湖底の呪縛
都会の喧騒から逃れるように、絵里子と婚約者の健一は、人里離れた湖畔に立つ貸別荘を訪れた。深い森に囲まれたその湖は、静寂に包まれ、水面はまるで鏡のように空を映していた。絵里子は、その神秘的な美しさに心を奪われたが、同時に、言いようのない不安を感じていた。
別荘に着いてすぐ、絵里子は湖の異変に気づいた。水面には、まるでそこにもう一人、人が立っているかのように、ぼんやりとした人影が常に揺らめいているのだ。健一は「光の加減だろう」と笑い飛ばしたが、絵里子にはそれが、何か別のものの存在のように思えてならなかった。
夜になると、その不安は確信へと変わった。眠りにつこうとすると、遠くから、女の歌声が聞こえてくるのだ。それは、寂しげで、しかしどこか甘く、絵里子を湖底へと誘うような響きを持っていた。健一は熟睡しており、絵里子の訴えにも気づかない。
翌日、絵里子は健一を誘ってボートで湖に出てみた。湖の中央に差し掛かると、歌声はさらに鮮明になった。水面下から、幾重にも重なった女たちの声が聞こえる。「こちらへ……」「来て……」絵里子は、思わずボートから身を乗り出しそうになったが、健一が慌てて腕を掴んだ。
「どうしたんだ、絵里子?顔色が悪いぞ」
健一の心配そうな顔を見て、絵里子は我に返った。しかし、健一は歌声には全く気づいていないようだった。むしろ、湖の奥へと視線を向け、その瞳には、どこか魅入られたような光が宿っている。
「なんて神秘的な湖なんだ……こんな場所で、ずっと暮らしたいな」
健一の言葉に、絵里子は背筋が凍りついた。まるで、湖が健一の心を蝕んでいるかのように思えた。
その夜、絵里子は一人で湖畔に出た。歌声はすぐそこまで聞こえる。月明かりに照らされた湖面は、静かに波打ち、人影はよりはっきりと、絵里子のすぐ目の前に立っていた。その顔は、水に濡れた女性の顔だ。目には、深い悲しみと、そして怨念が宿っている。
「寂しいの……私たちと一緒に、沈んでくれる?」
その声は、絵里子の心の奥底に直接響いてきた。絵里子は、震える手で湖水に触れた。水は、ひどく冷たかった。だが、その冷たさの中に、どこか温かい、慰めるような感覚があった。まるで、無数の手が、絵里子の指先をそっと包み込んでいるかのようだ。
その時、絵里子の脳裏に、かつてこの湖で身投げした女たちのニュースがフラッシュバックした。悲恋、絶望、裏切り……様々な理由で命を絶った女たちの魂が、この湖に閉じ込められているのだ。そして、彼女たちは、孤独から解放されるために、新たな魂を求めている。
絵里子は、はっと息をのんだ。健一もまた、この湖に魅入られ、誘われているのだ。このままでは、彼もまた、湖の犠牲になってしまう。
別荘に戻った絵里子は、健一を起こそうとしたが、彼は深い眠りについており、いくら揺り動かしても目を覚まさない。彼の顔は、穏やかで、どこか恍惚とした表情を浮かべていた。
絵里子は、一人で別荘を飛び出した。もう、この湖にはいられない。どれだけ走っても、あの歌声は追ってくる。背後からは、水が滴るような足音が聞こえる。
「逃がさない……私たちの仲間になるのよ……」
夜明け前、絵里子は、ようやく森を抜けて舗装された道路に出た。振り返ると、湖はもう見えない。だが、耳の奥には、あの歌声が、まだ微かに響いているような気がした。
絵里子は、助けを求めようと携帯電話を取り出した。しかし、画面は真っ暗で、電池切れのマークが表示されている。そして、彼女の手のひらには、乾いたはずなのに、奇妙な水滴が一つ、光っていた。湖の呪いは、まだ終わっていない。絵里子の心には、深い湖底の闇が、静かに沈み込んでいるのだった。