第一章第五話 「『オグマ・ケイジの遺言』」
――夜の倉庫に響くマフィア達の怒号。
――大勢の足音。撃ち放たれる銃火の轟音。誘拐された子供達の泣き声。
――「もう大丈夫だ」と笑いかけるジャーナリストの握るカメラ。
――自分を庇って撃たれた胸が、赤く染まる光景を。
――力強く抱き締める腕から、失われていく体温を。
――その安堵と。罪悪感と。拭えない憧れを。
――今でもずっと、覚えている。
▽▲▽▲▽▲
一隻の大型調査船が、夜の海に煌々《こうこう》と燃えていた。
三号船トロリーの深い蒼色の船体は斜めに両断され、鋭利な断面から火を噴くように燃え盛っていた。炎上する船のあちこちには乗組員とおぼしき人影が倒れている。
船底やバラストタンクにも炎が回れば、やがて多目的環境調査船は海の底に沈むことだろう。その周囲の空に、見覚えのない大量の飛行生物が群がっている。
小熊の背後で、鵜川が呆然と呟いた。
「切断音だったんだ……カンビュセスから聞こえた、切断機みたいな軋む音は」
巨大なコウモリに似た飛行生物も、五十メートル級の大型調査船を両断する異常な破壊力も。エーリング湾を襲った『黒い虎』とはまったく別の脅威だった。
太平洋中央に出現した怪奇の島、ニューミッドウェー。
成り立ちから生態系まで何もかもが異常なこの島は、もはや人類の手に負えるようなものなのか。
そして哀れな生贄が狼狽する暇すら、この島は許さない。
「――気付かれた」
呉大尉は空を見上げていた。
炎上する三号船トロリーの煤煙の中を、何十羽もの飛行生物が舞っている。
コウモリや燕を思わせるその群れは、どの個体にも青い翼に稲妻のような黄の模様が走る。
飛行型の未確認生物、名付けるなら『夜の燕』。
遠目にわかるその生物の一つだけ確かなことは、鳥類としては規格外なことに。人間にも匹敵する大きな体を持っているということだった。
無秩序な群れは次第に列を成していき、やがて降下を始める。
呉や小熊のいる崖へと向かって。一直線に。
「走れッ!!」
呉が叫ぶ。
樹海へと一斉に踵を返した呉独立分隊が崖から離れた直後、断崖を崩すほどの勢いで『夜の燕』が降り注いだ。
その質量と速度はもはや砲弾に等しい。
にも拘わらず、鋭角に軌道を変えるその飛行は明らかに慣性に反していた。
群鳥の甲高い喚きを撒き散らしながら、『夜の燕』は森へと獰猛に追跡する。
鋭い爪と四つに割れる不気味なクチバシが、嵐に遭遇したように樹皮を傷だらけに変えていく。
「ぎっ……!」
濁った悲鳴が響き、小熊が振り返ると最後尾の青年兵が立ち止まっていた。
『夜の燕』の爪が、右肩を掴んで貫いている。
ベトナム軍の技術士官だという。
夜の行軍の間、彼は小熊にこの調査が終わったら大学で大好きなロボット工学の研究をしたかった、と打ち明けていた。
だが呉大尉や他の誰かが無慈悲な判断をするより早く、決断を下したのは彼自身だった。無事な左手で懐から球形手榴弾M67をピンから引き抜く。
いいから行け、と。彼は視線だけで訴えていた。
五秒後。密林を駆ける七人の背後から爆風が吹き荒れる。
破片が『夜の燕』の何羽かを貫き、樹々の葉にまばらな穴を空けていく。
「クソッタレがぁッ!!」
青年兵と親しかった髭面のアイルランド人軍曹が、振り返りざまにブッシュマスターACRと呼ばれる砂色のアサルトライフルを乱射した。
被弾した『夜の燕』幾匹かがわずかに怯む。
ギキィ、と甲高い鳴き声が幾重にも重なった。
「ハッ、ザマァ見やがれ! ……あ?」
快哉を挙げたアイルランド人軍曹が、ふと左側に視線を向けて怪訝そうに首を傾げる。
そして、走りながら小熊は見た。
横方向。
樹海の奥を眺めた彼の頭部が、細長い何かに高速で吹き飛ばされるのを。
「細長い、影」
サティムの操るドローンを撃墜したあの影を思い出す。
首から上を失った軍曹の体が崩れ落ちるのを待つことすら、誰にもできなかった。
『夜の燕』から逃れるためではない。
突如として立ち込めた槐色の霧が、触れた人体を腐らせ始めたからだ。
「いたっ」
「熱いっ?」
最初に肌の痛みを訴えたのは、後方を走る三人だった。
だがすぐに赤錆にも似た色の霧は量と濃度を増していく。
「あ゛っ、あ゛あっ……!!」
小熊はすぐ隣で走っていたスペイン人女性少尉の手が火傷のように一瞬で爛れるのを目にした。
同じものを見た鵜川二尉が、必死に声を張り上げる。
「びらん性ガスの類だ! 肌を隠せ、絶対に吸うな!!」
小熊は咄嗟に右腕で顔の半分を覆った。
それからのことは断片的にしか記憶にない。
棘が飛んでくる、と絶叫していた誰かがいた。
地面にいくつも埋まっていた柔らかな籠のような袋に、誰かが吸い込まれるように落ちていった。
輪になって生え揃ったおぞましい茸を、貪るように食べ始めた誰かがいた。
顔を覆った腕の端から。漂う赤錆色のガスの源が何千輪と群生した小さな朱色の花園だったことを、見た。
地獄を見て、聞いて。
足が千切れるほどに真っ暗な森を走り続けて。
気付けば。
小熊は槐色の霧を抜けていた。
いつの間にか周囲の樹々と葉は緑ではなく、鮮やかな青に染まっている。
『夜の燕』の群れももういない。
夜の樹海は静かで、生物の気配は何一つない。
小熊以外に。誰一人として。
「……鵜川さん」
振り返ると、わずか数歩の距離で青年はこと切れていた。
肌は無残に焼け爛れて人相さえもわからない。
彼が礼儀正しく、将来を嘱望される自衛官だったことを知っているのはもう、小熊だけだ。
首に提げたカメラを持ち上げようとして、小熊は鋭い痛みに顔をしかめる。
薔薇の棘に似た三本の長い棘が、生物的な杭のように右の二の腕を貫いていた。
頬に手をやるとどろりとした感触があった。
両手と右腕で庇い切れなかった顔の左半面は、もう痛みすら感じない。
「くはっ……は、ははっ……!」
自嘲する。喉の奥から笑いがこみ上げる。
とめどなく、血のような涙が頬を滴る。
小熊がジャーナリストを志した理由をふと思い出す。
それは、かつて自分が命を救われたからだった。
米国内で起きた連続児童誘拐事件。
犯罪シンジケートによる人身売買に幼いオグマは巻き込まれ、好事家や国籍目当てのマフィアに売り飛ばされる寸前だった。
小熊を救ったのは通報を受けた人質救助専門の特殊部隊、SWAT。
そしてシンジケートの拠点にまで潜り込み、自らの命と引き換えに詳細な情報を彼らに伝えた一人のジャーナリストのお陰だ。
最後の最後。
SWATの突入と共に始まった銃撃戦が激化し、逃げ遅れた小熊を庇ってジャーナリストの彼は命を落とした。
だから小熊は、あの人のようなジャーナリストになりたかった。
人を救えるジャーナリストになる事だけが、あの人の死と引き換えに生き延びた小熊に許された唯一の罪滅ぼしだと思っていた。
なのに。結局また、誰も救えなかった。
小熊だけが、生き残った。
あれだけの数の優秀な人々を見捨てて、どうしてお前だけが生き残っている?
何度同じことを繰り返せば気が済むんだ?
この大嘘つきの臆病者め。
お前もさっさと死んでしまえ。
さあ、今すぐに。
そんな深層意識の声が小熊を責め苛む。
ジャーナリストとして戦場医療も半端に齧っているせいで、これが生存者の罪悪感と呼ばれるPTSDの一種だと自覚もしていた。
だが名前など何の慰めにもならない。
笑い疲れ、小熊は一本の樹の幹にもたれかかる。
自重を支える気力もなく、ズルズルと背中を擦って得体の知れない針葉樹の根本に座り込んだ。
頭上には林冠が何層にも葉で天を覆っている。
昼であってもここにまともな光は射さないだろう。
十秒か、十時間か。
狂った感覚の中で時間が無為に過ぎていき、やがて。
スラックスのポケットで何かが震えた。
「バイブレーション、着信?」
型落ちのスマートフォンを焼けた手で取り出すと、マナーモードのまま着信画面が表示されていた。番号は、登録済みの国連本部窓口。
電波のマークは三本とも立っていた。
また、笑ってしまう。
ホラー映画やミステリ小説なら真っ先に電波だけは通じなくなるところだろうに。
この島では、人が全員死んだ後でもインターネットだけは通じるらしい。
緑の受話器のアイコンをスワイプして着信を拒否したことに深い意味はなかった。
ただ、上官への報告は軍人の義務だ。
国連本部の連絡係に話をしたところで信じないか、上層部には伝わらないか、最も良くて無機質な報告書にファイリングされるだけに過ぎない。
アンジェリカの努力を小熊は誰に伝えたいと思ったのか。
呉大尉は誰にこのすべてを伝えろと言ったのか。
答えは、世界に、だ。
小熊はスマホの録画機能を起動した。
「――あと何分、俺が生きているかわからない。だから手短に話す」
焼けた指はまともに動かない。声も震える。
それでも続ける。
小熊は樹木に寄りかかりながら、疲労と痛みで揺れる手元をどうにか抑える。
見覚えのない青く染まった植物の生態系を映し、それから自分の火傷でただれた左頬と棘が貫いた右腕を映像に収める。
今では悪意に満ちた拷問具のように感じる樹々に囲まれ、小熊は訥々《とつとつ》とこれまでの地獄と現状を語る。
『黒い虎』。『夜の燕』。切断された大型調査船。人を襲い殺す樹海。
アンジェリカ・コールフォースやフレデリック・リュドワーが勇敢だったこと。ウルセン・サティムの腕は確かだったこと。呉悠然は家族のために死んでいったこと。数多くの研究者や、鵜川のような軍務従事者、他にも様々な人間がこの島で死んでいったこと。
「あいつらは――|物理法則が違うみたいだった《ディファレント・ロウズ・オブ・フィジクス》」
そんな言葉も零れ落ちた。
とりとめのない話には有益な事実も無意味な感傷もあっただろう。
だが死を目前にした恐怖で狂っていると思われても、小熊にとっては一つ残らず世界に伝えなければならない情報だった。
ジャーナリストとして。オグマ・ケイジとして。
この島でただ一人、最後まで生き残ってしまった人間のやらなければならないことだった。
二分弱の動画を撮り終えると、編集もせずに小熊は自分のSNSアカウントにアップロードした。
こんなやり方ではほとんどまともに受け取られないかもしれない。
それでもこれで、この島で死んだ二百人のニューミッドウェー島国連派遣調査隊が確かに存在した証を残せる。例え、ほんのわずかにでも。
スマホを堅い根の上に置くと、小熊は深く溜め息を吐き出した。
ゆっくりと目を瞑る。
やがて、気配を感じた。
もう一度瞼を開くと、『黒い虎』がすぐ近くから小熊を見つめていた。
四角錐のような虹色の結晶柱の先端と《《目が合う》》。
小熊は軽く笑って、痛む右手で一眼レフを掴む。
『黒い虎』を睥睨する。
「来いよ……撮ってやる」
いつか第二次調査隊やレスキュー部隊がこの島を訪れて。
この場所で、小熊の死体と共にカメラが発見されて。
その中の画像データから、『黒い虎』を駆除するためのデータがほんのわずかにでも回収できたのなら。小熊の勝ちだ。
情報を残し、伝える。
そのためならこの命を賭ける価値がある。
『あの人』のように。小熊にだって、それくらいはできるはずだ。
一歩ずつ、『黒い虎』は獲物に歩み寄る。
小熊は喉を見せつけ、目の前の被写体を腹に構えたレンズに誘い込む。
こちらが何年カメラを構えていると思っている。ミスなどするものか。
狩猟者が小熊の喉笛を食い千切る一秒前が、最高のシャッターチャンスだ。
だから。
『黒い虎』が獲物に向かって四つ足で地を蹴った瞬間。
小熊が被写体に向かって人生最後のシャッターを切った瞬間。
両者の間に割り込んだ赤い影は。
双方の目論見を、完膚なきまでに粉砕した。
砥がれたサバイバルナイフの先端が『黒い虎』の首筋を深く抉る。
首筋に添えた左手が突進する巨体のベクトルを空中で柔らかにいなす。
漆黒の巨獣は小熊の斜め後ろへと転がり、二度と起き上がることはなかった。
赤い髪が鮮やかに宙を踊る。
アンジェリカ・コールフォース。
世界最強と謳われた伝説的な特殊部隊、米海軍全環境特殊部隊の女海兵は。
サバイバルナイフを指先だけで鞘に滑り込ませ、笑った。
「――ただいま、オグマ」