第5話 氷の王女エリシア
古井戸の縁に張った薄氷を、指先でそっと弾いた。
青い輪が水面に広がり、井戸の闇が静かに開く。
白羽の信使が導いた密路――王城の腹の底へ続く、誰にも見られてはならない道だ。
「足元、気をつけて」
リアが小声で言い、祈りの灯を指先にともす。壁に刻まれた古い祈祷文が、薄金に浮かび上がった。
「再生の母音……循環を讃える言葉です。けれど――」
彼女の指先が、文様に重ねられた角ばった新しい刻印に触れる。
「上から隔離の符。協会式に……書き換えられてます」
フローリアが無言で頷いた。
氷の国の血を引く精霊の横顔は凛としているが、睫の影は少しだけ揺れて見えた。
狭い石段を下り切ると、小さな扉が一つ。
わずかな隙間から吹いた風が、爪先の雪を鳴らした。
扉が内へ開く。
白銀の間が広がった。氷燭の灯が天蓋の結晶を照らし、壁の鏡面に淡い光の波を走らせる。
その中央に、彼女は立っていた。
青白い髪が、光を吸って薄く輝く。
瞳の奥に、深い氷湖の色。
人の輪郭のまま、精霊の静けさを抱えた少女――王女、エリシア。
彼女は一歩、こちらへ進み、まずフローリアに目を向けた。
「久しいね、花弁。……来てくれて、ありがとう」
フローリアの睫がふるえ、わずかに頭を垂れる。
「あなたの呼びかけなら」
視線が、俺へ移る。
外套の奥に隠しているはずの《炎紋》に、彼女の瞳が一瞬だけ細く開いた。
それでも、拒絶はない。受け止める覚悟を、初めから持っている目だった。
「エリシア・フロステリアと申します。――ようこそ、氷の城へ」
礼は簡潔。けれど、声は柔らかかった。
形式的な挨拶を交わしたあと、彼女は躊躇なく核心へ踏み込んだ。
「……私の中にも、氷の王の血が流れています」
広間の空気が、ひと呼吸だけ止まる。
ミルが目を丸くし、ゼルフィアは顎をわずかに引いた。カイは感情を消して、ただ耳を澄ます。
「人と精霊が共に生きる……その証なのか」
言葉が口から出た瞬間、彼女の表情がほんのわずか緩んだ。
「……証で在りたい、と願っています」
小さな自嘲が混じる。
「ですが王国の保守派は、私を禁忌の果実と言う。協会は鍵として扱う。……どちらも、私を人として見ません」
彼女の肩越し、氷面の床を伝って、かすかな鈴の脈が昇ってきた。
――氷の心臓の鼓動。
整ってはいるが、どこかで拍がずれている。不整脈の匂い。
エリシアは城内の事情を手短に語った。
封印守スヴァルドは王を守る剣として忠実だが、彼女の混じりには距離を置く。
数ヶ月前から協会の査閲官が宮中に常駐し、儀礼路を検査・上書きし、刻印鏡で紋の反応を探っている。
城下では「契約=禁忌」の布告が強まり、通報の鐘が日常になった。
「原式は解凍=再生です」
リアが床の文様に膝をつき、指でそっとなぞる。
「でも、書き換えの層が隔離に偏っています。……流れが、断たれている」
「王の凍痛が増している」
フローリアの声は低い。「誰かが循環を塞いだ。眠りは、痛みの中で揺さぶられている」
エリシアは短く目を閉じ、決意を整えたように顔を上げた。
「明朝、氷封の儀を私が執り行います。本来は循環を整える儀式。……書き換えられた術式でも、人と精霊の血を持つ私なら、通せる道があるかもしれない」
「危険です」
ゼルフィアが言う。
「改竄術式は反動を呼ぶ。王にも、あなたにも」
俺は一歩進み出た。
「俺とフローリアの暫定同調で、熱を均す。祈祷はリア、位相はゼルフィアが安定させる。……補助をさせてほしい」
エリシアは少しだけ考え、頷いた。
「お願いします。ただし、儀礼路の改竄には触れないでください。城内での衝突は、王国を割ります」
政治の枷。分かっている。
それでも、触れずに通す方法はある――燃やさず、ならす。
謁見は公ではない。侍従は少なく、扉の外も静かだった。
……静かすぎて、逆に気配がよく分かる。
廊の陰、薄い息遣い。
振り返れば、そこに男が一人。灰色の外套、手には小さな鏡。査閲官だ。
鏡の面が淡く曇り、俺の胸の奥で弱く接続している炎紋と六花のリンクが、薄い靄の波紋として映った。
目が合った――瞬間、彼は礼だけ残して影に消えた。
ゼファードの名が、氷より冷たく頭の芯に降りる。
「……見られましたね」
カイが肩をすくめる。
「構わない」
エリシアは静かに首を振った。
「ここはもう、隠しごとだけでは守れません」
謁見の後、案内役が引き、俺とエリシアは鏡池のほとりで短く言葉を交わした。
水面は氷の肌を薄く被せ、天井の光を二重に揺らしている。
「混じるというのは、時に居場所を失うことです」
彼女は水面を見たまま言った。
「人の中にいても、精霊の中にいても、どちらでもない。けれど――間に立てるのは、私しかいません」
「……俺も間に立ちに来た。炎と氷、精霊と人。繋ぐと決めて」
言いながら、胸の《炎紋》にそっと触れる。微熱が返ってきて、フローリアの六花が遠くでふわりと揺れた。
「燃やさない炎。……不思議ですね」
エリシアがわずかに笑う。
「炎は怖かった。けれど、あなたのそれは、凍りついたものをならす温度に見えます」
鏡池の奥、肉眼では見えないほど細い亀裂が、すっと走った気がした。
鼓動が一つ、底で跳ねる。
鈴の音が、遠くで、ほとんど聞こえないほどに鳴った。
「明朝、儀に立ち会ってください」
エリシアは姿勢を正し、深く頭を下げた。
「あなたたちの意志に、頼ります」
「必ず」
短く、そう答える。
客間に戻る途中、フローリアが歩調を合わせてきた。
「……王女は、間として正しい」
「君はどうだ」
「見極める。あなたの炎が、どちらへ傾くかを」
ツンとした言い方でも、さっきより声が近い。
六花の結晶が足元に小さく咲いて、すぐ消えた。
夜は深いのに、城は眠らない。
遠く、封印宮の方角で氷光が脈打つ。
世界の心臓が、痛みに目を開けようとしている。
寝台に腰を下ろす前、窓越しに広間の方へ目をやった。
廊の隅で、灰色の外套の影が再び鏡に触れ、小さく囁くのが見えた。
――「元帥に、連絡を」
ゼファードが来る。
だからこそ、明日の儀を成功させなければならない。
触れずに、通す。燃やさず、灯す。
胸の奥で、イグニスの声が風のように笑った気がした。
ならせ、と。
俺は拳を握り、目を閉じる。
氷と炎。人と精霊。
明日、その“間”に立つ。
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