嫁ぎ先が修羅場すぎたので、静かに逃げる予定でした
◇〜第一章:修羅場の中の“幽霊嫁“〜◇
「あら、まだ生きていたの? この役立たずの泥棒猫が」
朝食の席に着いた途端、義母の鋭い声が飛んだ。
夫となるはずだった侯爵家の次男エドワードは、若い侍女の腰を抱き、下品な笑みを浮かべていた。
私、エルゼ・フォン・ローゼンタールは──没落寸前の実家を救うために、この“呪われた侯爵家“に嫁いできた。
侯爵家は、辺境で魔獣討伐に成功した下位貴族の戦果を、“報告書の不備“を理由に握り潰し、その功績を自家の騎士団のものとして王都に提出していた。
勲章と褒賞は侯爵家へ渡り、本来の功労者は、次の年、理由も告げられぬまま領地を没収された。
また、侯爵家に二十年以上仕えていた老執事は、帳簿の不正に気づいた翌月、横領の濡れ衣を着せられて追放された。
証拠として提出された帳簿は、彼の筆跡に酷似した“別の文字“で書き換えられていたらしい。
老執事は処刑を免れたが、家族ごと辺境へ送られ、それきり消息は途絶えた。
そんな噂も世間から薄れた頃、私は実家の“救済“という形で嫁ぐこととなった。
しかし、待っていたのは地獄だった。
義母は嫌がらせを生き甲斐にし、夫は別の女を館に連れ込み、使用人たちまでが私を“幽霊嫁“と呼んで蔑む。
(……うん。予定通りね)
私は無表情で紅茶を啜った。
実は、私は最初からここに留まるつもりなどなかった。
結婚契約書の裏に、夫の不貞が認められた場合は即座に“多額の慰謝料と共に離縁できる“という一文を、魔法契約で密かに組み込んでいたのだ。
今の私は、逃亡資金を貯めながら、証拠集めに励む“静かな観察者“。
一ヶ月後には、隣国の港町でパン屋でも開いて、のんびり暮らす計画だった。
◇〜第二章:予期せぬ“最強の番犬“〜◇
離縁まであと三日。
私は夜中の館を抜け出し、庭園の隅にある隠し蔵で最後の証拠品を探していた。
そこへ、突如として冷たい殺気が背後から迫る。
「……こんな時間に、何をしている?」
振り返ると、そこには月光を浴びて銀色に輝く髪を持つ男が立っていた。
この侯爵家の長男であり、戦場では「氷の死神」と恐れられる次期侯爵、アルベルト・フォン・ノアール。
屋敷の修羅場に嫌気がさし、別邸に引きこもっていたはずの彼が、なぜここに。
「アルベルト様……。ただの散歩ですわ」
「嘘だな。君の瞳は、逃げ場所を探している小動物と同じだ」
アルベルトがじりじりと距離を詰めてくる。
私は逃げ場を失い、冷たい石壁に背をつけた。
彼は私の頬に手を添え、低く甘い声で囁いた。
「エドワードのような屑ではなく、私を選べば良かったものを。……エルゼ、君をこの地獄から連れ出せるのは、私だけだ」
「……えっ?」
逃げる予定だった私の脳内に、激しい警報が鳴り響いた。
◇〜第三章:静かな逃走、鮮やかな強奪〜◇
三日後の深夜。
私は全ての書類を抱え、メイドの服に変装して勝手口から飛び出した。
外には、逃走用の馬車が待っているはずだった。
しかし、そこにいたのはオンボロの馬車ではなく、黒塗りの豪華な王室馬車だった。
御者台から降りてきたのは、なんとアルベルト本人である。
「お、お待ちになって。私の手配した馬車は……」
「あんなガタのきている馬車は返しておいた。君の行き先は隣国の港町ではなく、私の領地――北方の星降る城だ」
「……どうしてそれを!?」
「君が夜な夜なパンのレシピを書き溜めているのを見ていたからな。……エルゼ、逃げるのは許可するが、私の腕の中から逃げることだけは許さない」
彼は有無を言わさず私を横抱きにし、馬車へと運び込んだ。
そのまま馬車は猛スピードで走り出す。
背後から、甲高い悲鳴が夜気を切り裂いた。
「エルゼがいない!? どういうことなの、あの女!!」
「ま、待て! 帳簿は!? 金庫の書類が……!」
「証拠が消えているだと!? 誰が、いつの間に……!」
義母の金切り声と、使用人たちの狼狽した叫びが重なり合う。
やがて──
「追いなさい! 今すぐ馬車を出しなさい!!」
「無理です奥様! 門番が……門番がもう……!」
必死な絶叫も、怒号も、混乱も、すべては遠ざかり、夜の闇に溶けていった。
◇〜第四章:予想外の甘い監禁生活〜◇
北方の城は、修羅場の侯爵邸とは真逆の、静かで美しい場所だった。
私はそこで“静かな隠居“を始めるつもりだったが……現実は全く違った。
「エルゼ、今日は新作のクロワッサンを焼くのだろう? 最初に食べるのは私だ」
朝、目を覚ますと、隣には上半身を晒したアルベルトが、当然のように寝そべっている。
戦場での冷徹な姿はどこへやら、彼は今や、私にべったりの“甘やかし旦那“に変貌していた。
「アルベルト様、近すぎます。……あと、私は逃げる予定だったんです。パン屋を開く資金だって……」
「資金なら私の金庫を自由に使えばいい。店も城の敷地内に建てた。……君がパンを焼くなら、私はそのパンを世界で一番愛する客になろう。そして、君を世界で一番愛する夫になる」
彼は私の指先に、一つずつ丁寧にキスを落としていく。
その瞳に宿る熱っぽさに、私の心はとっくにパンのようにふわふわに膨らんでいた。
「……ずるいです。あんな修羅場にいた私なのに、こんなに甘やかして」
「三年間も耐えた君への、一生分の報酬だと思って受け取れ」
彼はそう言うと、私の唇を甘く、深く塞いだ。
逃げる予定だった港町での静かな暮らしよりも、この強引で甘すぎる英雄の隣の方が、ずっと心地よい。
嫁ぎ先が修羅場すぎたので、静かに逃げる予定でした。
けれど、連れ去られた先で待ち構えていたのは、一生かかっても返しきれないほどの、極上の“溺愛“という名の罠。
「……分かりました。もう、どこにも行きませんわ。大好きな、私の旦那様」
私が観念したように囁くと、最強の死神は、世界で一番幸せそうな少年のように微笑んだ。
◇〜第五章:城下町のパン屋と、世界一物騒な常連客〜◇
アルベルト様の宣言通り、城のすぐそばに私の小さなお店【エルゼの籠】がオープンした。
逃亡先でひっそり焼くはずだった私のパンは、今や北方の領民たちに愛される名物になっている。
……けれど、一つだけ困ったことがある。
「おい。今の男は誰だ。君のパンを見ていたのではなく、君の手を凝視していたようだが」
店の開店から閉店まで、入り口付近の特等席に陣取っているのは、この地の領主であり私の夫であるアルベルト様だ。
軍服を脱ぎ、少し着崩したシャツ姿でさえ隠しきれない覇気が、一般のお客さんを震え上がらせている。
「アルベルト様、あの方はただの常連の木こりさんです。パンの焼き色を確認していただけですよ」
「……焼き色だと? 私以外の男が君の仕事ぶりに見惚れる必要はない。そのパンは全部買い占める。今すぐ店を閉めて城へ帰るぞ」
「まだお昼前です! 買い占め禁止って言ったじゃないですか!」
私が頬を膨らませて抗議すると、彼は周囲の目を気にする様子もなく、カウンター越しに私の腰を引き寄せた。
「エルゼ、私は君を独占するためにあの地獄から奪ったんだ。パンの香りに混じって、他の男の視線が君に触れるだけで、私はこの城下町ごと氷漬けにしたくなる」
耳元で囁かれる独占欲の塊のような言葉に、顔が熱くなる。
逃げる予定だった頃の私は、こんなに情熱的に愛される未来なんて、想像すらしていなかった。
◇〜第六章:侯爵家の没落〜◇
私が北方の星降る城に身を寄せてから、ひと月も経たぬうちに、王都は騒然となった。
発端は、アルベルト様が王宮に送りつけた一式の書類だった。
──あの夜、私が侯爵家から持ち出したものだ。
過去十数年分の戦功報告書、改竄された帳簿の原本、そして──侯爵家の印章が押された密約文書。
“不備“として切り捨てられてきた下位貴族たちの名が、そこには一人残らず記されていた。
調査は、異例の速さで進んだ。
否定し続けていた侯爵は、王宮の尋問の席で、自らの家紋入り帳簿を突きつけられ、ついに言葉を失ったと聞く。
追い打ちをかけるように、かつて追放された老執事の家族が生存していることが判明した。
辺境で密かに保護されていた彼らは、王都に呼び戻され、帳簿の筆跡と改竄の手口を証言した。
結果は、覆しようがなかった。
侯爵家は、戦功詐取、虚偽報告、王国資金の横領、そして複数の冤罪事件への関与を理由に、爵位剥奪。
領地は没収され、財産は王家管理下に置かれた。
義母は責任を他家に押し付けようとして失敗し、王都追放。
エドワードは逃亡を図った末に捕らえられ、騎士資格を永久に剥奪された。
かつて私を“幽霊嫁“と嘲った屋敷は、今では封鎖され、
夜ごと、無人の館にだけ灯りが揺れるという。
──呪われていたのは、家ではない。
罪を重ね続けた者たちの心、そのものだったのだ。
◇〜第七章:星降る夜の“本当の契約“〜◇
ある夜。
北方の空に満天の星が広がった。
アルベルト様とバルコニーで温かいワインを飲んでいると、彼がふと思い出したように、一枚の古びた紙を取り出した。
「これ……私が侯爵家に置いてきたはずの、離縁届?」
「ああ。あのゴミ山──実家──から回収しておいた。……エルゼ、君はこれを武器に、自由になるつもりだったんだろう?」
私は頷いた。
その紙があれば、私は誰にも縛られない“自由なパン職人“になれるはずだった。
アルベルト様は、その紙を目の前で細かく破り、夜風にさらった。
「アルベルト様!?」
「あんな汚らわしい名前が並んだ契約は、もういらない。……代わりに、これを」
彼が差し出したのは、銀色の刺繍が施された新しい羊皮紙。
そこには、彼の手書きで新しい誓約が記されていた。
【一、アルベルト・フォン・ノアールは、生涯エルゼを唯一の愛として守り抜く】
【二、エルゼが焼くパンを、一番近くで愛でる権利をアルベルトに与える】
【三、エルゼの自由を奪わない。ただし、彼女が泣きたい時と甘えたい時だけは、私の腕の中に監禁する】
「……これ、契約書じゃなくて、ただの愛の告白じゃないですか」
「契約だ。破れば私が君に一生尽くすという、逃げ場のない契約だ」
彼は私の薬指に、北方の星空と同じ色をしたサファイアの指輪を嵌めた。
かつての冷たい政略結婚の指輪とは違う、重くて、熱くて、愛おしい重み。
「エルゼ、逃げるのはもうやめだ。……君の居場所は、ここにある」
「……ええ。もう逃げません。あなたがこんなに甘い罠を仕掛けるから、私はもう、ここでしか生きていけなくなってしまいました」
私は彼に寄り添い、その温かな胸に顔を埋めた。
修羅場の先で見つけたのは、パンのように香ばしくて、蜂蜜のように甘い、終わりのないハッピーエンド。
「愛しているよ、私の可愛い職人さん」
星が降る夜、私たちは新しい契約を、幾度目かの深い口づけで封じ込めた。
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シリーズ『異世界恋愛の短編集!』の中の作品も、合わせてお楽しみください。




