空飛ぶ犬
日曜日、鉄男は、近所の芝生広場に来ていた。
家族とピクニックをするはずだったのだが、十五になる娘は、「面倒くさいからお父さんひとりで行ってくれば?」 妻は、「わたしだって忙しいのよ」と語学セミナーに出かけてしまった。
まったく、つれないなあ。せっかく久しぶりの家族団らんの機会だったのに。ピクニックというのがもう古い時代なのかなあ。
そんなことを考えながら、結局そのピクニック予定地の芝生広場にひとりで来てしまった鉄男は、いったい自分は何がしたかったんだという焦燥感や苛立ちを胸に感じた。
日曜日の晴れた日だというのに、広場には老人とそれから犬しかいなかった。
「あっ」
鉄男は思わず声を出した。
老人が連れて歩いている犬にはしかし、首輪もリードもなかったからだ。
犬は大きなゴールデンレトリバーで、舌を出して自由気ままに老人のまわりをうろうろと歩き回っていた。
「まったく、危ないなあ」
首輪も付けずに、子供に襲いかかったらどうするつもりなんだ。こんな身勝手な飼い主がいるから、誰も広場に来なくなったんだ。
鉄男は無意識のうちに、家族でピクニックができなかった原因をこの老人に押しつけようとしていた。首輪をつけずに歩く犬の、飼い主に。
よおし、注意してやろう。そうしなければ気がおさまらん。
鉄男は腰掛けていたベンチから立ち上がると、さっそうと老人のほうへ歩み寄った。
「ちょっと、失礼ですが」
鉄男は威圧的な口調で声をかける。
「ははは、今日は良いお天気じゃ」
白髪で白髭をはやした老人は、そんな鉄男に気に留めた風もなく、独り言のように言って笑った。
その態度に、鉄男はますます気を悪くした。
「笑いごとじゃないでしょう、危ないじゃないですか!」
怒鳴り口調で鉄男は言う。
しかし老人には意味が通じないらしく、首を傾げて「はて」と呟く白髭の老人。
「犬ですよ! そこの犬! リードもつけずに!」
鉄男は老人の傍らにいるゴールデンレトリバーを指さした。レトリバーはきょとんとした顔で、ワン!と一回だけ吠えた。
「ああ、こやつはのう、ポチ太郎というんじゃ。かわいいじゃろう」
老人はそう言って、レトリバーの頭を撫でる。犬は嬉しそうにしっぽを振っていた。
ああ、駄目だ。このおじいさんはボケて頭がおかしくなったんだ。こういう人には、何を言っても無駄だ。鉄男は気分が悪くなって、もう怒鳴る気力も失せていた。
「あんた、ここに何をしに来たんじゃ?」
老人が聞いた。
「ピクニックですよ!」
「はっはっは、おひとりでピクニックとは、愉快な方じゃ。ワシと同じじゃのお」
よく笑う老人に対して、『お前と同じにされてたまるか!』と鉄男は叫びそうになった。
何が悲しくて俺は、貴重な休みをこんなじいさんと過ごさなくちゃいかんのだ。鉄男の心にやり場のない憤りが溜まってゆく。
「ここで会ったのも何かの縁じゃ。ついてきなさい」
老人は唐突に言って、鉄男に背を向け、芝生広場の中心へと歩いていく。犬も尻尾をふりながら、老人のあとについていった。
鉄男は、ぽかーんとしていたが、我に返り、慌てて老人を追う。なんだかんだいって、退屈していたのだ。老人が何をするつもりなのかの興味もあった。
芝生広場は、少なくとも小学校の運動場くらいには広かった。ここって、こんなに広かったっけ、と鉄男は思う。雲ひとつない晴天が、頭のうえに広がっていた。
「ふぉっふぉっふぉ、これを誰かに見せるのは、久方ぶりじゃのお」
老人はまた奇妙な笑い方をして、そしてレトリバーの耳元にささやいた。「ポチ太郎、準備は良いかの?」
ポチ太郎と呼ばれた犬は、元気よくワンと吠えた。
鉄男は老人の傍らで、わけもわからずそのやり取りを眺めていた。
「ポチ太郎、まずは……」
――、疾風じゃ――。
老人がそう声に出した瞬間、鉄男の目の前にいたゴールデンレトリバーが、――消えた。
「……え」
突然のできごとに、鉄男は理解できない。ポチ太郎が驚異的な脚力と速さで、その場を駆けだしたことに。
広場を取り囲む木々は、時間が止まったかのように静かで、葉の揺れる音ひとつしなかった。
それなのに、鉄男と老人の周りには、台風を思わせるほどの強風が吹き荒れていた。
「何が、起こっているんだ……」
風が、鉄男と老人の周りをぐるぐると旋回している。芝生が風に揺れ、鉄男と老人の髪がなびく。
「わっはっはっはっは」
老人は豪快に笑った。
「あんた、よく見るんじゃよ。あれがポチ太郎の真の姿じゃ」
目を凝らして、ようやく見つけることができた、犬の残像。
「ま、まさか……」
目の前の光景が信じられなかった。
犬が、鉄男と老人の周りを、疾風のように駆け回っていたのだ。あまりの速さに、その姿を捉えることさえ難しい。
ただ風になり、犬は走る。
ぐるぐると。
犬の駆けたあとを、風が追いかける。
「ほっほっほ、ポチ太郎、もういいじゃろう」
ワンと一声聞こえたかと思うと、風はやみ、鉄男の目の前にはさっきのゴールデンレトリバーが、涼しげな顔で尻尾を振っているだけだった。
まるで、何事もなかったかのように。
鉄男は呆然として、声も出ない。
「よくやったのお」
老人はまた、ポチ太郎の頭を撫でた。
「さあて、ここからが本番じゃよ」
一瞬、別人の声かと思うほどに、低い声で、老人は言った。
ポチ太郎も心なしか、さっきとは打って変わったような真剣な顔つきになっていた。
何が、はじまるんだ。鉄男は、広場に来たときの焦燥感や憤りをすっかり忘れ、わくわくしていた。期待で胸がどきどきする、それは大人になってから忘れていた、懐かしい感覚だった。
「ではいくぞ、ポチ太郎……」
老人は大きく息を吸い、そして静かに言った。
――飛翔じゃ――
刹那、凄まじい風圧が地面を撃ちつけたかと思うと、犬の姿は消え、
「上じゃ!!」
老人が叫ぶ。
鉄男が見上げると、空には、ポチ太郎の姿があった。
十メートル、五十メートル、百メートル、どんどん小さくなってゆく。
ポチ太郎は、青い空をひたすら上昇、高く高く、昇っていった。やがて犬の姿は見えなくなった。
宇宙にでも行ったのだろうか。鉄男は犬が見えなくなってもしばらく、何もない果てしなく広がる空をぼーっと眺めていた。
「縛られているとは、思わんかね」
老人の声が聞こえた。
《縛られているとは、思わんかね》
頭のなかに聞こえてくる声。
はっと目が覚めた。
なんだ、夢――だったのか。
鉄男は、芝生広場のベンチで、うたた寝をしてしまっていたのだった。
「おかしな夢を見たもんだなあ」
腕を上げて、うーんと伸びをする。
風が、心地よかった。
「ふわあ、そろそろ帰ろう」
老人と、ポチ太郎のイメージが、記憶から消えていった。
しかし、家路につく鉄男の心は、憂鬱な朝が嘘だったかのように、軽くなっていた。
紐を離され、ふわふわと空を飛ぶ、風船のように。
【完】