5.紫色の水
「マイラさん……」
海翔の呟きが微かな月光の中に消えていく。
海翔の目の前には包丁を右手に持って不敵に笑うマイラがいた。
マイラは包丁をぶんと勢い良く振った。
運動神経の良い海翔は間一髪でそれを避けた。
海翔は目を伏せた。
……もう、迷ってられないよな。
リグルは、敵を殺すのを躊躇うなと言った。
これから先敵は沢山出てくるのだから。
『声』は、迷わず敵の弱点を突けと言った。
自分を襲う敵に慈悲は必要ないのだから。
海翔はキッとマイラを睨み付けた。
マイラは海翔に向かって大きく一歩踏み出し、包丁を突き立てようとした。
素早い動きだったが、マイラの動きに集中していた海翔はそれを避け、頭の中でマイラが火だるまになる様子を思い浮かべた。
……何も起こらない。
いや、その言い方は間違いだろう。
なぜなら、海翔の腹から真っ赤な血が流れ出していたからだ。
大きな包丁は海翔の腹に深く突き刺さっていた。
「な……」
海翔がか細いうめき声をあげる。
マイラが勝ち誇った笑みを浮かべた。
熱い。
海翔は膝から崩れ落ちていった。
目の前が暗くなっていく。
(死ぬってこういう感じなのかな……)
海翔は床に倒れ込んだ。
(しかし、走馬灯も何も見えやしない……)
海翔はチカラを使えなかった事を疑問に思いながら目を閉じていった。
海翔の目の端にニヤニヤ笑って自分を見下ろす女の姿が映った。
突如。
海翔の体を若草色の優しい光が包み込んだ。
すると、海翔の腹から熱が消えていき、傷がきれいさっぱり無くなった。
海翔の視界が再び明るくなった。
(え?)
海翔は倒れ込んだまま、マイラの顔を見上げた。
「やったわ。これをあの方に……」
マイラが嬉しそうにそう言って、海翔の顔を見るために、屈み込んだ。
海翔は反射的に目を閉じた。もちろん、軽くだが。
「死んだ……かしらね」
マイラが海翔の顔に触れた。
「あら?冷たくない……」
マイラが眉をひそめた。
その瞬間、海翔は飛び起きて、マイラの右手を思い切り踏みつけた。
マイラが大きなうめき声をあげた。
その隙にマイラの右手から包丁を奪い、それを握った。
さすがに包丁を使うとなると、気がひけた。しかし、チカラは使えない。しかも、迷っていればまたやられる。
一瞬『声』の笑い声が聞こえた気がした。
不思議だ。人を殺す事に躊躇いがあまりない。
海翔はゆっくり立ち上がり、マイラを見下ろした。
マイラは先ほどまでとは打って変わって、右手を左手で握りながら、怯えた顔を海翔に向けていた。
海翔は包丁を右手に持ち、マイラの脳天目掛けて無慈悲に振り下ろした。
ガッと嫌な音がした。
マイラの頭から真っ赤な血が流れ出てきた。
彼女の瞳から光が抜けた。その目はどこも見ていなかった。
亡骸がバタンと倒れた。
海翔は大きく息を吐いた。
その死体を見ていると、今更ながら、とても自分がやった事のように思えなかった。
自分が人間に躊躇いなく包丁を突き立てた。
もちろん今まで人間界で人殺しなどしたことの無かった海翔にはその事実が恐ろしく感じられた。
海翔はしばらく死体を見つめていたが、やがてある問題点に気がついた。
(この死体、どうしよう……)
少し悩んだ末、海翔はチカラを使って消す事にした。
ただ、チカラを使えるかどうかは分からないのだが。
海翔はその死体が消えてなくなる様子を思い浮かべた。
瞬間、海翔の目の前から死体がシュンッと跡形もなく消えてしまった。
「何だ、チカラ使えるんだ」
海翔はそう呟いた。
(てか、すごく便利能力だよな。思い描くだけで何でもできるって最強かよ)
海翔は窓の外の月を見上げた。
月が細いからか、沢山の星が見える。
真夜中なのに部屋の中が見渡せるほど明るいのもその満天の星空のおかげだろう。
(この事、リグルに伝えた方がいいよな)
ふとそう思って海翔が扉の方へ左足を踏み出した瞬間、強い疲労と睡魔が海翔の瞼を何としてでも閉じさせようと奮迅した。
(ま、明日でもいいか)
とうとう海翔は睡魔の誘惑に負け、ベッドに潜り込んだ。
そして、カーテンを開け放したまま、眠ってしまった。
◇◆◇◆
海翔は目を覚ました。
意識がだんだんはっきりしていくこの感覚は、目覚めた後で不思議なものに思う。
伸びを一つした後部屋を見回した。
床に血は残っていない。
昨夜の闘争の跡はもう無かった。
そして、ふと視線を落とした。
Tシャツの腹の部分にナイフで切られたように細く引き裂かれた跡があった。
海翔はふうと息を吐いた。
そしてまっさらなTシャツを思い描いた。
Tシャツの穴はゆっくり閉じていって、元のTシャツに戻った。
海翔はもう一度息を吐き、リビングへ向かった。
既にリグルはリビングに来ていた。
リグルは海翔を見ると、少し眉をひそめた。しかしすぐ取り繕うかのようにクスッと笑って、おはよと挨拶をした。
「おはよ……どうかしたの?」
「いや、別に」
リグルは手を振った。
ふとリグルが海翔の頭を見つめ始めた。
海翔が首を傾げるとリグルがにやけて海翔の頭を指差した。
海翔が頭に手をやると、所々髪の毛が跳ねている事が分かった。
「ああ、寝癖」
海翔はその髪の毛にチカラを使った。
寝癖は収まって元のサラサラの髪の毛になった。
「ホント便利だね、そのチカラ」
リグルの発言に海翔は欠伸で返事をした。
まだ少し眠気があるのだろうか。
「てか、マイラさんまだかな」
リグルがポツリと呟いた。
海翔はピクリと動きを止めた。
「起こしに行かない方がいいよね……」
リグルが開いた扉の奥に延びる薄暗い廊下をチラリと見た。
それを見て、海翔は昨夜の出来事を話す事にした。
「へえ……マイラさんが、ね」
話し終わると、リグルは目を伏せた。
ただ、悲しみの感情は浮かんでいないようだった。
むしろ、まるで分かりきっていたというような表情をした。
「何で俺が一時的にチカラを使えなくなったのか、知ってる?」
「ああ、それなんだけどね。これ見て。台所に置いてあったんだけど」
そう言ってリグルは机の上から透明の小さな小瓶を取り上げた。
中には淡い紫色の液体が入っていた。
「これって……?」
「これはね、紫水と言ってチカラを一時的に使えなくする液体なの。
これを入れたからその入れられた物の味が変わるというわけでも、色が変わるというわけでもないからよく暗殺とかに使われるのよね。
多分マイラさんは牛乳か何かにこれを入れたんじゃないかしら」
「でも随分効果時間短いんだね。その紫水ってやつ」
「え?」
「へ?」
「ああ、ああ。えっとね、これの効果は大体これくらいの量で一時間ぐらいなの」
「ん? じゃあ何で……」
「あのね、マイラに刺されて倒れた時体を若草色の光が包んだって言ってたよね?」
「う、うん……」
「それは蘇生の術が働いた時の……何て言うかな、エフェクト、みたいな? 蘇生の術は体の悪い所を全部治すから、あなたにかかった紫水の効果も全部無くなったんでしょう」
「その蘇生の術って幻夢界の住人みんなにかかっているの?」
「え、いやそんな事は無い、けど……。
あ、そういえば朝ご飯どうしようか?」
「え? え、ああ……。じゃあ俺が出すよ」
海翔はリグルの態度に首を傾げながらも、トーストと目玉焼き、そしてレタスとトマトが入ったサラダを二人分机の上に出した。ドレッシングはゴマだれ、だ。
するとまた、海翔を軽い眠気が襲った。
ここで海翔は一つの仮定を思い付き、リグルに尋ねる事にした。
「ねえリグル。もしかしてチカラを使ったら眠くなるとかある?」
まるで不思議な物を見るように朝食をじっと見つめていたリグルは少し間を空けた後、少し考えるような素振りを見せた。
「んー。使えるチカラはみんな違うからね。それの副作用とかもみんな違うんだろうけど。まあみんなチカラを使ったら眠くなるという訳では無いのよね。だって私は別にチカラを使っても何もならないし」
「へえ、そうなんだ」
「ま、お腹も空いたし、食べようよ。
不思議な食べ物だね? 私見た事ないや」
「ふうん。これが俺達の世界での普通の食べ物だけどね」
リグルは相槌を打って目玉焼きの黄身の部分をフォークで小さく切り取って恐る恐るといった感じで口に入れた。
何度か咀嚼を繰り返すとリグルは目を輝かせた。
「美味しいね、これ!」
リグルはせかせかと椅子に座ると、むしゃむしゃと残りの目玉焼きを食べ尽くしてしまった。
海翔は微笑むと椅子に座ってトーストをかじった。焼きたてのパリパリ感がたまらない。
「そういえば幻夢界と人間界の言語って同じなんだね」
サラダを頬張っていたリグルが食事の邪魔をするなと言う風に海翔をじろりと見た。海翔は一瞬たじろいだが、リグルが普通に返答したので安堵の息を吐いた。
「まあ世界は沢山存在しているからね。言語が同じ世界もあるんでしょ」
「世界が沢山?」
「うん。人間界、幻夢界みたいな感じで冥界とか天界とかあるんだけどね。他にも沢山あるって言われてるのよね。まあなんか気が遠くなっちゃう話だよね」
「ふうん。因みに幻夢界って国とかってあるの?」
「ああ、国ね。あるわよ。ここはアヴェラっていう国の土地」
「国ごとで言語が違う……とかは?」
「あら、それはないわよ。人間界ではそうだったの?」
「まあね」
海翔が再びトーストをかじりだしたので、リグルは、まるで待てを解かれた犬のようにサラダを頬張り出した。
(そういえば、マイラさんが言っていた『あの方』って誰だったんだろ……)
海翔は窓の外を見た。
昇ったばかりの朝日が金色に輝いていた。