第一章第四話 「暗夜樹海行」
樹海に入って二百メートルほど先に、腰から下を食い千切られた女性技師が転がっていた。
彼女は赤外線温度検知器などの各種観測機材の前にいたので、いち早く入り江から逃げ出すことができたのだろう。だがそれでも別個体の『黒い虎』と遭遇してしまったらしい。
激痛による失神や出血性ショック死は免れない致命傷にも関わらず、彼女にはまだ意識があった。
死の間際、『まだ死ねない』という強烈な心理作用が意識を保つことがある。
それは脳の働きがドーパミンやノルアドレナリンの分泌を促し交感神経を刺激するからであり、人類の科学がまだ未解明な意思という概念の力でもあった。
それでも結局、人は死ぬ。
「お願い……シドニーの弟達に、これを……番号は、誕生日……」
焦点の定まらない瞳で差し出されたのは、一枚のクレジットカードだった。小熊がカードを受け取ると同時に腕は力を失って地面に落ちる。それきり、白くメッシュの入った茶髪の女性技師が動くことはなかった。
「進みます」
小熊がクレジットカードから顔を上げると呉大尉は何事もなかったかのように先導を再開する。鵜川二尉は憂鬱そうな顔で、他のメンバーも似たような顔色だったが、それでも歩き出した。
小熊は、ポケットから煙草と携帯灰皿を掴み出した。昨日までの自分は確か、一日でも早く死ぬためにこれを吸っていたはずだ。死を恐れるなど子供じみた臆病さだと見下していたはずだ。
煙草を眺めていると、ガチガチと奇妙な音が聞こえる。
出所を辿ると、小熊自身の歯が震えて打ち合わさる音だった。顎に触れた手にも、肩にも震えが伝染していく。頬が強張って表情を変えられない。
死にたくなかった。ただひたすら、死ぬのが怖かった。
小熊は煙草を地面に投げ捨て、技師の遺品のクレジットカードをスラックスのポケットにねじ込む。そして震える足取りで呉大尉の後を追う。
背後の樹海の外。
調査船の方から、巨大な金属が軋むような異様な音が聞こえていた。
▽▲▽▲▽▲
――それから、五時間が経った。
誰も予想しなかったことに、まだ呉独立分隊の全員が生きていた。
休憩はこれで三度目だ。
背中合わせに八人で円陣を組み、三百六十度死角がないように周囲を監視しながら座っている。
一度目の休憩の前には「一秒でも早く『目的地』を目指すべきだ」「体力が尽きてから『黒い虎』に襲われたら全滅する」、などと議論もあった。だがここまで何の障害もなく進めたことで適度な休息に異議を挟む者は出なくなった。
固形糧食を小熊へ回す最中、呉大尉が行軍を開始してから初めて指揮以外で口を開く。
「銃を持ち込んだのは、結局お互いの陣営を信頼できなかったからでした」
思わず隣を見た小熊に、前方から目は離さないように、と呉から叱責が飛ぶ。
民間人相手でこれなのだから祖国ではきっと鬼軍曹扱いだったことだろう。
そんな呉大尉が柄にもない個人的な会話を始めたのも、少しだけ気が緩んだからなのかもしれなかった。
「あなた方アメリカ側からすれば信じられない話でしょうが。私達もアメリカ側の勢力が、不当にニューミッドウェーを占拠するのではないかと疑っていました。――今でも、報告を受けた外の人間は、この島が敵側の新型生物兵器の実験場だと考えるでしょう」
それほどの疑心暗鬼。
陣営の区別などなく皆殺しにされたあのエーリング湾を経験すれば、『黒い虎』とニューミッドウェーが人の手によって生まれたものだとは考えるのは難しい。
だが人は、疑うことをやめられない。
「もちろん祖国の上層部は、可能ならこの島を手に入れることを望みましたが……大戦の引き金までは引きたくなかった。それでも銃を手放すことはできなかったのです。私達も、あなたがたも」
黒髪の女大尉が、肩に提げた無骨な小銃を撫ぜて小さく笑う。
「皮肉なものです。その銃に頼って私達は生き延びている。敵を信じた者が救われる、なんて優しい結末は、現実にはありえない。――疑うことは、いつだって正しい」
呉悠然が何を考え、どんな半生を生きてきたのか。
死と生の狭間を彷徨う夜を共に越えて。
小熊は痛切に彼女のことを知りたいと思った。
アンジェリカやサティムやリュドワー。
死んでいった者達の過去は二度と本人に尋ねることはできない。
いつか話す機会もあるだろう、なんていつかは永遠に訪れない。
「時間です。暗夜でペースが遅れたとはいえ、歩数を数える限り『目的地』は近いはず。行きましょう」
「呉大尉」
夜の森に立ち上がった呉に、小熊は静かに声を掛けた。
視線は鬱蒼と広がる樹海に向けたままで。
「……? 何でしょう、小熊さん」
「あなたの取材をさせてください。今から、歩きながらでも」
携帯ボイスレコーダーと一眼レフ、そして型落ちのスマートフォン。
銃を持たない小熊の武器はそれだけだ。
それから十五分の間、小熊は自分の武器を最後の時まで使い倒すことにする。
農村に暮らす飢えた家族を養うために軍へ志願したという、呉の話が途切れたのは、だから。その時が訪れた瞬間だった。
ところで。
呉独立分隊が『目的地』としていたのは、つまるところ残り二隻の調査船である。
二号船カルネアデスの停泊する入り江周辺に『黒い虎』の群れが跋扈している以上、島から脱出する方法はそれしかない。
三隻の調査船団のうち、一号船カンビュセスと三号船トロリーは島の周囲を巡航している。巡航ルートと逆向きに海沿いを歩けばいずれどちらかに出くわすし、『黒い虎』の群れが現れても崖から海に飛び込める。
なので呉独立分隊は、海沿いにニューミッドウェー島を半周するようなルートを辿って歩いてきた。
「待って」
先導していた呉が、唐突に片手で後続を制して立ち止まる。
訝げに片眉を上げた分隊のメンバーもすぐにその理由を理解した。
光が見えたからだ。
軍用のデジタル時計が示す時刻は太平洋標準時で深夜一時。
周辺海域に灯台など存在せず、連絡を受けた救難艇や巡洋艦が辿り着くには早すぎる。
探していた一号船や三号船だろうか?
それなら大喜びで快哉を挙げて飛び出してもいいはずだ。
なのに誰一人、そうする気にはなれないらしい。
オレンジに揺らぐ煌めきはどこまでも不吉だった。
それでも確認するしかない。
呉大尉は茂る葉を掻き分け、海沿いの道から崖の淵へと歩み出ていく。
結局。
八人のニューミッドウェー国連派遣調査隊の生き残りは、きちんと『目的地』に辿り着いていたことになる。
夜の海で。一隻の蒼い大型調査船が、かがり火のように煌々《こうこう》と燃えていた。