第16話 フローリアの覚悟
白い風が一度だけ、広間の天蓋を撫でていった。
氷意――王の息だ。その余韻に、フローリアの小さな肩が震える。
さっきの直撃で、彼女は片膝をついた。氷花の盾は粉々に砕け、花片になって床に散っている。
王の輪郭は、なお白光のまま。けれど、その目だけが確かに此方を量っていた。
俺は右手の六花紋を灯し、半径数歩に無音帯を広げる。胸の《炎紋》は白金域へ――均熱:丸め:間=三:二:一。
指先に凍焼の痺れ。ゼルフィアの位相板には、無理な踏み込みが危険だと赤い線が跳ねている。
「無闇な介入は均衡を壊す」
剣を半ば抜いたスヴァルドが、低く忠告だけ置いて一歩引いた。ミルは風で視界を白くし、カイは片手で脇腹を押さえながら敵の再突入を抑えている。リアの祈りは細い糸になって、俺たちの拍を縫い止めていた。
フローリアが、ゆっくり立ち上がる。砕けた花片を踏まないように、足さきで確かめる仕草がやけに慎重だ。
彼女は震える指で胸の六花に触れ、はっきりと顔を上げた。
「逃げない。受け止めるって言ったのは――」
一拍置き、言葉をつなぐ。
「あなたの痛みを、私の中に分けるってこと」
王の白光が、わずかに濃くなる。問いが試しへ傾く、その境目の空気。
俺はすぐに壁際へ返路アンカーをふたつ刻んだ。薄い花紋が開閉を繰り返し、「帰る場所」を約束する。
「フローリア」
「大丈夫。間で、いく」
彼女は六花を逆手に取り、白光の内側へ一歩踏み出した。
視界がひとつ、裏返る。――俺には、輪郭しか見えない。けれど、同拍が繋がっているからか、時々、白の向こうの映像が透けてくる。
心象雪原。
声にならない泣き声、名を捨てる宣言の残響、凍死を避けるための延命――滅びの約定の断片が、白い欠片になって舞っている。
フローリアの肩が細かく震え、彼女は膝に手をついた。
「……これが、王が背負った温度」
唇がかすかに青くなる。俺の指先にも、内側から冷が伝わってきた。
白い声が雪原を渡る。
『分けられぬ痛みを凍らせる以外に、術はなかった』
フローリアは、ゆっくり立ち上がった。
涙が結晶になって睫に残り、光る。次の瞬間、彼女は噛み殺していた呼吸ごと、鋭い言葉を吐き出した。
「――そんな終わりしか選べなかったの?」
白がびりっと震える。
「あなたは一人で全部抱えた! 輪は、分けるためにあったのに!」
王意が波になって押し寄せ、風が強くなる。ゼルフィアの盤が警告を鳴らし、俺はミュートの輪を一段厚くした。凍焼が肘へ走る。
リアの声が耳の底で温く、ミルの風が視界を白に整え、カイの靴音が敵を遠ざける。スヴァルドの剣先は微動だにせず、ただ結び目の位置だけを待っている。
雪原の真ん中で、フローリアが両手をひらいた。
「奪わず、閉ざさず、隣に在る――なら、痛みだって分け合えるはずよ!」
結晶だった涙が、水に変わった。ぽたりと落ち、六花に染み込むと、小さな光が雪原の風に混ざって角を丸くしていく。
涙継ぎ――古い儀式の名が、なぜか俺の舌の裏で温度を持った。
『……分ける、か』
白い声が、ほんのわずかに低く、穏やかになる。
フローリアは雪に散らばる二つの欠片――滅びと記憶保存の断章――を両手で抱え、そっと合わせ面を作った。
「角を……丸めて」
彼女の指先で、薄い花びらのような氷が咲く。氷花継手。冷たさの形が、輪になるための継ぎ手だ。
合わせ目に淡金が差し、白の文様の中に、人のぬくもりが筋を通す。
広間の床でも、同じ変化が起きた。白銀の文字に淡金が一本、降りてくる。俺の無音帯は保たれ、ゼルフィアが小声で告げる。
「通れる温度帯、あと三拍は持つ」
雪原の風が静まり、王の輪郭が一段くっきりした。フローリアは掌を上に向け、もう一度差し出す。
「私が王の意志を受け止めます。でも――独りじゃない。輪で、一緒に」
白光がその掌に触れた。温度の底で、微かな体温が混ざるのが分かる。
試しは、再び問いへ戻った。
その瞬間、雪原の正面に古の鏡門が立ち上がる。上部には原初誓句。
《奪わず/閉ざさず/隣に在る》
鏡面の奥で、黄金時代の薄い昼が揺れた。レオニスと、白い王と、幼いフローリアの影。
現実の広間で、俺の六花紋が白金に強く光る。鍵は揃った。
フローリアが振り向く。――距離のはずのものが、距離でなくなる。彼女の視線が、まっすぐ俺に届いた。
「扉は開く。行って、レオン」
囁きは、氷よりも澄んでいる。
「――あなたにしか触れられない場所がある」
「……分かった」
俺は息を整え、あえて短く答えた。言葉を長くすると、拍が崩れる気がしたからだ。
白い声が、静かに降りてくる。
『……問う者として、聴く』
天蓋の吹雪が一拍だけ弱まり、城下の誓環歌が濃く聞こえた気がした。
王国の白が、歌に近づく。
「行け」
スヴァルドが視線だけで合わせる。
「三拍、稼ぐ」
カイが血の味を噛み殺して微笑う。
「道は押さえるから!」
ミルが風の指で廊を広げ、
「祈りは通る、今なら」
リアが淡金の糸をさらに太くする。
ゼルフィアの盤に青い線が灯る。
「ダイブ可能域、今」
フローリアが、最後にもう一度だけ、雪原の王へ触れた。
「――あなたの記憶が……残酷すぎる。だから、分けよう。ここから先は、一緒に」
白光の中で、極小の頷きがあったように見えた。
鏡門の縁が、ゆっくりと開く。
俺は右手の六花に拍を落とし、胸の炎をならす。
均熱:丸め:間=三:二:一。
階が白の内側に延びる。
――行く。
輪を、もう一度歌に戻すために。
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