第零話 「北緯25度西経177度 太平洋中心部」
――初めに光があった。
北太平洋中心部。海中にそびえ立つ巨大なサンゴ礁の柱状構造体から成る、ミッドウェー環礁北方の深海。
水深五千メートルの海底付近の空間に『亀裂』は発生した。
地球人類があと千年は到達しなかったはずの次元物理学に準じた干渉が、世界の隙間を徐々にこじ開けていく。
一プランク長にも満たなかった『亀裂』は急速に育ち、やがて燐光が漏れ出す。一匹の海蛍よりも小さな光が暗い深海を照らし、フトツノザメやダイオウグソクムシ、ヌタウナギといった深海生物が獲物を求めて顔を覗かせる。
そして――圧縮された。
圧力均衡によって五千トンの水圧にも耐える体構造を獲得した深海生物が、一瞬にして分子サイズにまで押し潰され、絶大な平面圧力によって切断される。消滅した断面からは極限高圧によって蒸発した物質が泡となってゴポゴポと浮かんでいく。
急激に成長した『亀裂』は亀裂ではなく、既に広大な『断層』と化していた。
断面積一キロにも及ぶ、色彩のない巨大な空間の断層。半透明な白い靄が生じ、オーロラに似た円環状の極光が海底に拡散する。
物理法則の隙間をこじ開け、宇宙と宇宙の境界を繋ぐ門。
次元断層。
その出現の瞬間、深い海の底で起きた異変に気付いた人間は、しかし地球上に誰一人としていなかった。誰もが普段通りの、平穏であったりそうでなかったりする日々を過ごしていた。
ジャーナリストの小熊継次は、マンハッタンでビッグニュースを求めて死に急ぎながら十三本目の煙草を吹かしていた。
新兵のレイド・フェルマーは、何度も命を落としかけながらアラスカの山野を駆ける訓練に明け暮れていた。
『凶獣』と呼ばれた虎・ラスティリオは、広州の地下室で人身売買組織の錆びた鉄檻を内側から噛み壊そうと、血走った双眸で牙を立てていた。
『帰還者』アリア・レイド・コールフォースは、まだ生まれてもいなかった。
外交官の志々蔵京一は、赤坂で炭素削減条約の交渉を終え、唯一の息抜きである京都産の玉露を喉に流し込んでいた。
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そうして。
誰にも存在を知られないままに、次元断層は次の動きを見せる。
断層は空間を繋ぐ巨大な門だ。
深海の果てしない水量は、別の何処かに流れ込み始める。
穏やかな深層海流ではあり得ない暴力的な噴流が生まれ、突如出現した開口部へと急激に流れ出していく。けれど。耐震構造の高層ビルだろうと即座に圧壊させる暗い水の奔流に逆らって、ゆっくりと向こう側から現れるものがあった。
それは、女の細腕だった。
色彩さえも読み取れない荒れ狂う海中に、その腕はゆっくりと指先を伸ばす。
泳ぐように。彷徨うように。探し求めるように。
直後。
海底が爆発するかの如く急速に隆起した。
キロ単位の範囲で分厚い岩盤が海水を貫いてせり上がり、終端も見通せない巨大な岩の柱となって海上へと突き上がっていく。
水深三千メートル、水深二千メートル、水深千メートル。
そして海面へ。
海底火山の噴火よりも激しい速度で噴き上がった岩の柱は、その先端をわずかに海上に姿を見せる。
水面に突端が覗く頃には表面に無数の樹木が濃密に生い茂ってさえいた。
あたかも、新たな一つの島のように。
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北太平洋中心部、第一号次元断層。
後にニューミッドウェー島の太平洋断層と呼ばれる、世界を侵食する最初の『断層』はこうして生まれ落ちた。
人類の絶滅を賭けた大戦の「はじまり」を人類自身が知るのは、もう少しだけ先のことになる。