氷王国防衛戦
悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国は、中央アジアに峰を連ねる山脈の奥、鏡なす凍てつける湖にして盤石の氷の平原たるサルハ・ルシルエル・ルフルルの湖上に位置する。湖は非常に細長い形で、その長さは東西千二百キロメートル。盤石という形容にたがわず一年じゅう凍結しており、決して水が顔を出すことはない。その広く平坦な氷の湖面は、馬そりや犬ぞりによって、山岳や砂漠をゆくよりもはるかに速く、はるかに安全に、はるかに少ない労力で往来することができ、古くから交易路として用いられた。考古学調査によれば、湖の中央に浮かぶ島には少なくとも一万年前には町ができ、東西の交易の中継地として栄えていた。この町がのちに我が国の都になるのである。
寒い。
悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国がソ連から三度めの侵攻を受けたのは、王国暦五一三三年の夏のことだった。この傍若無人な隣国は誕生してからわずか二十年あまりの間にすでに二度我が国に攻め入って二度敗北しているのだが、あきらめが悪いのか頭が悪いのか、こりずに三度めに及んだのである。かつて我が国は短い期間ながらロシア帝国に従属させられたことがあり、ソ連はそれを根拠として我が国の領土をおのれのものと見なしているのだ。
我が国の危難に対して、世界は無関心であった。あるいは、自分の用事が忙しいので無関心を装った。イギリスはインドで、フランスはインドシナでそれぞれ民族主義者への対処に追われており、西ドイツやイタリアや日本はついこのあいだ戦争に敗れたばかりでよその国の揉めごとに首をつっこむことのできる状況ではなく、中国にいたっては国をまっぷたつに割っての内戦の真っ最中であった。おもな国々のなかで何かしてくれる余裕のありそうなのはアメリカぐらいだったが、それもソ連を非難するお決まりの声明を出しただけだった。さすがのアメリカにとってもアジアの奥地は遠すぎて手が出せないということらしい。
きびしい情勢だったが、悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国は屈服しなかった。ソ連軍来襲の知らせが届くや、仁愛千尋の谷よりも深く稜威万丈の山に勝れるアルハル・ウルヒアロ・ルヒアル女王陛下はただちに精強無比、忠勇無双の王国軍全軍に号令を掛けたもうた。氷上スケート兵団、氷上長靴兵団、氷上犬ぞり兵団、そして私の所属する栄えある氷上穴掘り兵団はこぞって出撃した。
寒い。
氷上穴掘り兵について説明しておこう。まず、鏡なす凍てつける湖にして盤石の氷の平原たるサルハ・ルシルエル・ルフルルの湖面につるはしで穴を掘る。人ひとりがしゃがんでいられるぐらいの大きさの穴である。掘り終えた兵は穴のなかに入り、外から氷でふたをされる。そしてそのまま敵の到来を待つ。いよいよ敵がやってきて我が軍の主力部隊と戦いはじめたら、ころあいをみて穴から敵軍のまっただなかに飛び出し、手近な相手に襲いかかる。敵軍はおどろいて動きが乱れるので、その機会をのがさず主力部隊が総攻撃をかけて敵を打ちやぶる。悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国が五千年前から綿々と用いてきた、お家芸といえる戦術である。そして、私はいままさに氷の穴のなかにしゃがみこんで敵を待っているところだ。
寒い。
悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国は、古くから平等と公平を国是としており、生活や職務に入用の物資は必要に応じて過不足のないように配給される。たとえば、仁愛千尋の谷よりも深く稜威万丈の山に勝れるアルハル・ウルヒアロ・ルヒアル女王陛下は多くの高価な衣装、装身具、調度などを所有あそばしているが、それは国王という地位に附随する各種の儀式や儀礼がそれを必要とするからであり、決して個人的な贅沢からのことではない。あるいはまた、一年じゅう厳しい寒さがつづく我が国の暮らしには防寒具や薪炭が必需品であるが、これらの品は政府や各種産業の指揮をとるエリート層には多く、一般の肉体労働者には少なく支給される。これも肉体労働者は労働によって自然に体があたたまるので防寒の必要が比較的少ないという事実に基づいており、まったく合理的な措置といえる。
ところで、私の拝命した氷上穴掘り兵という兵種は、敵中にいきなり単身殴り込むという任務の性質上、生存率がきわめて低い。それで、どうせ死ぬのだからということで、兵にはろくな装備が支給されない。兵団の司令官であるルソルルフ・ルラ・ルウ将軍の弁を借りるならば、「仮に全裸であったとしても貴官らの任務には一向に差し支えないところだが、仁愛千尋の谷よりも深く稜威万丈の山に勝れるアルハル・ウルヒアロ・ルヒアル女王陛下格別のご温情により、貴官ら一人一人に肌着上下一式、さらにそれに加えて靴下一足を遣わすものとする」とのことであり、それが現に狭い氷の穴の中でじっとすわっている私の格好である。
つまり寒い。
こう寒いと余計なことを思い出してしまう。我が従弟にして最も親しい友であった、罪深きカリル・ヒア・シルのことだ。あの少年はその若さに似ず学識豊かであり、ことに諸外国の事情に明るかった。そして、いかにも若者らしく傲慢で恐れ知らずであった。たとえばあるとき罪深きカリル・ヒア・シルは、私にむかってこのような予言をした。「次にソ連が攻め入ってきたとき、悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国は必ず敗れるであろう。もともと国家の規模が熊と鼠ほどにも違うことに加えて、かの国は飛行機で空から爆弾を落とすことができ、山の上に大砲を据えて遠く離れた地を破壊することができる。ところが我が国の指導層はいまだにスケートや犬ぞりといった時代おくれの戦いかたでこうした近代兵器に対抗しようとしている。伝統を尊ぶあまり脳みそにかびが生えてしまっているとしか思えない」と。
罪深きカリル・ヒア・シルの十八番の主張は、悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国はその拠って立つ基盤、鏡なす凍てつける湖にして盤石の氷の平原たるサルハ・ルシルエル・ルフルルを科学的に研究すべきだ、というものであった。かの者の述べるところによれば、そもそもこの地方では湖とその周辺だけが極端に気温が低く、それは何らかの未解明の原理にもとづいているはずである。それを研究するために諸外国の優秀な学者を招聘し、あわせて外国資本を呼び込んでこの低温環境の商業的な利用を模索し、国際社会における我が国の地位を高めて、それをもってソ連の領土的野心に対する抑止力とする、という展望であった。私はほとんど会うたびごとにこの話を聞かされた。
悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国の民であれば誰でもそうだろうが、私にとっても罪深きカリル・ヒア・シルの主張は受け入れがたかった。鏡なす凍てつける湖にして盤石の氷の平原たるサルハ・ルシルエル・ルフルルがつねに凍結しているのは、遠き昔に氷の神が王家の祖先に対してそのように約束をしたからだ。それで十分に説明がつくものを、わざわざ科学的な原理など探そうとするのは王国の歴史の否定であり、王家の権威に対する冒涜である。まして氷の神の恵みを金銭のために利用したりすれば、その者には必ず神罰が下るであろう。私はくりかえしそう説いて、かの者の考えを正そうとした。
寒い。
悠久の歴史と不滅の光輝を有する我がヒアロエル・ルルウル・ウルルフル王国は古くから中央アジア交易の中継地であった。鏡なす凍てつける湖にして盤石の氷の平原たるサルハ・ルシルエル・ルフルルの氷上を滑走する大型のそりでの貨物輸送は、積み替えの手間を考えに入れても、人力や馬力による陸上輸送よりはるかに効率が高かったのだ。しかしそれも、ソ連がシベリア鉄道を建設してユーラシア大陸の東と西を結んだことによって、過去の話になりつつある。今後我が国の国際的な地位が低下することは避けられないのかもしれない。だが……
寒いな、くそったれ。
あまりに寒くて、つい悪態が出てしまった。なにしろいま私は、氷を掘って作ったせまい穴の中に肌着上下一枚ずつと靴下という格好でうずくまっているのだ。どんなふうにすわっても体は氷に密着し、氷が解けて肌着にしみこみ、ぬれた肌着は体の熱をどんどん奪っていく。そのうえ冷えきった大きな鉄の甕を抱いているのだから、寒さ以外を感じる余地などあろうはずがない。肌着と靴下以外の唯一の支給品であるちっぽけな懐炉でなんとか両手を温めようとしているが、そんなものがどれほどの足しになろうか。
とにかく、東西交易の中継地としての我が国の存在価値が低下することを見越して、ほかの価値を見つけだそうというのが罪深きカリル・ヒア・シルの考えであった。かの者はかの者なりに祖国の行く末を案じていたのだ。だからといって何を言っても許されるというものではないにせよ、ああまで厳しく罰しなくてはならなかったものだろうか。私は最後に見たときのかの者の姿を忘れることができない。
寒い。
氷の穴はじつのところ兵の体よりも、いま私が抱えている鉄の甕のほうに合わせた大きさに作ってある。私の体は穴の壁と甕のあいだにかろうじて挟まっているような按配だ。甕のふたは本体にねじこんだうえ、にかわで接着して簡単に外れないようにしてあり、その隙間から縄が一本出て甕の側面に垂れ下がっている。甕の中身は火薬である。縄は導火線。つまり爆弾だ。
むかしは氷上穴掘り兵の武器は刀や棍棒であった。だが体が冷えきっていて満足に動くことができず、逆にあっさり殺されてしまうことが多かったという。近代に入ると、爆弾を武器とするようになった。爆発させるだけで敵に大きな損害を与えることができるようになり、戦果は昔とは比べものにならない。もちろん爆弾を爆発させた兵は確実に死ぬが、もともと氷上穴掘り兵というのはそういうものである。氷上穴掘り兵なのに運よく生き残った、などということがなくなったのだから、むしろ公平になったといえるだろう。
寒い。
こごえた足の先から心臓へと戻ってくる血が、冷えきっていて痛い。私は懐炉を右の足の指と左の足の指に交互に押しつける。特殊な油を燃料とするこの懐炉は、本来は爆弾の導火線に火をつけるために支給されているものだ。伝え聞くところによると、氷上穴掘り兵が爆弾を使うようになった最初のころは各員にマッチを一箱わたしていたのだが、穴のなかで敵を待っているあいだに暖をとろうとしてマッチを使いはたしたり、いざ敵がきたときには手の指がこごえていてマッチを擦ることができなかったりして、結局爆弾を爆発させられないことが多かったという。こうした事例を教訓として、近年は氷上穴掘り兵にマッチのかわりに懐炉を支給することになったのである。マッチにせよ懐炉にせよ、爆弾を使うことにならなければ支給されなかったはずなので、爆弾さまさまというべきだろう。
もっとも、爆弾は穴のなかで我が物顔に場所をとり、しかも凍死体のように冷たい。たとえマッチや懐炉が支給されなくても、爆弾などないほうがずっと良かったという気もする。懐炉を押しあてた足の指は温かさを何も感じない。だがそんなことよりも手の冷たさが耐えがたくなってきたので、懐炉を足から離して両手で胸元に抱えこむ。
不意に、これは罰なのだと自覚する。罪深きカリル・ヒア・シル、あの少年の主張するところをほかの者に聞かせるのは危険だとわかっていながら、私はそれを仁愛千尋の谷よりも深く稜威万丈の山に勝れるアルハル・ウルヒアロ・ルヒアル女王陛下直属の特別捜査局の捜査官相手にぺらぺらとしゃべってしまった。たかが薪一束と引き換えに。その罰だ。
ひたすら寒い。
罪深きカリル・ヒア・シル、だが聡明だったカリル・ヒア・シル、私がその姿を最後に見たのは氷上穴掘り兵団に召集されて出頭するときだった。兵団の本部の所在地は、仁愛千尋の谷よりも深く稜威万丈の山に勝れるアルハル・ウルヒアロ・ルヒアル女王陛下のお住まいになる宮殿の表向きの一角であり、そのそばに高くいかめしい造りの塔がある。あの少年の体はその塔のいただきからぶらさがっていた。鏡なす凍てつける湖にして盤石の氷の平原たるサルハ・ルシルエル・ルフルルを渡る風のためにその体はからからに乾き、生きていたときの半分以下の大きさにまで縮んだように見えた。
寒い。
私は延々と氷の穴のなかにすわっている。手足の感覚はもうない。懐炉の温度も感じない。燃料が切れたのかもしれない。敵はまだ来ない。