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片道きっぷ

作者: 辻永かな

それはひどく曇った日のことだった。私はいつも通り、会社への道を急いでいた。

途中ぽつぽつと降ってきた雨が、地下鉄のホームまでの階段に少しふきこんでいた。

人のひどく少なく、閑散とした駅だった。駅員の一人さえもいるのかわからないような、快速の止まらない駅だった。

いつもはほんの一人か二人、駅のひどく長い地下通路の奥の方に見えるだけであった。

その日は珍しいことに、改札の少し手前の券売機のところに一人の男が立っていた。地下通路のずっと奥の方から、私は、その男が券売機の操作を終えるまでの一部始終を見ていた。なにもじっと立ってみていたわけではなく、ただ通路があまりに長いので、私が改札に辿り着く前にその男が目的を達成しただけのことだった。

私の数メートル前で、男がきっぷを改札にいれた。こんな時代にきっぷを買うやつもなかなか珍しいと、その時はそれだけ思った。

ちょうど1番線のホームに列車が到着するアナウンスがなった。それを聞くと男はふらふらと走り出した。この駅はあまりに人が少ないからか、列車がついた途端に発車ベルがなるほどに列車の停車時間が短いのだった。しかしどうも、男はそこまで焦っていないようだった。

私が改札まで辿り着いて、定期をかざそうとしたとき、私はよくあるミスに気がついた。男はきっぷを取り忘れていたのである。何をやっているんだ、おっちょこちょいなやつだなと思った。

私はきっぷを手にすると男を追いかけた。幸いにもホームへ向かう階段は2つしかなかった。どちらも見通しが良かったので、少し覗き込めば男がどちらへ向かったかは一目瞭然であった。

「1番線、蘇我行の列車が到着します。黄色い線の内側までお下がりください。2番線、列車が通過します。黄色い線の内側までお下がりください。」

そのひどくくたびれた背中を右の階段に見つけて、私も右の階段に一歩を踏み出した。遠くから列車のやってくるごーっという低く唸るような風が聞こえた。男と私の距離は階段の半分といったところだった。

「きっぷ!忘れてますよ!」

私は精一杯の音量で声をかけたつもりだったが、男は振り向きもしなかった。左右のホームから聞こえてくる列車の音で聞こえていないらしかった。

私は転がりそうになりながら一段とばしをした。階段を降りている最中、足元だけを注視していたので、いつのまにか私の視界から男はいなくなっていた。最後の3段を飛び降りて、私はホームに降りたはずの男の背中を探した。

男のくたびれた背中はホームの端にあった。2番ホームの黄色い線の外側だった。どんどん列車の音は大きくなっていった。

列車の音はどんどん大きくなっていった。男の背中がぱっと消えた。消えたようにしか見えなかった。列車がそこを完全に通過して、完全に通過してから、慌てたようなブレーキ音が聞こえた。或いはそれは諦めきったような音だった。

男がいた場所には何もなかった。列車の下敷きになってしまったのか、何も見えなかった。私はしばらくそこに立ち尽くしていた。

知りもしない男の声が聞こえた気がした。

「忘れたんじゃない、いらなかったんだ。」

私は手にしたきっぷに、顔もよく知らない男の最後のぬくもりを感じた気がして、ふと目をやった。それはホームへの入場券ではなくて、ちゃんと行先のあるきっぷだった。

「1番線、列車が発車します。」

聞き慣れた発車メロディーがなって、私は反射的に反対のホームの列車に乗り込んでいた。きっぷの行先は終点までだった。

地下鉄の、黒い窓を見つめていると男のくたびれた背中を思い出した。私は一体何をやっているのだろうと思った。

ほんの背中しか知らない人物に、それでも私はなぜか生きていてほしかったと思った。男がどんな道筋を歩んできたかも知らなかったが、それでも私は生きていてほしかった。男のことを知りたいと思った。

ひどく辛いものを背負ったような背中だったとぼんやり思った。それはきっと、男の行先が片道きっぷで十二分なものだったからであって、男が今私がいる場所にいたとしたなら、そんなことは思わなかっただろう。

しばらくすると暗いものは見えなくなり、窓から光が差し込んだ。外の景色には遠目に海すら見えた。いつのまにか外は夏の始まりのじめつく感じも全くない、きれいな快晴になっていた。

まだ、生きようとだけひどく思った。


まずは、ここまで読んでくださりありがとうございます。

男には一体どんな「これまで」があったのでしょうね。一番近くの人になんとも思われずとも、駅で通りすがっただけの人に生きていてほしかったと願われるとは皮肉なものです。

この作品を通して私が伝えたいメッセージは、あなたがきっと知らないだけで、あなたに生きていてほしいと思う人はどこかにいます。

生きていれば、これからまた違った出会いをする人かもしれません。

あなたは誰かの未来の大切な人なのです。

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