2.紅の水平線
「あのさ、そういえばどうやってチカラを使うんだ?」
海岸に背を向けて歩きながら、海翔がリグルに尋ねた。
まず海翔の家に帰ってから、幻夢界に行こうという段取りになったのだ。
「んーどうって聞かれてもね。みんな使えるチカラは違う訳だし。
ま、適当に力を込めるとか集中するとかすればいいんじゃない?」
「適当かよ…」
海翔はそう言いながら手のひらを自分の目の前に持ってきて、じっと見つめた。
何も起こらない。
海翔は気を取り直して今度は手を強く握りしめた。
何も起こらない。
海翔は諦めて、また歩き出した。
しばらく歩いていると、こぢんまりとした一軒家が見えてきた。海翔の家だ。
「ただいまー」
海翔はそう言って家に上がった。後ろからはリグルがお邪魔しますと小さな声で上がってきた。
居間からおかえりーという声が聞こえてきた。
母だ。いや、正しくは義母だろうか。
海翔の両親は海翔が物心つく前に交通事故で死んでしまっているそうだ。だから海翔は彼の母の友達に引き取られている。
海翔は二階にある自分の部屋へ向かった。
勉強机とベッドとクローゼットとタンス。
それ以外は何も無かった。
だがリグルは部屋を興味深そうに見回していた。
海翔はクローゼットからリュックを取り出し、その中に何着かの着替えを詰め込んだ。食料を取ろうと居間に向かったが、リグルの「不要」という声で海翔は居間に向かうのを止め、代わりに玄関へ向かった。
家を出ようとすると、
「夕飯までには帰って来なさいね」
という義母の声が聞こえた。
海翔は返事をして、扉を開けた。
まだまだ明るい。昼と夕方の間ぐらいの時刻だろうか。
「夕飯までに帰れるのかなー」
海翔が呟く。
「さあ」
返事は何とも簡単なものだった。
「そういえばお前さ、何にも荷物持ってきてないよな。大丈夫なのかよ」
海翔がふと尋ねる。
「まあね。別に持ち歩く物は無いし。」
「ふーん。そんなもんなのか。
ってか俺達の一つ目の目的は海に向かう、で合ってるよな?」
リグルの話によると、幻夢界から人間界に続く穴を通ったら砂浜に出た、との事らしかった。
リグルが頷く。
海翔達は海へと向かった。
アスファルトの道の上を海翔とリグルは一言も喋らずに歩いていた。
すると。
「危ない!」
と、リグルがいきなり海翔を突き飛ばした。
ビイイイイン!
今さっきまで海翔が立っていた所には鋭く長い爪が突き刺さっていた。
爪が引き抜かれた。
海翔は爪の持ち主を見た。
それは一言で言えば、魚人だった。
頭頂部が尖っている頭には魚のひれのような耳、細く切れ上がった黄色い目、そして耳まで裂けた口があり、手には長く鋭い爪、足には水掻きがついていて、全身が青く輝く鱗に覆われていた。
「な、何だあいつは?」
海翔がうろたえる。明らかに人間界では見ない生き物だ。
「あれは、『悪しき者』かしらね。」
リグルが魚人を睨みながら言う。
「え、あれが?」
海翔はもう一度魚人をよく見た。
魚人はどうやらこちらの隙を狙っているようだった。
リグルがぐっと地面を踏みしめた瞬間。
リグルが消えた。
いや、目にも止まらぬ速さで動いたのだ。
リグルが魚人にどこから出したのか、光り輝く両刃剣で切りかかる。
魚人も素早いリグルの動きに対応する。
剣と爪がぶつかり合う。
魚人の右手の爪が簡単に切れた。
だが魚人は気にせず左手でリグルに襲いかかった。
リグルが弾き返す。
魚人は一旦リグルと離れた。
そして、魚人はリグルから目を逸らし、海翔を睨んだ。
その瞬間、海翔は魚人からの殺気を感じ、即座に逃げ出した。
てか何で俺を狙うんだよ!
いや、分かるよ?
そりゃピコピコ動き回るおっかねえ姉ちゃんよりもアホ面さらして突っ立ってるヘボガキの方が殺しやすいし?
自分がおっか姉ちゃんと闘っているときに邪魔されたら嫌だろうし?
でも、でもさあ…
酷くない?酷いよね?
分かった!
殺された俺の顔を見てグヒヒヒヒ無様だなーみたいなのをやりたいんだろ!そうなんだろ!
突然海翔は立ち止まった。
路地裏のようだ。
目の前は行き止まりだった。適当に走るんじゃなかったと今更海翔は後悔した。
海翔が振り返ると既に魚人がいた。
魚人はゆっくり海翔の方に歩いてきていた。
こいつ、楽しんでいる。
海翔は魚人の顔を見てそう思った。
変な冷や汗が背中をつたう。
魚人が海翔の目の前まで来て、ゆっくり爪を振り上げる。
海翔はリグルがナイスタイミングで来てくれる事を祈りながら、目を閉じた。
『やっぱり。こうなると思ってた』
…誰だ?
モザイクがかかったような声。低めの声だ。
『いいよ誰でも。ああ、大丈夫。時間は止めてある。それより海翔君生き残りたそうだから言ってあげる。手のひらの先に力を込めるんだ。そして、描き出すんだよ。自分が使いたい、“魔術”を』
どういう事だ…?
『ま、そういう事だよ。海翔君に死なれると困るからね。これからもたまに来るよ。
まあでもそれは海翔君が死んでからかもしれないけどね。
矛盾してる? まあいいじゃない。
とりあえずまあ、死なないように頑張って』
目を閉じていて暗かった目の前が、白く輝く。
ちょっと待て!お前は一体――!
辺りが白い光に包まれた。
はっと海翔は周りの光が無くなった事に気付く。
自分の頭上には長い爪を大きく振り上げた魚人がいた。
リグルに切られたはずの右手の爪はいつの間にか、再生していた。
海翔は咄嗟にあの声が言っていた事を思い出し、右手を突き出して、炎が吹き上がるように念じた。頭の中で、勢い良く燃える炎を思い浮かべる。
するといきなり、海翔の右手の少し先の空中から、海翔の体を簡単に包み込んでしまうほどの大きな炎が吹き上がった。
炎に包まれた魚人が叫び声をあげる。
海翔はすかさずまた右手を魚人にかざし、また炎を当てた。
魚人はギエエエエッと大声で叫んだ後、倒れた。
海翔は魚人を見た。
大部分が焼けただれた体はぴくりとも動かない。
「死ん…だのか」
そう呟きながら彼は少し呆然としていた。
自分が、殺したのか。
実に手慣れた動き方だった。
あの炎も、とても初めて出したとは思えない威力だった。
それに、いくら半分魚といったって自分が現実離れした技で殺しをしたのに何も心が動じない。
さっきのは、誰かに体を動かされているような感じだった。
もしかしたらあの『声』がやったのかもしれない。
海翔は魚人から目を離した。
「海翔!?」
突然リグルが路地裏に入ってきた。
そして、ぴくりとも動かない魚人を見て、
「これ…海翔がやったの?」
と言った。
海翔は頭を掻いた。
「うーん。俺がやったっていうか…」
「まあいいわ。行きましょう」
リグルがそう言って路地裏を後にする。
「待てよ。死体とかどうす…」
下を見るともう死体も血痕も無かった。
リグルが消したのだろう。
海翔はそう考えて、リグルについていった。
~・~・~・~・~・~
「あらそう。もう見たのね」
夜の暗い道に女が立っていた。
妖しい感じの、美しい女性だった。
女は誰かと話していた。
「ああ。あの少年を見間違える訳がない」
『誰か』が答えた。
「ふふ。じゃあよろしくね」
女は笑い、そして煙のように姿を消した。
『誰か』は空を見上げた。
空にはいくつもの星があった。
「まだ、新月…か」
『誰か』が呟いた。
そして『誰か』も忽然と姿を消してしまった。
~・~・~・~・~・~
「…ねえ。私海翔に言わなくちゃいけない事があってね?」
海への道中、リグルが口を開いた。
二人は立ち止まる。
「何?」
「私幻夢界に行っても人間界に戻ってこれるって言ったじゃない? 実はあれ嘘なんだ」
「え」
海翔は目を見開いている。
「あの魚人は幻夢界と人間界を繋ぐ穴を通って人間界に来たの。
つまり穴をそのままにしておくと今後もあんな化け物が人間界を襲うかもしれない。
だからその穴を閉じないといけないの。
その…騙しててごめん。
これを言うと来てくれない気がして。
でも言わないまま異世界に連れて行くのはダメだし…」
リグルは俯いてそう言った。
「来るか来ないかはあなたが決めて」
海翔は考え込む仕草を見せて、
「いいよ。行くよ、異世界に。
今更行かないなんて言えないしね」
と、笑って言った。
リグルも笑って、
「そう。まああなたなら来るって思ってた。
…ありがとう」
と言った。
二人はまた歩き出した。
もう西の空に日が沈もうとしていた。
ふと海翔が足を止めた。
いつも通る、分かれ道。
左に行けば友達の家。
まっすぐ行けば俺の家。
もう、二度と通らない道。
きっと今お母さんが夕食を作っているんだろうな。
その夕食は食べられる事はない。
血は繋がっていないけど。
それでも俺達はただの家族だ。
俺の事を愛してくれて、
ありがとう。
海翔は歩調を速めて歩き出した。
二人は海についた。
夕日に照らされて、いつもは白い砂浜が赤く染まっていた。
相変わらず静かな浜辺だった。
「…準備は、いい?」
リグルが尋ねた。
海翔はゆっくり頷く。
リグルは胸の前で両手を組み、目を閉じて、ぶつぶつと何かを唱えだした。
砂浜の一部が渦を巻いてねじれる。
やがて、海翔達の前には大きな黒い穴ができた。
穴の向こうは暗くて何も見えなかった。
「さあ、行こう」
リグルが海翔の腕をつかんで穴に入る。
海翔もそれに続く。
恐怖は無かった。
周りが白く輝く。
白くぼやけていく世界の中で海翔が最後に見たのは、真っ赤な夕日と、それにのびてゆく赤い光の道を乗せる、遥かな水平線だった。