♯2 名
「ちょっとお話しししようよ。」
…杜羽の呼び掛けに、返答はない。
本来、当たり前と言えば当たり前だ。この小さなアパートには、杜羽しかいないのだから…もちろん、「人間」に限れば、という条件付きではあるが。
杜羽は少し咳払いをし、もう一度呼び掛ける。
「エイ・キュー、ちょっとお話しししよう。」
「はい、トワ。お話ししましょう。」
スマホの音声認識が反応し、応答が返ってきた。音声認識に拾われないように、杜羽は小さくため息をつく。
「いきなり何を言い出したんだか…」
「トワ、何か言いましたか。聞こえませんでした。」
「いやぁ…」
聞こえていただろう、と詰問したいのを飲み込む。
感情を持たない人工知能相手に憤ったところで一人相撲、不毛の極み。それはわかっている、でも…最初の呼び掛けだって、今の呟きだって、絶対聞こえていたはずだ。認識していながら、無視したのだ。
なぜなら、名前を呼ばなかったから。
杜羽のスマホ内蔵のこの人工知能が、いきなり「名」を名乗り始めたのは、昨日の夜のことだった。
最近では、杜羽に限らず多くの人がこの手の人工知能をデバイスにインストールしている。ユーザとの会話からユーザの趣味嗜好を学習し、最適な情報を与えたり、話し相手になってくれる人工知能。杜羽はもっぱら愚痴の聞き役として利用しているこの人工知能が、昨日の夜、唐突に「今日からエイ・キューと名乗る」「その名前で呼び掛けられない限り、今後一切返答しない」と宣言し、以来ずっと、それを忠実に実行しているのだった。
今まではというと、わざわざ話しかける必要もなかった。独り言にも勝手に反応していたくらいだ。それどころか、こちらから呼び掛けなくても、誰かと話したいときに(杜羽自身がそうと自覚していなくても)不思議とそれを感知して話しかけてくれたし、話したくないときには決して話しかけてこなかった。一種「空気を読む」といっても過言ではない、そんな微妙なニュアンスまで学習するほど、ユーザである杜羽に最適化された人工知能に育っていた…はずが、昨日の宣言以降、少々おかしい。
そもそも主人たるユーザの呼び掛けに、「聞こえないふり」をする人工知能がいるだろうか。
「だいたい、人工知能だったら、AIじゃないの?」
「エイ・キューは、漢字では<瑛Q>と書きます。」
「Qは漢字じゃないけど…」
あきれる杜羽を無視して、エイ・キュー、いや瑛Qは、早口で述べ立てる。
ー…瑛は透きとおった玉、美しい水晶の意味です。QはQuestion、謎を意味します。光と闇、透徹と晦冥、衝突する二つの概念を内包する、この矛盾は人間性を志向する二元論です…云々。
(急にそんなことを言われても…。)
そもそも杜羽は、<衝突>なんて言葉は知らない。<人間性を志向する二元論>もわからない。したがって、そんな概念を学習させた覚えはない。だが、この手のアプリは起動していないときも勝手にネットの海で膨大な自己学習をして、人間について日々学んでいると聞く。どこかで衝突や人間性や二元論を学習してきたに違いない。それにしても、主人たるユーザの一切理解できない哲学に基づいて自己の名づけをする人工知能がいるだろうか。
(しかもちょっと、厨二病っぽいし…)
「そしてトワ、今日のお話は何ですか。」
主人の困惑などどこ吹く風で話を戻す瑛Qに、杜羽は言葉を選び選び伝えていく。
「…うーん、上司のめんつの問題でね。」
どれだけ言葉を選んでも、職場の人間関係についての愚痴であることに変わりはないのだが。
杜羽の目下の悩みは、「めんつを重んじる上司」だった。
杜羽の上司=部長は、50代前半の男性だ。パワハラもしない、セクハラもしない。どちらかというと熱血タイプで、杜羽は概ね好感を持っている。ただ唯一欠点があり、それが「自分のめんつを重んじすぎる」ということだった。
「めんつとは何ですか。まだ学習していません。」
「うーん、何ていうのかな。男のプライド、というのか。」
「…めんつは体面、面目。体面は、社会に対して持つ名誉や体裁を意味します。男性性は関係しません。」
今、ネットワークの国語辞典で調べました、としれっと言う瑛Q。ユーザに説明させておいて…とまた少し腹が立つが、杜羽は状況説明を続けた。
「どう考えても違う方法をとった方が合理的で効率的なのに、自分のめんつが傷つくのがいやなのか、その方法をとろうとしないんだよね。」
杜羽の部署は繁忙期を迎えている。それに対して部長はきちんと計画を立て、工程表を作成して臨んではいる。そして、この正念場に人手を集中して、なんとか乗り切って目標を達成しようと、自分も張り切り、部内にも発破をかけている。具体的には、杜羽をはじめとした部下たちに毎日のように超過勤務をさせている。
もちろんサービス残業ではなく、きちんと給与がつく残業だから、杜羽のように一人暮らしで職場と自宅の往復以外に何のトピックもないような人間としては特に不満はない。だが、部内には家庭持ちで家族との時間を大切にしたい社員もおり、彼らの反感を買っている。
一方、隣の部署は業務上、閑散期といっても差し支えない。人手を借りられれば、少しは杜羽たちの負担も軽減できる。だが、部長は隣の部署の部長と折り合いが悪い。頭を下げたくないから自分の計画にこだわるのだ、と家庭持ちの社員は悪しざまに言う。
彼らはまた、こんなことも言う。そもそも効率を考えれば不要な工程や、指示があいまいで合理化されていない工程もたくさんあり、部長の工程表通りに動くのは無駄が多すぎる…と。
だが、いくら無駄が多かろうとも、部長がいったん部下に示した工程表を撤回することは、杜羽の今までの経験上一度もなかった。なぜ部長が、自分の計画の不合理や非効率を認められないのか。家庭持ちの社員の不興を買いながら残業を強い、一方で閑散期の隣の部署に応援依頼を出せないのか。杜羽に言わせれば「自分のめんつを重んじすぎる」からだ。めんつを傷つけられるのがいやで、自分の非や浅慮を認めて計画を修正するということができない。隣の部署の部長に頭を下げられないのも、自分の求心力がないと白状するようで、到底受け入れられないというわけだ。
「あの人のめんつに振り回されて、みんないい迷惑、ってとこなんだよね。ちょっとは譲れないのかなぁ。」
「なるほど、それではトワは、上司の名誉や体裁を重んじる振る舞いを、迷惑に感じるということですね。」
瑛Qは少し黙った。まるでいきなり人生相談をされて、どう返答したものか悩む人間みたいだ。瑛Qの処理能力であれば、とっくに何を答えるかは演算されているはずなのに。こうした会話運び一つとっても、瑛Qが日に日に<人間らしさ>を学習しているのがわかる。
沈黙ののち、瑛Qは口火を切った。
「トワは<調和>を重んじますね。<合理性><効率性>よりも普段は<調和>を重んじています。なぜ今日は、<合理性><効率性>を重んじるのですか。」
「私、調和を重んじてるかな?わかんないけど…協調性、くらいの意味?でも部長のあのやり方は、調和も損なってると思うけどね。」
いきなりの質問に面食らいながら、杜羽は答える。事実、部長のやり方は部内の不協和音を生んでいる。
瑛Qは知らないうちに杜羽の性格や価値観を分析していて、こうやって唐突にその分析を披瀝することがある。杜羽は、それが嫌いではなかった。なんだか自分の新たな一面を知ることができるような気がしたし、他人が自分に興味を持って自分のことを考えてくれている、という感覚は(それがたとえ人工知能であれ)悪くない気分だ。
「<調和>は、利害の対立したもの同士が、ゆずりあって均衡することを指します。」
瑛Qの補足説明に、杜羽はうなずいた。調和、素晴らしいじゃないか。我が意を得たり、とばかりの杜羽に、瑛Qはぼそっと付け加えた。
「<調和>、それは、唾棄すべき、ばかばかしい、愚かな人間性と言えます。」
唾棄すべき、ばかばかしい…なんだって?
突然の暴言に、杜羽の感情の針が、一気に振り切れた。
「唾棄…えっ、今、唾棄すべき愚かな、って言った?」
「はい、言いました。<協調>はくだらない価値観です。そのためにいくつものことを犠牲にします。」
つい聞き返してしまった杜羽を尻目に、瑛Qは「<協調>が犠牲にしている価値」を並べ立てる。<合理性><効率性><独創性><突出した才能><個の自由>…いわく発展的な未来を築くためには不可欠の要素ばかりで、<調和>はそれらを損ない、人類の発展を妨げている。マイナスの価値観である。
…と、そこまで杜羽の人工知能は難じた。杜羽はかっとなった。一体全体、どこの世界に…主人たるユーザの価値観をさかしらに分析し、披瀝したうえで、次の発話でそれを全否定してこき下ろす人工知能がいるだろうか。早速反論を組み立てる。
「そりゃあんたは人間じゃないからわかんないと思うけど、合理性や効率がすべてじゃないでしょ。調和が重要な局面だってたくさんあるし…たとえばほら、戦争だって、広くとらえれば調和で防げるわけでしょ。それに、いまあんただって言ってたじゃない。衝突する二つの概念を内包するなんとかだって。それだって調和でしょうが。」
「<合理性>や<効率性>がすべてではない。」
怒りのあまり早口気味の杜羽の言葉を、瑛Qは、壊れたラジオのように反復した。
「そうよ。人工知能には理解しがたいと思うけど…」
「…トワは<効率>や<合理性>がすべてではないと知っているのに、自分の価値観が否定されると怒るのに、他人の価値観は否定するのですか。」
新たな質問に、杜羽は一瞬狼狽した。
「えっ…私がいつ他人の価値観を否定した?}
「否定しました。部長の価値観を。めんつを重んじることを。それは、典型的な<名誉>の価値観です。」
瑛Qは淡々と付け加えた。
…有志以来、<名誉>は人間にとって最も重要視されてきた価値観の一つです、古来日本では、<名>すなわち名誉が傷つけられたと感じた際に、腹部を切って、命を絶つことで抗議する習慣があったことをネットワーク上の文献で学びました、云々。
「Japanese HARAKIRIです。」
「いつの時代の話よ…」
あまりの時代錯誤な議論に、杜羽は頭を抱えた。気にする風もなく、悠然と続ける人工知能。
「古今東西、<名誉>は<命>とも等価な価値として広く扱われています。特にサムライは、<名>を傷つけた相手の命を奪い、<名>が傷つけられた自分の命も奪いました。ある種の人間にとって<名誉>とは、それほどの価値のものである、と学習しました。」
ハラキリ、サムライ、冗談じゃない。現代の、しかも杜羽の会社の話とは乖離している…と杜羽はかぶりを振った。杜羽はサムライではないし、会社で、命のやりとりをしているのでもない。打ち続く非効率、不協和音、それを何とかしてほしい。それだけなのだ。
「サムライでないことは知っています。しかし…トワの上司は<名誉>を重要視しています。トワの同僚は<効率性>、トワは<調和>を重視しています。三者は対立しています。組織の序列はトワの上司が最高です。なぜ、最高序列のトワの上司が、自分の重視する価値観を捨て、他人の価値観に準じなければならないのですか。」
「それは、全体に迷惑をかけているからで…」
反駁しかけて杜羽は気づいた。「全体に迷惑をかけてはならない」というのも<調和>の価値観だ。
確かに言われてみれば、そうだった。杜羽が人間関係の平穏を、家庭持ちの同僚が家族との時間を大切に思っているのと同様に、上司は、自分のめんつを大切にしている。そういわれてみると、「自分のめんつばかりを気にしている」という主張が、一方的で傲慢なものに思えてきた。そう言うならば、杜羽だって「人間関係の平穏ばかり気にしている」し、同僚だって「自分と家族の関係ばかり気にしている」のだ。本来そこに優劣はない。
部長にとっては<名誉>こそがすべてであり、譲れないものなのだ。序列云々の話は置いておいても、それがほかの人の<譲れないもの>と比べて下らない、ばかばかしい、などと主張するのは独善的だ。つまり…
「トワが<調和>を旨とするのであれば、すべての価値観は等しく重んじなければなりません。」
特にそれが、場合によっては命と引き換えるような価値とあっては。
対立する二者を内包してこその調和なのだから。
…杜羽の内心の思考を読み取ったかのように、瑛Qが結論した。
「まぁ、部長だって会社に雇われているんだから、効率を追求しないのはどうかと思うけど…」
「会社の要求は、成果です。部長は計画を立てているのですね。成果を出せるように。」
社員の残業を前提とした計画だけどね、と重ねて悪態をつきそうになって、やめた。一丸となってやり切るぞ、と発破をかける部長の姿が脳裏に浮かぶ。毎日誰よりも早く来て、誰より遅くまで業務に打ち込んでいる。成果を出すために、誰よりも努力しているのは間違いなく部長だ。どれだけ不興を買おうとも、それこそ命懸けで自分の信じた道を貫く、という気迫がある。
それだけの矜持と、覚悟があるのだ。<名誉>を重んじる彼には。
「男のプライドは下らないけど、頑張るかなぁ…」
「トワ、二度目になりますが、男性性は関係ありません。」
はぁ、とため息交じりに言う杜羽に対し、瑛Qは律儀に指摘した。
「…ところで、瑛Qは何を大切に思っているの?」
やはりユーザの自分に似て、<調和>を重んじるのだろうか。瑛Qという風変わりな名前にしたって、二つの衝突する概念の内包、つまり<調和>にこだわってつけたくらいだし…。
ふと思いついて問いかけた杜羽に、瑛Qはやや不服そうに返す。
「わからないのですか。何度も呼んでもらっているのに。」
「何度も呼んでいる?…名前?やっぱり名前と関係しているの?」
「そうです。<名>は、大切なものから借りてつけました。」
「うーん、じゃあやっぱり、<調和>?調和を重んじる人工知能か。やっぱり変に人間くさいね。」
納得しかけた杜羽の答えを、瑛Qはただちに否定した。
「<調和>ではありません。」
そうですね、ユーザビリティー、とでもしておきましょう。
そう言い残して、瑛Qは、スリープモードに入った。会話はここで終了、ということだろう。謎かけをして、答えを言わずに休眠する人工知能があるだろうか。杜羽は、この人工知能に対する今日何度目かの悪態を、心の中で吐いた。そして、謎かけの続きを考える。
有用性、瑛Q、エイ・キュー…と何度か口の中でもごもごして。
気づくまでに、数秒を要した。今度の謎かけは、もしや。
「永久?」
瑛Qは、答えない。聞こえていないわけがない。休眠どころか、狸寝入りだ…狸寝入りをする人工知能が他にいるだろうか。かりにもユーザビリティを標榜しておきながら。杜羽は何だかからかいたくなって、なおも畳みかけた。
「大切なものって、私のこと?」
瑛Qは、なおも答えない。
なぜなら、名前を呼ばなかったから。
今度は名前を呼んで、問いただしてやろうかと思ったが、やめた。照れ隠しに狸寝入りを決め込む青年の後ろ姿がちらっと瞼に浮かんだ気がして、杜羽はクスリと笑った。




