ガラスの森
ゲームにログインできない、乳液がもうすぐなくなりそう、そして何よりも明日は仕事。
頭の中はごちゃごちゃしてぐちゃぐちゃして、しんどい。それでもなんとか明日の準備をして、ベッドの中に潜り込んだはずだった。
「ここはどこだろう? 木があるから、森なのかな?」
私の声が、よく分からない森の中で小さく響く。どうやってここへ来たのかなんて覚えていないから、ここがどこだなんて分かるはずがない。
とりあえずここでいても何か分かることはない。そこで私は歩くことにした。
「うわっ地面がガラスの破片でいっぱいだ」
歩くたびに、ガラスの割れる音がする。
どうやら地面にガラスの破片が大量に落ちているらしい。ここが薄暗いから光ってはいないけど、プラスチックにはない重厚さが地面に落ちている破片にはあった。
そんなガラスの破片が地面には大量に落ちているけど、ここは森だ。ガラスの破片に少し埋もれるようにして木が生えていて、私の頭を木の葉っぱが覆っている。それもあってなのか、薄暗くなってきた。
「うわっいつの間に」
そして今自分の格好にも驚いた。部屋で飾っているけど一度も着たことがないロリータ風のワンピースを、私は今着ている。このワンピースはピンク地でバラの模様が入っていてかわいらしい。なおかつ靴も見たことがないほど、丈夫な厚底ブーツになっている。
夢の中だから服装もいつもと違う感じなのだろうか? うん、そうに違いない。第一私はこんなブーツを一個も持っていないし、この森へ来た覚えもない。
そこで私は今夢を見ている。現実では疲れやストレスをためつつ仕事をしていくという、かなり辛い現実がある。でも今は夢だから、そんな現実のことは忘れて歩いて行こう。
「カン、カン、カン」
ガラスが割れる音がする。ガラスとガラスがぶつかっている音がする。
その音以外に何の音もなく、またもうすぐ夜になりそうなほどに薄暗い。
どこへ行けばいいのだろうか? まあ夢だから目が覚めるまでの暇つぶしになんとかしなきゃいけないってことはないので、このまま歩き続けるもいいや。
そうしたら何か分かるはず。
厚底だからか、どれだけのガラスを踏んでも足は傷つけない。それでもガラスがぶつかる音だけ響く森は不気味で、早く出て行きたくなる。
薄暗さはガラスを輝かせない。そこで光がないなか、私はただ歩く。どこへ行けばいいのか、それは分からない。どこへ行けるかだって分からない。
「あっ家だ」
水彩画のようなやわらかい色をした家が、私の目の前にはあった。
その家は一階建てらしくて、私の身長よりも少し高いところに三角の屋根がある。壁の色は白、ドアの色は茶、屋根の色は赤という絵本に出てきそうな家。
なんだろう、ファンタジー感が強い家だな。
「すみません。お客様ですか?」
フリースよりもふわふわもこもこそうな毛、私よりも少し小さな身長。何よりも長く縦にのびた耳と、短くてむっくりとした手足。
どうやら二足歩行をする、うさぎのぬいぐるみだ。ここは夢の中、ぬいぐるみが歩いたりしゃべったりするのは当たり前かもしれない。
「ただいま迷子です。いつの間にか森の中にいました」
「この森へ入ることができるのは特別なお客様だけです。ではお家へどうぞです。特別なお客様はおもてなしをしなくてはいけません」
ぬいぐるみはつるつるとした黒い瞳で私を見て、誘ってくる。
「ありがとうございます」
ガラスの上を延々と歩き続けるのは、楽しいわけじゃない。そこでぬいぐるみの誘いを受けることにした。
家の中にはやわらかそうな色をしたテーブルと椅子がある。
「椅子に座ってください。あとお菓子も食べて良いですよ」
「ありがとうございます」
よもつへぐい。その言葉が一瞬頭をよぎった。とはいえ現世へ戻れたくなったって、問題はない。生きるのはしんどいだけだし。
「お茶もどうぞです」
ぬいぐるみは紅茶をすすめてくる。
もしかしたら本格的なティータイムかもしれない。
そこで私は椅子に座って、マドレーヌらしき焼き菓子を一つ食べてから、紅茶を口に含む。
焼き菓子はやわらかい、紅茶はあたたかいだけで、味は一切なかった。
「おいしいですか?」
ぬいぐるみのつるつるとした瞳が、まっすぐと私を見つめている。
「おいしいです」
ゆっくりと答えてから、今度はクッキーをかじる。このクッキーもサクサクとした感触があるものの、味がない。そこでおいしいわけではないけど、そんなこと言えるわけがない。
「あっ血が出ていますよ。左の手首から」
ぬいぐるみが話してから少し経った後、私は自分の左手首を見る。
カッターで切ったようなまっすぐな赤い線。そこからじわりじわりと赤い血がにじみ、これは確かに出血している。思わず右手で左手首をおさえた。
「このままこの世界にいませんか? 外へ戻ったって、楽しくはありません。ここには辛いことがなく、やさしく生きていけますよ」
ぬいぐるみは私の出血した手首を見つつ、そう誘ってきた。
手首から血が止まらない。じわじわと血が出てきて、とうとう手だけじゃなくて服も血で染まっていく。もったいない、このワンピースで飾っておくだけで幸せになる物だったのに。
「その出血は現実で受けた心の傷です。ここにいれば、いつかいえます」
そうかもしれない。仕事は辛い苦しいしんどい、それ以外ない。そこで生きていて良いことがあるかと問われたら、そんなことない。
そこでここで暮らした方が良いのは分かる。ここがどういう世界か分からないけど、仕事よりも耐えられないことなんてあるはずがない。
「ごめんなさい。それでも仕事があるから、戻らなきゃいけないんです」
でも断った。やっぱり仕事は大事。心がどれだけ削れて精神が参っていても、仕事へは行かなくちゃいけない。そこで戻らなくちゃ。
「そうですか、残念です」
その声が聞こえた途端、視界が闇で染まった。
落ちていく。体がどんどん落ちていく感じがして、どこにもたどり着かない。この落下感と闇。私は今夢から覚めるのかな?
『会社はもうないよ』
ぬいぐるみの声じゃない、ぞっとするような低い声が聞こえた。
会社が無くなるわけがない。あそこは世界がほろんでもいつまでもあり続けるだろう。
悪はしぶとく、ほろぶわけがないから。
まぶしさのあまり、目を開ける。そこには自動でついたと思わしき、LEDの電球があった。
「あっ朝だ」
私はベッドの中にいた。どうやらさっきまでのことは、全部夢だったらしい。
とりあえず上着を着てから、ベッドから降りる。梅雨が終わったばっかりなのもあって、少し暑い。そこでクーラーをすかさずつけた。
そしてテレビをつける。もう少しで参議院選挙があるから、それにまつわるニュースが多い。それからアメリカとの関税のやりとりが話題になっているらしい。今日本は不利だから、関税心配だな。
薬を飲んでから、朝ご飯を選ぶ。どの栄養ゼリーにしようかな、グレープフルーツ味か、それとも栄養ドリンク味か。悩むな。
『速報です。△△△にある××××××ビルが爆破されました』
テレビのアナウンサーがいきなりそんなことを言い出した。
「あっここ会社のあるビルだ」
なんか知らないけど、会社が入っているビルが爆破されたらしい。
そこでテレビには仕事がある日にはいつも見ている、というよりも行っているビルが映し出される。
『現場です。○○階で何かが爆発したしたと推定されます』
どうやら私が働いている会社がある階、そこが爆破されたらしい。
『なお現場近くで爆発物を所持していた神酒鴉印を現行犯で逮捕しました』
あっ上司が逮捕されたらしい。上司は他人を積極的に否定することしかできない人だ。とはいえ何かを爆破するのはさすがにできないと思っていた。
でも上司が犯人らしい。予想外だ。
会社のある階が、上司に爆破された。こんなことさっきまで見ていた夢よりも大事なことだ。
「今日仕事あるかな」
テレビを見る限りビルは無事じゃないみたい。ビルは崩壊していなくても、割れた窓から火が出ている。無事な窓がないような気がするけど、気のせいかな?
あーあこれじゃあ会社においてあったカロリーメイト全滅だな。それにお気に入りのメモを会社に置いてあったのに、これも駄目かな。
とにかく会社へ行く準備をしよう。仕事もしかしたらあるかもしれないし。