囚われの2人③
両手?
咄嗟に腰の縄を確かめると、その縄は力なく引き寄せられた。男の手から縄が放れている。
今だ。視線をコウのいる方向に走らせ、合わせた瞳で「走れ」と言った。
コウとアタシは後ろ手で縛られながらも即座に立ち上がり、目の前に広がる墨色の森へ向かって突進した。背後から小男の罵声が聞えるが、それも小さく鋭い悲鳴と共に消えていく。
振り向く時間さえ惜しい。今は早く、ここから離れなければ。
ざりざりとした土の感触。草を掻き分け小枝に身体ごとぶつかっていく感触。何度も転びそうになるコウを励ましながら、辺りの状況を掴もうとする。
人影は無い。ただ人の気配だけなら数名程度、全て後ろの方から感じている。自分達を捕まえに来ているのか、先ほどの小男の死を確認しに来たのかは知らないが、少なくとも殺気のようなものは感じない。
ただ、それでも全身を内側からちくちくと刺すような嫌な予感だけはハッキリと感じていて、それがどこからどうしてやって来るのかは知らないが、その不快感から逃げ惑うように走り続けた。
土と緑の香りに混ざって漂う微かな臭いに、コウも気づいているだろう。
これは煙、これは炎。何かが燃えるあの臭いが、この森の中に漂っている。
「あっ!」
コウの悲鳴が聞えた瞬間、眼前に三つの影が飛び出してきた。暗くて相手の容貌はよく分からないが、それが自分達を攫った賊の中まであるのは明白だった。
「お前ら!?逃げる気だな!!」
アタシは迷い無く正面の男に突撃した。身を低くして懐に潜り込み、全身で相手を突き上げるようにしてぶつかっていく。倒れる相手に引き込まれぬように踏ん張りながら、体勢を変え向かって右側の男の手を蹴り上げる。男は痛みよりも驚愕の表情を浮かべ、アタシはその顔に振り上げた脚を蹴り込む。男は悲鳴を上げながら急な斜面を転がり落ちていった。
背中から感じる殺気。最後の男が剣を振る音がする。避け切れるかは半々か。
身体を捻ろうかとしたその瞬間、鈍い音がする。
首を捻り、目が背後の男を姿を捉えた瞬間、音の理由を理解した。
男の身体はわき腹を起点にくの字に曲がり、そのわき腹にはコウが頭から突っ込んでいる。不意に襲われたのであろう男は事態を飲み込めないまま、地面へと倒れこみ、コウも男に折り重なるようにして倒れこんでしまう。
自分を倒した犯人を理解した男は左手に持った剣をコウに向かって振り下ろそうとするが、それより早く、アタシの殺意が疾走する。
「でぃやああああ!」
男に駆け寄り、渾身の力を込めた右脚が伸ばされた手の手首付近を捉える。手首付近に当たった脚は高々と振り上げられ、衝撃の瞬間に感じた「ぱきっ」という感触が遅れて伝わってきた。
「い」
男は突然の激痛に悲鳴を上げる事さえ出来ず、目を白黒させたままアタシの目を睨む。そのままその不快な視線を遮るように右足を彼の顔に振り下ろすと、男は悲鳴を上げて転げまわる。
「コウ!怪我は!?」
男の腹から揺り落とされたコウはゆっくりと立ち上がり、困ったような笑みを浮かべながらこう言った。
「頭を使うのは得意ですから」
二人の間に微かな笑い声が零れ落ちた瞬間、こちらに向かってくる複数の足音がした。
「おい!女どもが逃げてるぞ!」
「捕まえろ!」
「抵抗するならデケェ方は殺してもいい!」
「マズイ!走れる?」
「はい」と頷くコウの顔には緊張と疲労が見て取れる。
長くは走れない。となると、一か八か、馬を奪うしかないかも知れない。
「こっち!」
コウの手を引くことができたらどれほど気が楽だろう。無論、そちらの方が走りにくいのだが。
突然、目の前の空間が開けた。手前の低木や蔓に遮られ森の先が見えていなかったのだ。
小屋のように小さな家がいくつも並び、集落のようにも見えるが、煙に包まれた家々からは人の気配を感じない。煙は濃く立ちこめているが、炎の煌めきは見つけることは出来ない。既に鎮火され始めているのかとも考えたが、それは恐らく考えにく。となると、煙でこの集落を燻ったと考えるべきだろう。だとすれば、ここが賊の拠点であった可能性が高い。
とすれば、馬がまだ残っている可能性は高い。
アタシとコウは集落の真ん中へ急ぎ足で向かい、周囲を見渡すが厩舎らしき建物は見えない。
どうして?やっぱりここは賊の拠点じゃないってこと?
そんな思考を遮るように、男達の声が聞こえてくる。
「コウ!」
後ろを走っていた少女を見る。彼女は顔中から玉の汗を止め処なく流し、その荒い息で華奢な身体は大きく上下していた。誰がどう見ても、彼女は限界であった。
アタシは手近な建物に転がり込んだ。入り口は扉などではなく、粗末な筵で遮られたみすぼらしい建物ではあったが、我侭は言ってられない。
中は20平米ほどの物置同然の家屋であり、身を隠せるような場所は全く無い。アタシ達は部屋の隅で息を殺し、コウの息が整うのを待つ他なかった。
薄暗闇の静寂の中、外ではアタシ達を捕縛しようとする男達の足音が、右へ左へ行き交っている。
「いたか!」
「いや、いねえ。逃げ足の速い奴らだな」
「いいや、デケェ方はともかく、もう一人の方はどう見てもいいとこのお嬢さんだぜ。そんな遠くには行ってねえ」
「俺は向こうを見てくる。お前らはこの辺の家を見て回れ」
マズイ。
落ち着き始めていた息がギュッと詰る感じがする。意識を聴覚に集中しながら隣に座るコウを見た。暗黒に近い暗闇の中でも、彼女の疲弊は明らかだ。肩をがっくりと落とし、浅い呼吸を絶えず繰り返している彼女の肩が実際以上に小さく見える。
「逃げてください」
顔の見えないコウの声は、今にも消え入りそうなほど弱弱しい。
「何言ってんの。約束、破る気無いよ」
「では、こうしましょう。私が囮になりますので、メイはその隙に」
「バカ、それをやるなら逆でしょうが」
「いいえ、仮にメイが注意を引けたとしても、私の体力で逃げ切れる可能性はほぼありません。だったら、余力のあるメイが逃げるべきです」
「そんなことしたら、残ったアンタが何されるか分かってんの!?」
彼女は相変わらず瀕死の子犬のような声のまま顔を近づけ、暗闇の向こうから真っ直ぐコチラを向いて呟いた。
「私が、あなたを、守りますから」
そう言われたアタシは、猛烈に腹が立った。
弱いくせにいっちょまえな口を利く目の前の女の子に憤り、こんな子にこんなセリフを言わせてしまう自分に怒り、そもそもの原因である賊への憎悪と、それを放っておくこの国の中枢への焼けつくような感情が、身体の芯の奥の奥から湧き上がってくる。
気に入らない。全部全部全部。
胸中で沸騰した感情が喉からせり上がり、それが声になって飛び出そうになった瞬間、背中の方から人の気配がした。
「あっ!」
身体が自然と闘いの姿勢へと切り替わる。素早く後方へ跳躍したアタシは全体重を込めて男の腹を、蹴破らん勢いで蹴り飛ばす。
結果的に言えばコレが失敗だった。男の身体は軽々と宙を舞って、背後にあった何がしかの塊に突っ込み、大きな音を立ててそれが崩れ落ちた。
しまった。男に発見されたときよりも大きく心臓が脈打ち、全身を焼け付く血潮が駆け巡る。
「コウ!急いで!」
コウがよろめきながらも立ち上がる。
こうなっては仕方が無い。一か八か敵を外に打って出るしかないと覚悟を決め、筵を体で押しのけた。
瞬間、鈍い痛みがアタシの腹部をを強襲した。
膝から力が抜け、瞳の内側にいくつもの星が煌めいて、アタシは地面へと突っ伏した。その拍子に腹の奥から胃液がせり上がり、埃っぽい地面に汚物を吐き出してしまう。
しくじった。完全に、判断ミスだ。
コウの意見を聞かずに飛び出しているべきだったのだ。そんな思考も頭の隅で跳ね回るばかりで、具体的な打開策はどこにも見つからない。
土の上でのた打ち回っているうちに、小屋の中から少女の鋭い叫びが聞える。
「やめて!放して!放してください!」
遠のく意識を必死に引きとめながらそちらを見れば、賊の一味と思われる男に髪を引かれ、華奢な人影がじたばたと暴れまわっている。すると男は手を離し、少女の頬へ重たい裏拳を叩きつけた。少女は悲鳴を上げることさえ出来ぬままアタシの隣へ転がり、手で押さえる事さえ叶わない痛みに悶絶した。折れなかったのが不思議なほど白く細い首が小刻みに震え、少女の目じりからは大粒の雫が零れる。
自分はといえば、口から反吐を吐き、立ち上がることさえままならない。怒りは確かにそこにあるのに、四肢には力が入らない。
悔しい。悔しい。ただ恨めしい。
非力で無力で無策な自分が情けない。
こんなところで、こんな男達に負けてしまう自分が惨めで情けない。
バカだからか。女だからか。
違う。アタシは、弱いからだ。
奥歯を噛んで溢れ出ようとする涙を押し留める。
強くなりたいと望んで生きてきた。自分らしく生きてやると言って家を飛び出してきたのだ。こんなところで――
男の足が目の前にやって来る。アタシはゆっくりとその醜い身体の上に乗っかった不恰好な顔を睨みつけた。
笑ってやがる。醜悪に、厭らしく。
「クズ野郎」
そう毒づくのが精一杯だった。