もし、太宰治がカップ焼きそばの作り方を書いたら
いけません。本当にいけません。先生は作ってはいけません。
先生がカップ焼きそばをお作りになっている姿など、私は見たくはありません。
真夜中に、ひっそりと、台所に足を運び、戸棚からそれを取り出して、両手で掬い上げるように目の高さまで捧げ持ち、ご自分の命の軽さを確かめるように、多分こうおっしゃるのです。
「ほら、見たまえ、この軽さ。滑稽じゃないか。これはぼくの存在そのものなんだ。軽く振ってみると、カサカサ音がする。なんて情けない音なんだ。ぼくはね、この音を聞くと自分が死んだ後の焼かれた骨たちが、ブツブツと不平を言う呟きに聞こえてしょうがない」
そう言いながら、吝嗇くさい孤独な老人のように、抽斗から割り箸を一本出してきて、表面のフィルムを突っつくのでしょう。そして、難解な哲学書を読むが如く、眉間に不思議な皺を刻み、目を細め、作り方を読む。
いやです。私は先生のそんな姿は見たくはありません。
いいえ、きっと私が作って差し上げます。
先生はそこで、じっと待ってくださればいい。
椅子に座って、腕組みをし、ジッとわたしの動きを眺めるか、あるいは、椅子に立て膝をついて、例の「BARルパン」での写真のように、かっこよくポオズを決めておられればいい。
先生は多分、私を不器用な女だと勘違いをされておられます。確かに、学問も教養も人に言われずとも、褒められたものではありません。それはよくわかっております。お話しをするときも、巧くしゃべれず、うつむいてばかりですもの。先生がそうお思いになるのも無理はありません。
しかし、カップ焼きそばを上手に作ること、人を死ぬるほど真剣に愛することにかけては決して人に劣らないという自負はございます。誰とお比べになられてもいい。私は負けませぬ。
お作りいたしましょう。
まず、先生がされようとしたカップを包んでいる薄いフィルムを剥がします。
小指の爪の先端に意識を集中させ、カップの底の少しだけ空間ができている場所に、柔らかく鋭い一撃を、ほんの僅か爪をずらしながら与えます。プッと小気味よい音を立てて、小さな穴が穿たれればこの作業の9割は終わったも同然です。
後は、そのしなやかな感触を楽しみながら、フィルムを引き裂いていくのです。剥がす喜び……、先生ならこの行為に女性を裸にする愉悦をお感じになるかも知れません。そして、裸にされてテエブルに転がっているカップ麺をご覧になって、さあ、これからこいつをどうしてやろうと想像をたくましくしておられる。言葉にするのも恥ずかしいけれど、隠さずに申し上げます。わたしは、そんなカップ麺に自分の姿を二重写しにして、人知れず、燃えるように顔を赤くしているのでございます。
ああ、忘れていました。うっかりしておりました。
その前に用意しておかなければならないことがありました。
そんなことだから、おまえは不器用な奴だと言われてしまうのでしょう。
お許しください。でも、今日は少しばかり緊張しているのです。お怒りにならないでください。薬缶でお湯を沸かしておくのでした。多くは必要ありません。540㎖ほどでよいのです。これは女の勘で計ります。ご存じかも知れませんが、こういうことにかけては女はとても鋭いものを持っております。お信じになってください。決して計り間違えたりはいたしません。
ほんの心持ち分量を多く湧かしておくのが私流です。
裸にされて、テエブルに転がっているカップ麺の蓋をゆっくり剥がしてまいります。これ以上は剥がしてはいけないという線がはっきりと書かれておりますもの、決してそれ以上めくることはならないのです。人はいつもそんな社会の決めごとに反撥して、抵抗したい、無茶をしてみたいという欲求が生じますが、そのぞくぞくした身体が震えるような欲望を堪えてこそ、人はみな、正しい人間になっていくものだと思っております。
剥がした蓋の中に、二つの小袋が覗いております。ひとつは「液体ソオス」、もうひとつはかやくの入った「ふりかけ」です。この二つの小袋が、これからのカップ麺の出来不出来を左右いたします。おろそかに扱ってはなりません。ゆっくりと取り出し、テエブルの上に並べておきます。決してなくしてはなりません。これをなくすと、とんでもなくひどい結果に終わります。
フロオベルは「成功は結果であって、目的ではない」と言っておりますが、成功のためにはやはり、したたかな下ごしらえが必要なのです。
美味しいカップ焼きそばを作るためには、どれだけ注意を払っても払いすぎることはありません。
お喋りをしている間に、もうお湯が沸きました。薬缶の口から湯気がしゅんしゅんと音を立てています。
めくったカップにお湯を注ぎます。慎重に、慎重に。
見えにくいですけれど、よく見ますと、カップの内側に線が入っております。そこまでお湯を注ぐのです。
私は幼い頃、失敗をいたしました。母に言われてカップ焼きそばを作っていたのですが、母に向かってお喋りしながら、お湯を注いでいたものですから、お湯が溢れてしまい、小さなテエブルからこぼれ落ちたお湯が私の足に掛かって、火傷をしたことがございます。あぁ、人はこういうつまらないことで怪我をするものなのだと、それからは自分を戒め、どんなことがあっても、お湯から目を離さないようにしようと誓ったのでございます。いえ、カップ焼きそばだけではありません。何かに集中しなければならないときは、ただそれだけに気持ちを向けねばならない。その時身に染みて思ったのでした。
おや、先生がお笑いになった。
そんなことを言いながら、君は今、お湯を注いでいる。集中していないじゃないかと。
いけません。そうでした。先生はきちんと見ておられます。
そこまでお湯を注ぐと、しっかりと蓋を閉め、三分待ちます。
時間というのは不思議なもの。誰の言葉だったでしょうか?
「永遠も一瞬の中にあり、一瞬の中にも永遠がある」
なんて素敵な言葉!
儚い命でも、そこには永遠の時間が組み込まれており、でも、その永遠の時間の流れもある意味一瞬なのですね。
先生、私はその一瞬の時間をそして永遠の時間を先生と共に過ごしたい……。
あぁ、私はカップ麺のお湯になりたい。お湯になって、乾いた先生を暖め、ほぐし、癒やして差し上げたい。三分間の中にもきっと永遠があるのですわ。
いえ、ダメです。いやです。
現実は理想とは違います。三分が経つと、お湯は捨てられてしまうのです。
カップを開いた反対の方に、お湯を捨てる蓋があります。湯切り蓋です。
麺をほぐして暖めたお湯は、もう必要はないのです。一緒にしておくと、麺をダメにしてしまいます。
私はそんな女にはなりたくありません。
そうであれば、いっそ棄ててください。
そう、お湯は未練は残さずに、綺麗に棄てきらなければいけません。
すっかりお湯を棄てきったら、蓋を全部取り払います。
並べておいた「液体ソオス」の袋を慎重に切り、まんべんなく麺にかけます。お箸できちんと混ぜて麺と絡めさせるのです。
先生、私は液体ソオスになりたい。すべての麺に綺麗にまとわりついて、やさしく包んであげたい。悲しみ、苦しみ、喘いでおられる先生を慰め、薫り高く誇らしいカップ焼きそばにして差し上げたい。
でも、でも先生はそれだけでは、きっと満足なさらない。
もう一つの小袋。「ふりかけ」が魅力ある輝きを放っていますわ。
先生は、麺に振りかけられ、散りばめられた若々しい、そして香ばしい香りのするものに興味を惹かれるのでしょう。先生はやはり、ふりかけのようなきらびやかな存在がなければ生きていけない人なのだと思います。
つまらないお喋りが過ぎました。
カップ焼きそばが美味しく出来上がりました。
どうぞ、お召し上がりください。
今度は、私が先生をじっと見詰めていますわ。
最後の方になるにつれ、段々と太宰から離れて行ってしまったが。