第3話 氷精霊の囁き
――風が、消えた。
城外の雪原に出て、三つ数えたところで世界から音が抜け落ちた。
降り続く雪が、まるで宙で止まっているみたいに静かだ。吐いた息だけが白い靄になり、すぐ潰れて消える。
「無音帯ですね」
リアが囁いた――はずだが、音は耳より先に皮膚へ触れた。
カイが目で合図を送る。ここからは身振り手振りだ。
胸の《炎紋》に意識を落とす。微かな熱の脈を放つと、空気の層が反応して、見えない壁に跳ね返った。
反射の遅れ――あっちだ。
ゼルフィアが指を二回弾く。青白い放電が輪になり、方角を固定する。
ミルは足元の雪に薄い風の膜を敷いて、踏み跡を拡散させる。
リアは杖を胸に抱え、祈りで精霊素の逆流を抑える。封印がこちらを「敵」と誤認しないように。
無音の中心へ進むほど、肌の内側が冷えていく。熱を奪われているのではない。世界の温度が、こちらの鼓動を測っている――そんな感じだ。
白い斜面が終わった場所に、それはあった。
雪面に刻まれた、花弁状の氷。六枚の花びらが、幾重にも重なって輪を作っている。
中心は薄氷の鏡。そこに、少女の影が眠っていた。両手を胸の前で組み、凍った睡りの中で呼吸だけをしている。
氷の輪の縁に、微かな紋路が走っている。
協会の刻印で見慣れた角ばった線と、古い、曲線の祈りが絡み合い、ところどころでねじれていた。
「原式は解凍=再生。……上から凍結=隔離で書き換えられています」
リアの指先が、古い祈りの母音をなぞる。
協会は壁を作るのが得意だ。世界が繋ぐための門に、鍵ではなく扉を重ねる。
――たす、けて。
声は、音になりきれない息で届いた。薄氷の鏡の奥から、胸の奥へまっすぐ来る。
俺は花弁の輪の前に膝をつき、掌を鏡へ近づけた。
「待て。アラームが走る」
ゼルフィアの電光が、結晶の縁で小さく跳ねた。やつの言うとおり、空気の奥で鈴の芯が震え始める。
「音の輪郭は私が削る!」
ミルが風層を厚くし、鈴の高音をやわらげる。
リアは息を吸い、古の母音をひとつ、置いた。祈りは、音楽より静かで、刃より鋭い。
俺の胸で炎紋が熱を返す。痛みじゃない。試されている。
「独りじゃない」
と示さなきゃいけない種類の扉だ。
肩に温い手が触れた。リアが祈りを俺に分かち、輪の外、ゼルフィアとミル、そして後方のカイの気配が線で繋がる。
――契約は、独りでは結ばれない。
「行く」
掌を薄氷へそっと置く。炎紋の色が金紅から、白金へゆっくり転じた。
氷の中の紋路が、花脈みたいに明滅する。
リアの母音が二つ。ゼルフィアが微振動で六度、数を刻む。
花弁が一枚、音もなく外側へ翻った。
また二つ。二枚目が開く。
呼吸を合わせ、薄氷の花をひらいていく。
五枚、六枚――氷の花は満開になった。
最後の中心が、すうっと溶けるでも砕けるでもなく、ただ形をほどいた。
青銀の髪が流れ、氷色の瞳がゆっくり開く。
少女が現れた。裸足。肌の表面に微細な結晶が羽衣のように浮き、吐く息が鈴の余韻を残す。
膝が崩れかける。俺は支えようと手を伸ばし――指先に、冷たい薄膜が触れた。
「……ふれないで」
囁き。拒絶というより、守るための距離。
でも彼女の視線が俺の胸の炎紋に止まると、その尖りがほんの少し鈍った。
世界の温度が一段、下がる。無音帯の沈黙が戻り、結晶の輪は役目を終えたみたいに淡く薄れた。
「レオン、時間がない」
カイの声が、今度はちゃんと耳に届いた。
街の方角で、刻印検査の鏡が霜色に光ったのが遠目にも分かる。解除の位相を拾われた。
城壁の上で、氷鎧の巨影――封印守スヴァルドが、顔を上げる気配がした。
少女の周りに残った封氷陣の残響が、静かに崩れる。雪に六花の紋が一輪、濃く残った。
俺は名を名乗ろうと口を開き――先に彼女が、息を吸った。
「……封印を解いてくれた……あなた、何者?」
氷の瞳が、まっすぐこちらを射る。警戒、戸惑い、そして一滴の興味。
応えようとした瞬間、遠くで氷の鼓動が鳴った。低く、重い脈動。
少女――彼女は眉根を寄せ、睫を震わせる。
「……王が……目覚めようとしている」
氷精霊王。ここを支える根だ。封印の脈が乱れているということは――。
「ね、ねえ、また変なの増えた?」
ミルが小声で言い、空気がほんの少しだけ軽くなる。
ゼルフィアが短く笑って、すぐ真顔に戻った。
「撤収ルートは確保済み。だが追跡は来る。選べ、レオン」
俺はうなずき、少女へ手を差し出す代わりに、言葉を差し出した。
「俺はレオン。精霊の契約者だ。……君をここから連れ出す。名を教えてくれ」
青い睫が一度だけ伏せられる。
鈴の余韻のように、か細い音が名前の形を作った。
「……フローリア」
無音帯の雪が、午後の光みたいにきらめいた。
凍った夜が、わずかに緩む。
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