「トレーナー、優しくして」がトレンド入りした夜、人気俳優が私の部屋を訪ねてきた
「トレーナー、もう少し優しくして」
「無理、もう無理……水城トレーナー、助けて……」
トレーニング動画から切り取られたその二言は、意味深な字幕まで添えられ、Xのトレンド「#一ノ瀬玲央の専属トレーナー」で一日中繰り返し再生された。
私は、今度こそ本当に終わったと思った。
相手は売れっ子俳優だ。所属事務所の法務が本気になれば、損害賠償に違約金、名誉毀損への対応――どれか一つだけでも、学生の私には払いきれない。
けれど騒動が決定的になったその夜、当の本人が私の部屋を訪ねてきた。
玲央は帽子を深くかぶり、マスクの上からでも分かるほど傷ついた目で私を見ていた。
「どうして返事をくれないの?」
「もう、俺とは関わりたくない?」
答えを探しているうちに、彼が一歩だけ距離を詰める。
「トレンドが何個増えたって、そんなのどうでもいい」
まっすぐな視線が私を捉えた。声は、ひどく優しかった。
「水城トレーナー。俺は命だって、あなたに預けたい」
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「同居人が暑がりで、一日中エアコンをつけています。電気代を多めに負担してもらうのはありですか?」
昨夜、学生向けシェアハウスで同じ部屋を使っているルームメイトが、大学の匿名掲示板にこんな書き込みをした。朝起きた時には、返信が五千件を超えて炎上していた。
しかも本人は、コメント欄に追記までしている。
「責めないであげてください。毎晩、設定温度を十八度にするだけなんです」
私はその一文をしばらく眺め、そっと画面を閉じた。生活上の揉め事を匿名掲示板に持ち込む相手との同居は、そろそろ限界かもしれない。
東都スポーツ科学大学は蒼京市の中心部にある。大学の近くで、それなりに管理の行き届いた1Kを借りようとすれば、管理費込みで月十万円前後。入居時には敷金や礼金、仲介手数料も必要になる。
引っ越したいなら、まずは稼ぐしかない。
三時間後、私は会員制フィットネスクラブ「ASTERIA」のトレーナーカウンターに座っていた。胸元には、研修中と書かれたスタッフ証が下がっている。
トレーニング科学科で二年続けて成績上位を維持し、JATI認定トレーニング指導者――JATI-ATIの資格も取得した。面接を担当したマネージャーは成績証明書と実習記録を確認し、大学の学外実習を兼ねたアルバイト契約をその場で認めてくれた。
年会費は、学生の私には現実味がないほど高い。磨き上げられた大理石の床には人影が映り、消毒液の匂いまで高級に思えてくる。
インカムから、フロントスタッフの声が届いた。
「水城トレーナー、VIPトレーニングルームへお願いします。お客様がお待ちです」
姿勢評価シートを手に取り、ドアを開ける。
「一ノ瀬さんですね。まずは静的姿勢と基礎筋力を確認します」
鏡の前に立っていた男性は、黒いトレーニングタンクを着ていた。私は一度だけ顔を上げ、肩甲骨の位置と左右差をシートに書き込む。
「普段は僧帽筋を中心に鍛えていますか?」
彼の動きが止まった。
「そんなに分かりやすい?」
無防備に目元を緩める。
「周りからは、肩がきれいに鍛えられてるって言われるけど」
「お世辞は、あまり真に受けないほうがいいですよ」
私は指先で肩峰の位置を示した。
「上肢の筋力に左右差があります。プレスやローイングの時、左の肩甲骨をうまく制御できず、上部僧帽筋に負担が逃げています。重量を増やすほど代償動作が出やすい状態です」
彼が突然振り向き、鼻先が私の額に触れそうになった。
「水城トレーナー、本当に詳しいんだね」
そこで初めて、私はきちんと彼の顔を見た。輪郭は柔らかいのに、眉と目には凜とした強さがある。肩幅は広く、腕のラインも無駄がない。撮影前に急ごしらえした見せかけの筋肉ではなく、長く積み重ねてきた身体だった。
それ以上に気になったのは、彼の視線だ。まるで、なくしたものをようやく見つけた人のように、私だけを見ている。
半歩下がり、スマートフォンのタイマーを起動した。
「では、ここからセッション開始でよろしいですか?」
彼は声を立てて笑い、うなずいた。
「まずは懸垂を二セットやりましょう」
スポーツバッグから、ピンク色のリストストラップが取り出される。
「トレーナー、これ、まだ使える?」
「K-COREの限定モデルですね」
縫い目と摩耗具合を確認する。
「状態は悪くありません。このシリーズは耐久性もグリップ感もいいです。色も目立つので、置き忘れにくいですし」
返そうとすると、彼は説明しにくい表情で私を見ていた。
「これがどれだけ手に入りにくかったか、知ってる?」
「以前、大学とメーカーが共同イベントをしたんです。買い替えたいなら、在庫を聞いてみましょうか?」
「いや、いい」
ストラップを握る指に、わずかに力が入る。
「これは、もう手になじんでるから」
彼の体力は予想以上だった。フォームの完成度も高い。ただし、細かな修正点はいくつかある。
最後のプランクで腰椎がわずかに落ち始めたため、私は隣にしゃがみ、腰の少し上に指を添えた。
「腰で耐えないでください。腹部を締めて、骨盤をニュートラルに戻します」
一瞬だけ呼吸が止まり、首筋がゆっくり赤くなる。
「残り三十秒です」
タイマーを見つめる。
「そのまま。腰を落とさないで」
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セッション終了前、私はスマートフォンを取り出した。
「短いトレーニング動画を撮ってもいいですか? 顔は映さず、背中と動作だけです。指導例としてトレーナー用アカウントに載せたいんですが」
「ネットに出すの?」
彼は鏡を見ながら髪を整えた。
「いいよ」
クラブの規定に従い、公開範囲を明記した撮影同意書をタブレットで確認してもらった。所属事務所からも、背面のみという条件でメールによる承諾が届く。
夜、シェアハウスの机で動画を編集していると、LINEに新着メッセージが表示された。
『一ノ瀬玲央:明日はIASTMツールを持ってきてください』
その下には、半年前にInstagramへ載せた宣伝画像まで添えられている。
『水城式・筋膜リリース。痛気持ちよくて泣くかもしれません』
臨時トレーナーを雇うだけで、芸能事務所は一年前の公開投稿まで確認するものなのだろうか。
動画を投稿してから三十分もたたないうちに、通知欄は完全に機能しなくなった。映っているのは男性の後頭部と、私の解説だけだ。
「この方の肩関節の角度に注目してください。ラットプルダウンで首をすくめ、僧帽筋上部に逃がさないように――」
一番多くの「いいね」がついたコメントは、たった一文だった。
『この後頭部、もしかして私が思ってる人?』
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後頭部だけで、いったい何が分かるのか。
コメント欄を開いた私は、ファンの観察力がスポーツ解析ソフト並みであることを思い知らされた。
『先週の空港写真と比較して。耳の形、つむじ、首から肩のライン――絶対に一ノ瀬玲央!』
『今日のプライベート予定、蒼京だったよ!』
『このピンクのストラップも前に写ってた。ずっと使ってるやつ!』
次々と届く通知を閉じ、検索欄に「一ノ瀬玲央」と入力する。写真を拡大し、さらに拡大した。
間違いない。今日、私の前に立っていた男性だ。
一ノ瀬玲央、二十六歳、俳優。主演時代劇『残照の城』の放送を目前に控え、現在は宣伝期間中。デビュー以来、決定的な熱愛報道はなく、穏やかな人柄でお茶の間からの好感度も高い。芸能界に詳しくない人でも名前を知っている、若手トップ俳優だった。
翌日、当の本人はVIPルームの施術台にうつ伏せになり、顔をヘッドレストへ埋めていた。
「力を抜いてください」
張り詰めた肩と背中を押さえる。
「ん……」
くぐもった声が、ヘッドレストの隙間から漏れた。
「水城トレーナー。これ、江戸時代の拷問器具を現代風に改良したものじゃないよね?」
「IASTM――器具を使った軟部組織へのアプローチです」
背中に専用のローションを伸ばし、金属製ツールの角度を調整しながら筋線維に沿ってゆっくり動かす。
「左の上背部に強い緊張があります。弱すぎると皮膚の上を滑るだけで、狙った組織に届きません」
「痛っ……もう少し優しく!」
彼は施術台の端をつかみ、指先に力を込めた。
「安全な範囲です」
起き上がろうとする肩を、そっと元に戻す。
「あと少しだけ我慢してください」
ドアの外では、時おり白い光が瞬いた。遠くから玲央の名前を呼ぶ声も聞こえる。
インカムにフロントから連絡が入った。
「水城トレーナー、クラブの前にファンと週刊誌の記者が集まっています。終了後は警備員が従業員通路までご案内します」
私と玲央は同時に顔を上げ、二秒ほど見つめ合った。
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施術を終え、水を一本渡した。
「左肩に古いけがはありますか?」
ボトルに口をつけたまま、彼の動きが止まる。
「どうして分かったの?」
「左右で肩甲骨の動きが違いますし、ここに長く続く防御性の緊張があります」
肩甲骨の内側に指を当て、軽く圧をかける。
「ただ、トレーナーが触っただけで診断はできません。痛みが続くなら、整形外科か理学療法士に評価してもらってください」
玲央の目が少しずつ大きくなり、やがて楽しそうに笑った。
「これが学科トップの実力?」
警備員に案内され、地下の従業員通路から外へ出た。マスクとキャップを着けた玲央は、車に乗る直前で振り返る。
「一か月後、パリ・ファッションウィークに行くんだ」
「それで?」
「運動プログラムとコンディショニングを担当するトレーナーが必要なんだ。食事面は事務所の管理栄養士と連携してもらう。資格の範囲を超える仕事はさせない」
帽子のつばの下で、目が驚くほど明るく輝いていた。
「日当は五万円。海外渡航の交通費と宿泊費は別に出す」
頭の中で総額を計算すると、敷金、礼金、家賃が一斉に現実のものになる音がした。
「大学指定の学外実習があります」
断りながら、胸が痛い。
「事務所系列のスポーツマネジメント会社が、大学と正式な実習協定を結べる。業務中の賠償責任保険もこちらで用意するよ」
彼は少しだけ身をかがめ、私との距離を縮めた。
「考えてみて。俺の身体のことを一番分かってるのは、水城トレーナーだから」
シェアハウスへ戻る頃には、XのDMもInstagramのコメントも開けない状態になっていた。大学まで特定され、一年生の時に参加した芸能人スポーツ特番のボランティア写真まで掘り起こされている。
Xのトレンド一位は「#一ノ瀬玲央の専属トレーナー」。クラブの外から撮られた写真が、次々と投稿されていた。
上半身裸で施術台に伏せた玲央。その隣で、金属製のツールを手にする私。
ごく普通のコンディショニングなのに、どうしてどの写真もあんなに怪しく見えるのだろう。
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コメント欄は、すでに収拾がつかなくなっていた。
『あの女、誰? どこ触ってるの?』
『東都スポーツ科学大学の学生らしい。玲央を利用して芸能界入りしたいんじゃない?』
『玲央は誰にでも優しいから、あの子が勝手に距離を詰めたんでしょ』
スマートフォンが続けて二度震えた。
一件目は三十日分のセッション料。二件目はパリ同行の前払い金だった。どちらも所属事務所の経理部門から銀行振込され、正式な業務委託明細が添付されている。
続いて、玲央からメッセージが届いた。
『迷惑をかけてごめん。事務所からはもう説明を出してる』
五分前、彼の公式アカウントが更新されていた。
『一ノ瀬玲央:俺の鬼トレーナーを紹介します。@水城夏希 この指導料、事務所の経費で落ちますか?』
落ちるわけがない。
すぐに次のメッセージが表示された。
『クラブの場所が特定された。しばらく張り込みが出るかもしれない。嫌じゃなければ、次から俺の家でトレーニングしない? 器具はそろってるし、セキュリティも厳しい』
画面を見つめたまま、しばらく返事ができなかった。
人気俳優の自宅でマンツーマン指導。どう考えても、安心できる状況ではない。
玲央から、さらに二件届く。
『大学の近くにも週刊誌が来てるかもしれない』
『セッション料は今までの二倍』
私は反射的に背筋を伸ばした。
『住所を送ってください。明日、時間どおりに伺います』
すぐに三人のLINEグループが作られた。私と玲央、そしてアシスタントの田村健太だ。
『田村:水城さん、はじめまして。明日は大学の通用門までお迎えに上がります。周辺にフリーのカメラマンや過激なファンがいる可能性がありますので、お一人では移動しないでください』
『玲央:帽子とマスクも忘れずに』
『私:私はただのトレーナーです。そこまでする必要がありますか?』
『玲央:正面の写真がもうトレンド入りしてる』
私はもう一度Xを開いた。
「#一ノ瀬玲央のトレーナー顔写真」が、トレンド三位まで上がっていた。
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翌日の午後、田村さんは目立たない黒いSUVで迎えに来た。
「マンションの向かいには、芸能人の出入りを狙うフリーカメラマンが常にいます。待ち伏せするファンもいますので、今後の送迎は僕が担当します。お一人で出入りしないでください」
「芸能界って、いつも潜入任務をしてるみたいですね」
ハンドルを握ったまま、田村さんは困ったように笑った。
「慣れれば、これが普通になりますよ」
車は蒼京湾岸区のタワーマンションへ入った。エントランスは二重認証で、エレベーターも登録された階にしか止まらない。
専用トレーニングルームで、私はカウンターを手に淡々と数を読んだ。
「残り五回。五、四、三……はい、三のまま。呼吸を止めないで。まだ三です。最後の二回、二、二、一。終わりです」
ベントオーバー・リアレイズを終えた玲央は、そのままマットに座り込んだ。
「水城夏希。義務教育は受けた? どうして五まで数えるだけで、こんなに難しくなるの?」
「すぐに座り込まないでください」
笑いながら、肩へタオルを投げる。
「二分ほど歩いて、心拍をゆっくり落とします。それとも、またIASTMを受けたいですか?」
彼はすぐに立ち上がった。
自宅でのトレーニングでは、玲央はずいぶん気楽な格好をしている。シンプルなタンクトップから、腕と肩のラインがきれいに出ていた。撮影で女優を片腕に抱き上げられるのも納得だ。
昨夜、私は『残照の城』の先行配信二話分を午前三時まで見てしまった。劇中で彼が演じるのは、家族の仇を背負った若き城主。視線は冬の夜の刃のように冷たい。
けれど現実の玲央は明るく、笑うと少し幼く見える。
手首を回していた彼が、ふいに一歩近づいた。
「水城トレーナー、昨日は夜更かしした?」
心臓が跳ねる。
彼は手を伸ばし、私の目の下へ指先を軽く触れさせた。
「くまができてる」
温かさはすぐに離れたのに、耳だけが熱くなる。
「トレーニングプランを見直していたんです」
彼のドラマを朝方まで見ていたなんて、絶対に言わない。
「俺のために、そんなに頑張ってくれたんだ」
玲央は一冊の契約書を差し出した。
「もう少し、別の仕事もしてみない?」
7
「海洋保全キャンペーンCMの、水中アクション監修?」
契約書の添付資料をめくり、顔を上げる。
「どうして、私がAIDAのフリーダイビング・インストラクター資格を持っているって知ってるんですか?」
「公開プロフィールに書いてあったから」
それは一年前の投稿だった。
玲央はトレーニング台にもたれ、当時私が写真に添えた文章をゆっくり口にする。
「フリーダイビングは、ただ息を止める競技じゃない。呼吸と感情、それに身体をコントロールするための練習だ――」
まっすぐに見つめられた。
「夏希。俺は命だって、君に預けたい」
初めて名前だけで呼ばれ、胸の奥が不自然に揺れた。
……撮影当日、私は屋内の水中スタジオで、玲央の呼吸リズムと動作を最終確認していた。制作側が起用していた女優もフリーダイビング経験者で、今はメイクルームで衣装を整えている。
玲央の習得は驚くほど早かった。二時間後には、水中安全スタッフの監視下で、撮影に必要な動作を一通りこなせるようになっている。
突然、メイクスペースの方から悲鳴が響いた。
床に残っていた水が処理されておらず、女優が振り向いた拍子に足を滑らせたのだ。足首はすぐに腫れ、現場の救護担当が患部を固定した。制作主任は撮影を中断し、病院で診察を受けさせることを決める。
監督と玲央が少し離れた場所で話し、時々こちらを見る。
転ばせたのは私じゃないのに、どうして見るんだろう。
バスタオルにくるまり、折りたたみ椅子で気づかないふりをしていると、監督が急いでやって来た。
「水城さん、代役をお願いできませんか?」
玲央が私の耳元へ身を寄せる。
「制作側は資格、健康申告、保険加入まで確認済み。事務所の法務が、臨時出演契約を追加してる。映るのは水中の後ろ姿と必要なカットだけだ」
追加報酬の欄を見る。
とても安心できる金額だった。
三十分後、私は人魚の衣装を身につけ、水の中へ入っていた。
「本番!」
脚本では、珊瑚礁の網に囚われた人魚を、潜水した探検家が助け出す。
二テイク目。本来ならすぐ外れるはずの安全バックルが故障した。網が尾びれに絡まり、引けば引くほど留め具が固くなる。
唇から、制御できない泡が漏れた。
玲央の表情が一瞬で変わった。
安全スタッフを待つ余裕もなく、彼は私の前まで泳ぎ、一方の手で後頭部を支えた。残っていた息を、反射的に私へ渡す。
小さな泡が二人の唇の間を上がっていった。玲央は同時に私の手を二度握り、意識があるか確認する。
先に浮上するよう合図したが、首を横に振り、足元の網へ手を伸ばした。
数秒後、カメラの外で待機していた二人の水中安全スタッフが到着し、緊急用の接続部分を切断した。
陸へ戻ると、救護担当が血中酸素濃度、意識状態、呼吸を確認する。撮影は即座に中断され、安全管理責任者がすべての道具を点検し直した。制作主任からは事故記録と今後の対応について説明があった。
玲央は少し離れた場所に立ち、見たことがないほど冷たい顔をしていた。
私に異常がないと分かって、ようやく固く結ばれた顎が緩む。
道具を交換し、安全テストをやり直した後、撮影は再開された。
画面の中で、探検家は最後の酸素を使い切り、人魚を助け出す。自分だけが深海へ沈み始めた時、人魚はその手をつかんだ。傷ついた尾びれで必死に水をかき、二人で水面から差し込む光へ向かう。
「カット!」
CMは無事に完成した。
8
CM公開当日、「#一ノ瀬玲央」「#水城夏希」「#海洋保全」がXで相次いでトレンド入りした。
玲央が沈みかけ、私が手を伸ばして引き止める場面で映像が止まる。
『海を守ることは、私たちが生きる世界を守ること』
コメントは途切れることなく更新された。
『玲央の目がすごい。絶望と生きたい気持ちが一緒に見える』
『傷だらけの人魚、きれいすぎる!』
『水城夏希って、前に話題になった鬼トレーナー?』
『この二人、並ぶと意外とお似合い』
『玲央はデビューから決定的な熱愛報道ゼロ。無理にカップリングしないで』
けれどトレンド一位は、別の言葉だった。
「一ノ瀬玲央を利用して売名か」
事故の際に玲央が私へ息を渡した水中カメラの確認映像が、何者かによって短い動画に編集されていた。前後の状況は削られ、二人の唇が触れた数秒だけが残されている。
『わざと芸能人に近づいた』
『トレーナーの立場を利用した売名』
『玲央から離れて』
『東都スポーツ科学大学だよね。明日、会いに行くから』
悪意ある投稿には、大学名と脅迫めいた内容まで含まれ始めた。
事務所の法務担当はアカウント、URL、投稿時刻を証拠として保存し、プラットフォームへ削除申請を行った。警察のサイバー犯罪相談窓口にも連絡している。
その時、スマートフォンが鳴った。
「下に来て」
9
シェアハウスの窓から下を見る。
玲央は街灯の届かない木陰に立ち、黒いマスクとフードで顔を隠していた。私に気づくと、片手を上げる。
「何してるんですか?」
声を潜めた。
「今撮られたら、もっと大変なことになります」
「もう十分、大変になってる」
電話越しの声は、わざと気楽に聞こえるほどのんびりしていた。
「ここを出よう。朝になったら、シェアハウスの前が記者だらけになるかもしれない」
私は数日前、大学近くの1Kを契約したばかりだった。週末に引っ越す予定で、駅にも近く便利な物件だ。ただし、オートロックは一般的で、芸能記者や過激なファンを想定した造りではない。
車が走り出してから、玲央が横目でこちらを見る。
「何?」
「新しい部屋へ向かう道じゃありません」
「住所も、そのうち特定される。田村さんが管理会社へ連絡して、入居日は延期できるようにしてくれた。追加費用は事務所が負担する」
ハンドルを握る指に力が入った。
「こんなことに巻き込んで、ごめん」
車は蒼京湾岸区のタワーマンションへ戻った。
玄関の前で、私は足を止める。
「ここに泊まるのは、あまりよくないと思います」
「客室には内鍵がある。田村さんもマネージャーも、君がいることを把握してる。出入りの記録も事務所で管理する」
玲央は私の手首をつかみ、すぐに力を緩めた。
「今は、ここより安全な場所が見つからない。入って」
呼び鈴が鳴ったのは、シャワーを終えた直後だった。私は田村さんが用意してくれた大きめのルームウェアを着ている。
玲央がドアを開けると、そこに東雲美玲が立っていた。
彼女は『残照の城』のヒロイン役で、大手映画制作会社・東雲映像の社長令嬢でもある。以前、作品の宣伝打ち合わせでスタッフと一緒にこの部屋を訪れたことがあるらしい。
三人とも、その場で固まった。
「田村さんだと思ってた」
玲央は先に私を見てから、半歩前へ出て視線を遮った。
「東雲さん、何の用?」
美玲の目が、彼の肩越しに私へ向く。
「どうして、この人がここにいるの?」
「用件を聞いてる」
玲央の声が冷たくなる。
美玲は玄関へ入り、書類をテーブルへ置いた。
「広報対応の相談よ。今のあなたには映画、CM、ブランドの仕事がある。騒動が続けば、影響を受けるのはあなただけじゃない」
「私たちが交際しているように見せればいい。水中での接触は救助だった。安定した恋人がいると世間が思えば、ただのトレーナーにいつまでも注目は集まらない」
顎をわずかに上げる。
「東雲映像からも各社へ説明できる。あなたにとって、一番安全な方法よ」
玲央は書類を彼女の方へ押し戻した。
「嘘の交際を宣伝には使わない」
身体を横へずらし、出口への道を示す。
「帰って」
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美玲は私の隣まで来ると、足を止めた。
「水城夏希。あなたのせいで、玲央がいくつ仕事を失うか分かってる? 何一つ支えられないくせに、負担にしかならない」
玄関のドアが強く閉まった。
静まり返ったリビングで、私は玲央を見る。
「本当は、どれくらい深刻なんですか?」
彼は私の頬へかかった濡れた髪を、そっと指で払った。
「事故現場の映像であって、違法行為でも契約違反でもない。スポンサーは様子を見るだろうけど、事務所は撮影記録を全部提出してる。流出映像にも対応中だ」
閉じたドアを見つめると、胸の奥に重いものが沈んだ。
あの水中映像は、現場の内部データへ触れられる人間でなければ持ち出せない。競合事務所、暴露系アカウント、あるいは世論を別の方向へ動かしたい誰か。
誰がしたにせよ、玲央の名前は私と一緒に繰り返し消費されている。
「悪意のある記事は、これが初めてじゃない」
彼は私の両肩に手を置き、自分の方へ向かせた。
「東雲さんの言葉だけで、俺にとって何が負担で、何が大切かを勝手に決めないで」
指先が、髪の間で止まる。
「こっちを見て」
私は顔を上げた。
「ほかのことは事務所と弁護士に任せればいい。俺がちゃんと対応する」
玲央は低く身をかがめ、髪の上へ軽く口づけた。
「君だけは、俳優の一ノ瀬玲央より先に、俺自身を見てくれる」
呼吸が触れそうな距離にある。
「夏希。俺と付き合ってほしい」
私は半歩下がった。
「少し、時間をください」
「ちゃんと考えたいんです」
11
その夜、客室のベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
夜が明ける頃、スマートフォンが立て続けに震える。画面には高橋教授の名前。メールボックスには、大学の研究公正推進室から正式な通知が届いていた。
「高橋先生?」
電話の向こうで、数秒の沈黙があった。
「水城さん。WSSI共同研究プロジェクトに匿名の告発が入りました。あなたの元データに不整合があるという内容です。予備調査が終わるまで、海外の共同研究機関からデータへのアクセス権限を一時停止するよう要請されています。現場担当も暫定的に交代になりました」
「元データは全部、研究室のサーバーに保存されています。紙の実験記録にも確認者の署名があります。問題があるはずはありません」
「分かっています」
先生の声には、隠しきれない疲れがにじんでいた。
「今は立入制限区域へ入らないでください。手元にあるメール、実験ノートの写し、データの版管理記録を整理して、午後に研究公正推進室へ説明書を提出してください」
廊下から急ぐ足音が聞こえた。
玲央は二度ノックし、返事を待ちきれずにドアを開けた。
「何があった? 電話番号まで特定された?」
「大学から、プロジェクトへのアクセスを一時停止されました」
布団をめくり、ベッドを下りる。
「大学へ行きます」
「着替えるから待って。送っていく」
彼を見つめ、うなずいた。
「分かりました」
けれど玲央が着替えに入った隙に、資料を持ってサービス用エレベーターから外へ出た。
今の私たちは、また同じ写真に収まるべきではない。
12
WSSI共同研究プロジェクトは、一年間かけてようやく手にした機会だった。この研究を終えて評価を得れば、提携大学院のスポーツパフォーマンス科学修士課程へ出願できる。
匿名の告発一通でデータへのアクセスを止められるなんて、納得できない。
それでも研究機関が資料を保全し、事実確認を優先しなければならないことは理解していた。
廊下で感情をぶつけるより、記録をそろえるべきだ。
研究棟へ駆け込むと、階段の方から佐伯真奈が追ってきた。
「夏希!」
周囲を確認し、誰もいない機器準備室へ私を引っ張り込む。
真奈がスマートフォンを差し出した。映像の中では、シェアハウスのルームメイトが数人の学生を前に、私がデータを捏造したと言い切っている。プロジェクトの枠もすぐ別の人に替わる、とまで口にしていた。
「あの子がずっと夏希を妬んでたのは知ってる。でも一人で、国際共同プロジェクトを即日止められるはずがない」
真奈は声を落とした。
「高橋先生は昨夜、正式に異議を出したそうよ。でも研究推進担当の副学部長、東雲孝臣が、芸能人の騒動に巻き込まれた学生を対外プロジェクトに残すのは大学の信用に関わるって、プロジェクト責任者と学部会議に圧力をかけたみたい」
東雲。
その姓を見つめたまま、言葉が出なかった。
「東雲孝臣は、美玲さんの叔父よ」
真奈が私の手を握る。
「何かされたの? CMの完全版も見たけど、あれはどう見ても水中事故だったじゃない」
説明書を提出し、私は一人で研究棟を出た。
怒りと悔しさと無力感が絡まり、いつから爪を手のひらへ食い込ませていたのかも分からない。
突然、強いフラッシュが顔を照らした。
「水城夏希だ!」
週刊誌の記者とフリーカメラマンが、大学の正門側から一斉に近づいてくる。マイクが肩に触れそうなほど押し寄せた。
「水城さん、一ノ瀬玲央さんとはどういうご関係ですか?」
「トレーナーの立場を利用して人気俳優へ接近したという指摘について、どうお答えになりますか?」
「研究プロジェクトから外されたのは、研究不正と関係があるのでしょうか?」
人の輪が狭まり、空気まで押しつぶされていく。
13
人垣の外で、鋭いブレーキ音が響いた。
田村さんが警備スタッフを連れ、左右から記者を分けて通路を作る。車を降りた玲央は、その道をまっすぐ私へ歩いてきた。
いつも笑っている目に、今は少しの温度もない。
「通してください」
先頭の記者が、無意識に半歩下がった。
次の瞬間、体温の残ったマフラーが私の頭から肩を覆う。玲央はカメラとの間に立ち、私を警備スタッフの内側へ隠した。
「大丈夫。俺についてきて」
記者が横から追い、マイクを差し出した。
「一ノ瀬さん、世間では水城さんとのご関係に注目が――」
「必要な時には、私生活について自分の言葉で説明します」
玲央は足を止めない。
「今は通行を妨げないでください。それから、取材に同意していない学生をこれ以上撮影しないでいただきたい」
車内はずっと静かだった。
前を見たままの田村さんが、何度も言いかけては口を閉じる。
「玲央さん、今日はご本人が来るべきではありませんでした。スポンサーの担当者が、まだ事務所で返答を待っています」
「ごめん」
玲央の声は、不自然なほど平らだった。
「マネージャーが前に話してた、若者支援を題材にした教育ドラマ。引き受ける」
私をマンションへ送り届けると、彼は窓と防犯設備を確認し、一人で外出しないと約束させてから出ていった。
それから二日間、玲央は帰ってこなかった。
三日目の深夜、田村さんに支えられ、疲れ切った姿で玄関へ入ってきた。コートはしわだらけで、ネクタイは緩み、目の下には濃い影ができている。
浴室から水音が聞こえ始めると、田村さんが厚い封筒を差し出した。
「玲央さんには言うなと言われました。でも、水城さんには知っておいてほしいんです」
中には、東雲孝臣が研究枠、奨学金、論文の共同著者を決める際に、不公平な扱いをした疑いを示す資料が入っていた。メールの記録、出来事の時系列、実名で証言する意思のある学生の連絡先までそろっている。
「『青春のまんなかで』は、教育をテーマにした社会派ドラマです。玲央さんは以前、三度断っています。役柄が薄く、今後の方向性に合わないと考えていたそうです」
田村さんは浴室の方を確認した。
「今回は出演を引き受けて、出演料を全額、学生の権利を守る法律支援基金へ寄付することにしました。基金の弁護士が被害を受けた学生たちの資料整理を手伝い、大学の研究公正推進室へ実名の告発を提出しています」
「海外の共同研究機関も、予備調査の結論が出る前に、なぜ担当者を交代させたのか説明を求めました」
複数の実名告発と証拠がそろえば、大学は匿名告発だけを理由に問題を処理できない。独立した調査委員会を立ち上げる必要がある。
「美玲さんが撮影現場でスタッフへ高圧的に振る舞っていた件も、元スタッフが証言を公開しました。東雲家は今、自分たちの対応で手いっぱいです」
田村さんは玄関へ向かい、最後に振り返った。
「書斎を見てみてください」
誤解を避けるため、私は一度も玲央の書斎へ入ったことがなかった。
部屋はマンション全体と同じく、余計なもののない造りだった。ガラスケースには受賞トロフィーが並び、机の上には台本と書類、それから写真立てが一つだけ置かれている。
写真の中の青年はキャップをかぶり、誰もいないアーチェリー場の端に立っていた。
私は、手首に巻かれたピンク色のストラップを見つめた。
14
三年前、大学へ入ったばかりの私は、サークルの仲間と芸能人スポーツ特番の収録現場でボランティアをしていた。
午前一時。アーチェリー場から観客は消え、私は用具箱を抱えて照明を落とそうとしていた。
その時、隅の方で矢が床へ落ちる音がした。
キャップをかぶった若い男性がうつむき、肩を落としている。
「リカーブボウは、そんなふうに握りません」
箱を置き、弓を持つ手と肘の角度を直す。
「肩と背中が安定していません。今は狙わなくていいので、もう一度ドローイングからやり直してください」
放たれた矢は、的の中心へ刺さった。
私はバッグから、支給されたばかりのピンク色のK-COREストラップを取り出して渡した。
「収録までに、これで肩と背中の使い方を練習してみてください。色は少し目立ちますけど、明日けがをするよりましです」
写真立てが、急に熱を持ったように感じた。
大きな手が私の手の甲に重なり、聞き慣れた声が背後から届く。
「この写真、現場のスタッフに練習風景を撮ってもらったんだ。君と直接写真を撮りたいなんて、あの頃は言えなかったから」
シャワーを終えた玲央は、まだ濡れた髪のまま私の後ろに立っていた。写真の隅に小さく写る、用具箱を抱えた私を指で示す。
「あの頃の俺は、名前を覚えてもらえる脇役ですらなかった。前の日も時代劇で台詞のない護衛役をしてたし、番組に呼ばれたのも欠員が出たからだ」
腕が、遠慮がちに私の身体を包む。
「合同練習に間に合わなくて、弓の持ち方すら分からなかった。そこで、口調は厳しいのに、自分のストラップをくれた子に会った」
「その後は?」
「教わったとおり三日間練習して、アーチェリーで一位になった」
顎が、私の頭へそっと触れた。
「『烽火の門』の監督が会場にいたんだ。後で騎射のオーディションへ呼ばれたのも、あの時の俺を覚えていてくれたから」
二年前に放送された『烽火の門』は、玲央の名前を一夜で世間へ広めた作品だった。
大軍の中、馬上から敵将の旗を射落とす場面は、今でも何度も動画に切り取られている。
玲央は私の身体を自分の方へ向けた。
「夏希。答えは決まった?」
眉間がわずかに寄り、指先は少し冷たい。
カメラの前ではいつも余裕のある人が、今は呼吸さえ慎重になっている。
私は手を伸ばして彼の目を覆った。まつげが、手のひらへ小さく触れる。
つま先立ちになり、唇の端へ羽のようなキスを落とした。
「うん」
15
目を覆っていた手を、玲央がそっと握った。
すぐには近づかず、低い声で確かめる。
「キスしてもいい?」
答える代わりに腕を首へ回し、最後に残った距離を自分から縮めた。
玲央の唇が重なる。
最初は確かめるように触れていたのに、少しずつ熱を帯びていった。清潔なボディソープの香りに包まれ、胸が触れる場所から、同じくらい速い鼓動が伝わってくる。
いったん離れると、私は彼の肩へ額を預けて息を整えた。
玲央は腕を回し、私の身体を安定させたまま抱き上げる。
「しっかりつかまって」
机のライトが服の端に触れ、小さく揺れた。ガラスケースの扉に、重なった影が映る。
窓にぶつかる雨は、初めこそ激しかったが、やがて細い水音へ変わっていった。
トレンドも研究プロジェクトも、知らない人たちの言葉も、その夜は誰も口にしなかった。
長い夜の中で、二人の呼吸だけが静かに重なっていった。
16
朝の光がレースカーテンを透かし、布団の上へ落ちていた。
半分眠ったまま伸びをすると、腰に鈍いだるさが走る。伸ばした腕が隣の温かな肌に触れ、すぐにつかまれた。手を口元まで運ばれ、指先へ軽いキスが落ちる。
「起きた?」
玲央が後ろから腰を抱き、身体を自分の方へ引き寄せた。
耳が一気に熱くなる。私は布団を引き上げ、顔を隠した。
「まだ起きてない」
「何か食べよう」
玲央まで布団の中へ入り込み、柔らかな髪を私の首筋へこすりつける。肩に、浅いキスが一つ落ちた。
「十二時の便だから、そろそろ支度しないと」
「何の便? どこへ行くの?」
勢いよく起き上がり、むき出しになった肩を見て、すぐにまた横になる。
枕に頬を預けた玲央の笑みが、どんどん深くなった。
「パリ。水城トレーナー、前払い金まで受け取っておいて、直前にキャンセルしないよね?」
パリの街角にある大型ビジョンでは、玲央のランウェイ映像が繰り返し流れていた。
デザイナーの特注した深いVラインのスーツをまとい、引き締まった腰と肩の輪郭を際立たせながら歩いていく。海外メディアは、その身体を「生きた彫刻」と評した。
日本のSNSでは「#一ノ瀬玲央ボディ」が三日連続でトレンド入りしている。
撮影スタジオの休憩スペースで、私は退屈しのぎにスマートフォンを眺めていた。
「みんな、褒めるところを間違えてる。玲央の筋肉は、見た目より持久力とコントロールに強みがあるんです。本当に優れているのは動作の安定性で――」
画面に影が落ちた。
撮影を終えた玲央が隣へ座り、耳元で声を落とす。
「俺の持久力がどれくらいあるか、水城トレーナーが一番よく知ってるよね?」
「一ノ瀬玲央!」
周りに聞こえないよう声を抑えたが、頬が熱くなる。
「こんなところで変なことを言わないで」
「付き合い始めても、ずっとフルネームで呼ぶつもり?」
玲央が目を細める。
「昨日のこと、もう一度思い出させようか?」
「……玲央」
「よし」
満足そうに私の髪を撫でる。
「スタジオへ行こう。みんなが夏希に用があるって」
17
いつもなら慌ただしいはずの撮影スタジオに、誰の姿もなかった。
玲央に手を引かれ、中央まで進む。耳元へ顔を寄せられた。
「目を閉じて」
暗闇の中で、スタッフが笑いをこらえる気配と、ケータリングワゴンの車輪が床を転がる音が聞こえる。
ブルーベリーの甘酸っぱい香りに、キャラメルのかすかな苦みが混ざって近づいてきた。
「ハッピーバースデー・トゥー・ユー――」
目を開けると、スタッフ全員が青と黒で統一されたデザートテーブルの向こうに並んでいた。
黒いベルベットのクロスには金色の王冠のロゴ。テーブルにはアイリスの花が飾られ、中央に星空を模したブルーベリームースが置かれている。
ヘアメイク担当が思わず声を上げた。
「エティエンヌ・ローラン本人のケーキ? 一日に二件しか予約を受けないし、一年以上前から頼まないと無理だって聞いたけど」
制作スタッフの一人が、目を輝かせてケーキを見つめる。
「糖分控えめのレシピだから、体重管理中の俳優でも一切れ食べられるんですよね。今日、幸せすぎる」
「夏希、誕生日おめでとう」
玲央が封筒を差し出した。
中に入っていたのは、WSSI共同研究プロジェクトへの復帰を認める正式通知と、提携大学院の研究チームから届いた出願案内だった。
「大学の予備調査で、夏希が提出した元データ、サーバー上の履歴、紙の実験記録が一致していると確認された。匿名告発に使われた画像は一部を切り取って加工したものだった。調査委員会が、誰が作ったのか引き続き調べるらしい」
私を見下ろす顔には、「褒めてほしい」とはっきり書かれている。
つま先立ちになり、唇の端へキスをした。
「ありがとう」
スタジオの隅には、白髪の老紳士が座っていた。小さなジュエリーケースを指先で弄んでいる。
私はノンアルコールのスパークリングドリンクを二つ取り、彼のもとへ向かった。
「素敵なケーキをありがとうございます、ローランさん」
グラスを受け取った老人が、楽しそうに眉を上げる。
「夏希さん、どうして私だと分かったんです?」
「ずっと作品のファンなんです。若い頃のお写真も公開されていますし、インタビューでアイリスが好きだと話していました」
軽くグラスを合わせる。
「それから、特別に作ってくださってありがとうございます」
「礼なら、一ノ瀬さんの熱意に言ってください」
ローランさんは、ジュエリーケースを私へ差し出した。
中には古いペンダントがあり、開閉部分の内側に色あせた写真が収められている。
「一九八六年、蒼京の紫苑湖では蓮の花が見事に咲いていました。私が愛した若い小児科医は、私のケーキを持ってこう言ったんです。『エティエンヌ、甘すぎるわ。入院中の子どもたちには食べさせられない』と」
指先で写真の端をなぞる。
「このペンダントは、二人で出かけた一番幸せな旅行の途中でなくしました。彼女が亡くなった後も、糖分を控える必要がある人が安心して楽しめる、美味しい菓子を作りたいと思い続けてきたんです」
老人は玲央へ視線を移した。
「一ノ瀬さんは、古物を扱うコレクターを何人も訪ね、ようやくこれを探し出したそうです」
そして、穏やかに私へ笑いかけた。
「大切にされていますね、夏希さん」
「愛のためなら、時には例外も必要です」
18
日本へ戻った後、私はWSSI提携大学院へ正式に出願した。研究計画書と成績証明書を提出し、オンライン面接も受ける。
三か月後、共同研究の最終評価を兼ねた海外実習へ再び参加することになった。
昼はスポーツパフォーマンス研究室でデータを処理し、夜はホテルで機器の記録を照合する。玲央のファッションウィーク関連の仕事は一段落しており、毎日私を送り迎えしながら、久しぶりの休暇を楽しんでいた。
「玲央、明日でプロジェクトの現場実習は最後だよ」
ノートパソコンを閉じる。
「試合会場での測定が終わったら、日本へ帰れる。もうコンビニのおにぎりと、大学の近くのラーメンが恋しい」
翌日の午後、総合アリーナは大勢の観客で埋まっていた。
私はコート脇にしゃがみ、選手のウォーミングアップ中の心拍数、運動負荷、ウェアラブルセンサーのデータを確認する。
客席から突然、私の名前を呼ぶ大きな声がした。
最前列に近いゲスト席で、白いTシャツ姿の玲央が満面の笑みを浮かべている。
「夏希――頑張れ!」
周囲の観客がすぐに彼へ気づき、スマートフォンを向けた。
玲央は隠れるどころかカメラへ手を振り、両腕で頭の上に大きなハートを作る。
試合が半分まで進み、控え選手のジェイスがコートへ入る準備を始めた。
私は片膝をつき、センサーの固定状態と機器の最終調整を行う。公式現場で一人の担当者として作業するのは初めてで、指が少し硬くなっていた。
「力を抜いて、ナツキ」
ジェイスが笑う。
「これから試合に出る僕より、君の方が緊張してるみたいだ」
客席へ目を向ける。
玲央はいつの間にか、ベンチ後方のガラスパーティション近くまで来ていた。両方の親指を立て、ゆっくり口を動かす。
「水城トレーナー、最高」
思わず笑った瞬間、コートサイドのカメラマンがシャッターを切った。
写真の中で、若い女性がわずかに顔を上げている。アリーナの屋根から差し込む夕日が、笑った目元を明るく照らしていた。
試合後、その写真はファンの間で広く拡散された。
『コートサイドで一番まぶしい笑顔』
『美しすぎるスポーツ科学スタッフ』
19
撤収作業が終わる頃、ジェイスが私の前へ立った。
「ナツキ、今夜一緒に出かけない?」
「ごめんなさい。行きません」
半歩下がる。
彼がさらに何か言おうとした時、背後から冷たい声が届いた。
「断ったのが聞こえませんでしたか?」
主催者から発行されたゲストパスを持つ玲央が、休憩エリアの入口に立っていた。腕には、大きなひまわりの花束を抱えている。
「彼女の意思を尊重してください」
ホテルへ戻った後、玲央はずっと窓の前に立っていた。
私は後ろから腰へ腕を回し、胸に頬を寄せる。
「誘いには応じてないよ。機器を装着する時は必要な接触があるけど、仕事の範囲を越えないように気をつけてた」
「分かってる」
低い声が返ってくる。
「夏希の仕事に腹を立ててるわけじゃない」
玲央は振り向き、机の上にあるファイルへ目を向けた。
「WSSIの大学院から届いた合格通知を見た」
指がこわばる。
「資料を整理していたら落ちてきたんだ。俺に、いつ話すつもりだった?」
「修士課程は二年間」
苦しそうな笑みが浮かぶ。
「そのことを知らされる権利さえ、俺にはないの?」
「夏希。君にとって、俺は何?」
20
部屋には、空調の小さな音だけが残った。
玲央の手を取ろうとすると、避けられる。
「怖かったの」
「何が?」
「ちゃんと一緒にいられた時間が、まだ短いから。玲央は日本で撮影がある。私は海外で勉強する。会えるのは、空港とホテルだけになるかもしれない」
彼の目を見る。
「今ある幸せが、距離のせいですぐ終わる夢になったら怖い」
「だから、一度も俺に聞かなかった?」
玲央が顔を上げた。目の奥に、鋭い痛みが走る。
「俺の気持ちは数か月しかもたないって、勝手に決めた? 仕事を調整できないとも、二年の遠距離すら続けられないとも思った?」
ベッドサイドの引き出しから、書類の束を取り出す。
「ヨーロッパを行き来するための長期滞在と仕事の手続きは、事務所と現地の提携会社が進めてる。夏希の大学の近くには、小さな部屋も買った」
購入契約書の後ろに、数枚の写真が挟まれていた。
まだ家具のないリビングで、玲央がカメラに向かって、少し間の抜けたピースサインをしている。
「俺は一度も迷ってない」
声がかすかに震えた。
「信じてくれなかったのは、夏希の方だ」
もう耐えられず、避けようとする身体へ飛び込んだ。
「ずっと、自分は玲央に釣り合わないと思ってた」
「美玲さんには、あなたの仕事を支えられないって言われた。ネットでも、玲央の知名度を利用してるだけだって――」
「もう言わなくていい」
玲央の腕がようやく背中へ回り、息が詰まるほど強く抱き締められた。
「あの時、俺は弓の持ち方さえ分からなかった。名前もない若手俳優だった俺に、みんなの目に届く場所へ行けるかもしれないって、初めて思わせてくれたのは夏希だ」
顔を上げる。
カメラの前ではいつも余裕を失わない人の目元が、今はわずかに赤い。
「夏希は、自分の専門の中で、どんなスポットライトより輝いてる」
「世間はまだ君を知らない。だから分からないだけだ」
額が私の額へ触れる。
「でも、俺はずっと知ってた」
「見上げていたのは、俺の方だよ」
鼻先を、玲央の鼻が軽くかすめた。
「だから水城トレーナー。担当しているトレーニーを、もう少し信じてくれませんか?」
私は首へ腕を回し、強くうなずいた。
夕日が街全体を金色に染めている。
玲央は窓の前でスマートフォンを掲げた。写真には寄り添う二人の影と、窓の向こうで灯り始めたエッフェル塔が写っている。
事務所は事前に主要なスポンサーと関係各社へ事情を説明し、公表用の声明も準備していた。
ただし最後の一文だけは、玲央が自分で書くと譲らなかった。
公式Xアカウントに写真が投稿される。
『思いがけない再会と、予想もしなかった恋。@水城夏希』




