第11話 滅びの約定
白王の間を出たあと、記憶の街は音から壊れていった。
最初に乱れたのは鈴だった。祈りの合図ではない、不整の拍。氷運河が逆流し、橋の欄干に埋め込まれた六花の碑が、母音の欠落を淡い光で示した。
人の声と精霊のさざめきが重なる場所で、別の調子が頭をもたげる――命令の声だ。
古代協会の工房を覗く。刻線台が並び、白衣の学匠たちが、誓句の曲線を角に削っている。
「保管封氷で循環を止める。まずは安全確保だ」
「従属誓文で指示系を単純化する。主語を置け。命じろ」
「核片抽出。核を砕いて器に嵌める……これで“戦える”」
――誓いが、兵器に変わっていく。
街角の母音が、規律音に置き換わっていくたび、胸の拍が寒くなる。
氷の床下で溜まっていた凍痛が形を取り、狼の影や鳥の刃になって溢れた。祈りで眠らせてきた痛みが、牙を持つ。
「こっちへ!」
幼い頃の――過去のフローリアが、泣きながら人々を避難させている。白い羽衣が破けても、その指は祈りの母音を離さない。
俺は影だから触れない。けれど、呼気だけは合わせられる。均熱、丸め、間――せめて、彼女の声が切れないように。
レオニスは学院と鏡林を往還し、上書きされた従属誓文の上から、原初の誓句を重ねて歩く。
線と線が擦れ合い、裂ける音。修復の拍は届くが、届くより早く命令の角が伸びてくる。
息が足りない。世界の方が先に壊れていく。
白王の間に戻ると、ルシエルは鏡湖に世界の位相図を広げていた。
白い地図は、あちこちに黒いひびを抱えている。断裂。そして、各地の“凍痛”が結び合い、一本の川になろうとしていた。
「時間をください。まだ――戻せます」
レオニスの声は震えない。震えないが、間が足りない。
隣のフローリアが、言葉を探すみたいに唇を噛んで、祈りの母音だけをそっと添えた。
ルシエルは静かに首を振った。
「輪を保つために、輪を凍らせるしかない」
それが結論だった。
「滅びの約定を告げる」
白王の間の光が、少しだけ低くなった。
ルシエルは淡々と手順を述べた。
一、世界に大氷結を敷き、循環を低温で延命する。
二、誓いと生活の像を記憶界として保存する。
三、継ぐ者が現れた時、鍵(誓環)でもう一度、設計を書き換えられるように。
そして、宣言する。
「この記憶を継ぐ者が現れるまで――」
白い声が、湖の底に沈んでいく。
「私は名を捨て、世界の痛みを引き受ける」
誓句の構文に、主語はない。けれど、いまだけは、王が名を引いて前へ出た。
大氷結の儀が始まる。
白王の間から白金の拍が放たれ、氷脈が樹状に世界へ伸びる。海が固まり、空に霜の輪がかかる。
街の時間は緩慢になり、音の高さがどんどん落ちていく。最後に残るのは、長い鈴の持続音――冬の低音だ。
「レオニス!」
フローリアが彼の胸に誓環の札を押し当て、震える呼気で母音を支える。
レオニスは頷き、札の半分を鏡へ翳した。
――光が、こちらへ跳ねた。
胸の《炎紋》が白金に過負荷で光り、右手の甲へ冷たい痛みが走る。
薄い六花が、一瞬だけ肌の下から浮き上がって――すぐ、雪みたいに消えた。
ルシエルが、鏡越しにこちらを見た。
言葉は届かない。けれど口の形は読める。
継ぐ者。
過去のフローリアが、見えない誰か――つまり僕に、気づいたように微笑んだ。涙が一粒、白い湖へ落ちる。輪紋は小さな光となって、扉の縁に宿った。
「……輪が再び歌う日まで、眠れ」
ルシエルの声が、静かに封をする。
「――そして、継げ」
白がすべてを塗り潰した。
◆
息を吸った。現実の冷気だ。
氷の回廊。扉の向こうの白光は消え、縁に刻んだ帰還の花紋だけが淡く灯っている。
「戻った!」
ミルの声。
ゼルフィアの罠雷が最後の一発を跳ねさせ、回廊の角で追手の足が止まる。
カイが囮の足跡をもう一列付け、エリシアは蒼白なまま同拍の残響を押さえて息を吐いた。
フローリアが一歩近づき、俺の肩をそっと支えた。
呼吸が合う。彼女の六花と、俺の炎の間に、同じ拍が確かにある。
「……継ぐ」
自分でも驚くくらい、静かな声が出た。
「必ず」
走り出す直前、右手の甲がきらりと光った。
「ちょっと待って、今の何!?」
ミルが目を剥く。
「今、手の甲キラッとした! ねえ、ずるくない!? その光り方は――」
「走りながら話して!」
カイに腕を引かれ、俺たちは回廊を駆ける。
右手の皮膚の下で、さっきの六花が、まだ微かに疼いていた。
ルシエルの声が、遠い鈴に混じって残っている。
――この記憶を継ぐ者が現れるまで。
世界は冬の音を鳴らしている。
なら、俺はならす。炎でも、氷でも、名でもなく、間で世界を繋ぎ直すために。
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