一つの馬車に、二人の女
長編初挑戦。中華ファンタジー初挑戦。何もかも初めてですが、温かい目線でご覧いただければ幸いです。
時はまだ、神話と歴史が交じり合う遠い昔。
地には人が住まい、空や海、高くそびえる山々には仙人や神獣達が住んでいた。
巨大な大陸の東端を統べた龍王朝は、泥沼の権力闘争と異民族の侵略から20を越える小国に分かれ、その前史を越えるほどの長い長い戦乱の時を迎える。
混乱を治めた戒王朝もまた、5代皇帝・陸帝の暴政により国が乱れ、辺境の王であった王越が帝位を簒奪。四方を険峻な山々に囲まれた平原に、新王朝「樊」を建てた。
人里から離れた地に住んでいた仙人、神獣の類らも、血生臭い人の世を厭い、一人また一人とその姿を隠していき、今大陸に住まうのは、束の間の安寧に疲れた身体を横たえる人々と、僅かに残った神獣達である。
そして樊王朝建立から150年立った今、再び戦乱の種が芽吹きつつあった。
この物語は、3人の男と2人の女、そして1匹の猫にまつわる歴史。あるいは御伽噺である。
空の青さを、絵筆で残せればと思った事は一度や二度ではない。
けれど、絵の具が悪いのか腕が悪いのか、遂にそれを残すことはできなかった。
それでも私は、今も空を見ている。
行けるわけでも、届くわけでも無いはずなのに、それでも私はこの揺れる荷馬車の中で、ただただ流れる春の胡乱な蒼天を見つめていた。湿り気を帯びた芳醇な土の匂いと、冬枯れの残る草原の囁きが耳をくすぐり、時折頬を撫でていく穏やかな微風に、毛束がいくつか攫われる。
良いな土地だ。樊王朝の太祖、王越がこの地に王都を立てた理由が分かる気がする。
兵は民、兵は人だ。兵糧が無くては兵を養えず、収穫が無くては賊ととなるか骸となるか。豊かな大地が豊かな生活と豊かな精神を育む事は、歴史書を引用するまでも無く自然な事なのだろう。
そういう意味では、この旅路も存外悪いものではないのかも知れない。初めの心持ちは虜囚のそれだったが、今のこの気持ちは旅情というのだろう。私に残された道は、どうせ一本しかないのに。
「おねえさん」
女の声がして、私はそちらへ向き直る。
ガタガタと揺れる馬車の荷台で、ただ乗り合っただけの見知らぬ女性が、隣から私に向かって微笑んでいる。見たところ歳は近そうだ。
「もしかして一人旅?この辺は治安もいい方だけど、いくらなんでも危なくない?」
大きな瞳に高めの鼻筋、それら全てをぱくんと飲み込んでしまいそうな紅い唇を弓なりにたわませて、人懐っこいような表情を作っている。そう言う彼女も一人旅のようだが。
「いえ、その……いいんです。別に……」
大事な身体でも無いので。そう言いそうになる自分の唇をきゅっと絞り、私は言葉を飲み込んだ。
そう私は、この身体を後生大事に扱おうなどという気になれないでいた。自分の生まれに不満は無い。私の家は数十里先の港町にある。地元では名の知れた商家だったあの家に生まれたおかげで、手に入るだけの書を読み漁り、その暇に絵を描くくらいの裕福な生活をしていたのだ。いずれは供を連れて諸国を巡り、様々な書や景色と出会うことを夢に見て、ただ安穏と空を眺めていた。
それだけで幸せだったのに。
「あー……ごめん、何か訳あり?別に詮索なんてしないけどさ」
人でも殺した?と彼女はまた笑う。
詮索しないと言いながら、その舌の根も乾かぬうちに、腹を探るような事を言う。それでも厭味を感じないのは、その砕けた表情のせいだろうか。なんだか、この人好きだな。と呑気に思う。
「いいえ、そんな大それた事……まだしていません」
「……ぶふっ!あはははははっ!」
彼女はその大きな口を更に大きく広げて、甲高い笑い声を上げた。向かいに座る中年の男が怪訝そうな目を向けてきて、自分のせいでは無いのになんだか悪い事をしたような気持ちになる。
「あー……良かった。何か落ち込んでるように見えたから、なんか放っとけなくて。あたし、楊瑾。字は明。都まではまだ結構あるし、よろしくね」
こんなに軽々と諱 を教える人は初めてだ。目上の人間やごく親しい間柄でもなければ諱を呼ぶことなんてないのに。でもその気安さに、沈んだ気持ちが浮き上がるのを感じる。
「私、姓は辛、名は寧、字を孔といいます。よろしくお願いします。楊明さん」
「あー、カタイカタイ」
そう言って彼女は、やや癖のついた長い黒髪をふさふさと揺らし、悪戯っぽい顔を近づけてくる。
「メイ、でいいよ」
つくづく変わった人だと思った。きっと彼女から見た私は、目をまん丸にしてさぞや間の抜けた顔をしている事だろう。
「では、私もコウで構いません。……あの……えっと………メイは、なぜ都に?」
「えっ、あたし?あたしはー……あははは……」
どうやら彼女も訳ありのようだ。そのままひと時の沈黙が流れ、先に音をあげた私は小さく、はっきりとした口調で呟く。
「私は……嫁ぎにいくんです」
「……え?」
彼女は小首を傾げて私を見る。その不思議そうな表情に向かって私はぽつりぽつりと語り始めた。
次回は週末にでも。