたしが勅許を得られると思っていたし、サイラスおじ様より継承順位の高い人がいたんです。父のもう一人の従兄の息子で――でも、弟の葬儀の知らせを出したら、入れ違いにその人の戦死の知らせが入って――」
「なんだって?」
「だから、弟が死んだ時には、サイラスおじ様が爵位を継承する可能性はすごく低くて――わざわざ人殺しまでするとは思えないわ」
わたしの言葉に、殿下は眉を顰めて、わたしに聞いた。
「その、戦死したという従兄の息子の名は?」
「名前は――たしか、ジェームズだかジェイクだか……苗字がアシュバートンなのは確かですけど……」
弟の死の直後に報せを出したが、その時はわたしも混乱していて、すべて執事のアーチャーや、サイラスに任せきりだった。……たとえ冷静だったとしても、十六歳だったわたしに何ができただろうか?
「執事のアーチャーか、家政婦のスミス夫人に聞けばわかるか?」
「たぶん」
わたしが頷くと、殿下はわたしの耳元で言った。
「スミス夫人は味方だろうが、アーチャーはわからない。警戒は解くな。一人では動くな。王子の代理人が来たことで、発覚を恐れてお前に危害を加えるかもしれない」
わたしが茫然と殿下を見上げる。……アーチャーが? でも、まさか。
「俺かロベルトが側にいられないときは、マクガーニの側を離れるな。いいな?」
殿下はそう言って、もう一度わたしに口づけた。




