表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

私を置いて行くのなら、もうそれで構いません

作者: 結生まひろ

『これは契約結婚だ。君を愛することはないだろう』


 初夜に、夫からそう告げられたのは一年前のことだった。

 私たちの結婚には愛がなかった。それは貴族同士の婚姻では珍しいことではない。


 私の夫、カミル・リーベナウ侯爵は、若くして家を継いだ。

 妻がいなければ体裁が悪いという理由で、家柄のよいヴァルトハイム伯爵家の次女である私、エーファが彼の妻となった。


 整った顔立ちに、すらりと高い背丈。銀の髪に太陽のような金色の瞳。

 そんな美しい彼を見て、最初は少し期待してしまった。

 こんなに素敵な人の妻になれるなら、たとえ契約結婚でも悪くないかもしれない。

 ……そう思っていたのに。


 あの夜、緊張しながら迎えた初夜で冷たく言われた言葉に、私は結婚生活に期待するのをやめた。


 それでも名目上は侯爵夫妻である私たちは、社交の場では常に並んで出席しなければならない。

 楽しく手を取り合って踊ったことなど一度もないけれど、それも侯爵夫人としての務め。


 でも――。

 私には、どうしても我慢ならないことがある。




 夫が私を置いて、どんどん先に行ってしまうのだ。




「あ、カミル様……、待ってくださ――!」

「お嬢さん、お一人ですか? よかったら私がエスコートしましょうか?」

「……」


 また、広いパーティー会場でカミル様に置いていかれたせいで、知らない男に声をかけられた。


「せっかくですが、私には連れがおりますので」

「ああ……そうなんですか。それは残念だ」

「失礼します」


 カミル様は少し先で、仕事相手と話をしている。

 ちらりとこちらを見たけれど、私がドレスの裾をたくし上げながら近づいていくのを見て、視線を逸らされた。



「どうして私をちゃんとエスコートしてくれないのかしら……!」


 いくら二十歳のときに父を亡くし、若くして侯爵になったとはいえ、幼い頃から一流の教育を受けているはずだ。礼儀作法も、女性の扱いも、それなりに教えられてきたに違いない。


 だというのに、ドレスで歩きにくい私を置いて、彼はスタスタと一人で先を行ってしまうのだ。



 だから、私は決めた。



 この人にエスコートしてもらうのは、もうやめる。




     *




 その日も、夫は私を置いて一人でさっさと会場に入っていった。

 いつもなら、文句を言わずに必死に彼を追いかけていたけれど……今日は違う。


「――エーファ!」


 爽やかでよく通る声が、私の名を呼ぶ。


「……ルイ。待ってたわ」


 振り返ると、そこには赤い髪をラフに整えた、背の高い美丈夫が微笑んで立っていた。

 切れ長の瞳と高い鼻梁、ガタイのいい肩幅に、筋肉質な腕。

 堂々とした佇まいと優雅な所作は、周囲の男たちすら見惚れるほどだ。


「ごめんね、少し遅れた」


 少しワイルドな見た目に反し、甘い声音でそう言って。ルイは私の手を取ると、丁寧にその甲へ唇を寄せた。

 その動きには一切のためらいも照れもない、完璧な所作だった。


 私の夫にも、少しでもそんな心得があったら……ううん、期待するのはもうやめたのだった。


「じゃあ、行こうか。美しいエーファのエスコートができて、光栄だ」

「ふふ、ルイったら……。今日はよろしくお願いね?」

「任せてよ」


 ルイが軽やかに私に腕を差し伸べ、私はその腕にそっと手を添える。

 ルイのことは、子供の頃からよく知っている。私が夫と出会う前からの、気心の知れた仲。


 昔は……私よりも小さかったのに。いつの間にか、こんなに大きくなってしまったのね。



 ドレスの裾を持ち上げ、ゆっくりと歩み出したその瞬間――。


「エーファ!?」


 突然、驚いたような夫の声が響いた。


「だ、だだっ、誰だ、おまえは……!?」


 顔を上げると、既に会場へ入ったはずの夫――カミル様が、入口付近でこちらを凝視していた。

 案外早く、私がついてきていないことに気づいて、戻ってきたのかしら?

 それは少し、意外だった。


 彼の視線は、私の隣に立つルイに釘付けになっていた。

 その表情には驚きと困惑、そして隠しきれない動揺が浮かんでいる。


「あなたがエスコートしてくださらないので、彼にお願いすることにしました」

「なんだって!?」

「問題ありませんよね? どうせあなたはいつも、私を置いて一人で先に行ってしまうのですから」


 微笑みながらそう答えると、カミル様の目が大きく見開かれた。


「こんなに美しい奥様を置いて行くなんて……あり得ないですね。あっという間に、他の男にさらわれてしまいますよ?」

「それは……っ」


 余裕たっぷりに笑うルイは、まるでからかうように片眉を上げた。

 その言葉は礼儀正しい口調でありながら、芯の通った〝棘〟がある。

 カミル様は何も言い返せず、唇を噛みしめながら視線をさまよわせていた。


「それでは、失礼いたします。エーファ、今宵は俺と一緒に楽しもうね」

「ええ、ありがとう、ルイ」

「…………!!?」


 夫の前で、堂々と。

 ルイの目を見て答えた私に、カミル様は頭を鈍器で殴られたのかと思うような顔を見せた。


 ……でもまさか、そこまでショックを受けるなんて、意外だわ。

 これは契約結婚。彼が私を愛することはないし、私はそれで構わないと思っていた。

 彼が侯爵として地盤を固めた後は、白い結婚のまま静かに離婚する予定なのだ。


 彼が私を気にするなんて思わなかった。

 それとも単に、男のプライドが許せないだけだろうか?


 そんなことを考えながら、私はカミル様に背を向け、ルイの腕に手を添えたまま歩き出した。

 親しい雰囲気たっぷりの私とルイを見て、カミル様は開いた口が塞がらない、という様子だ。


 けれど、いいじゃない。

 どうせ彼は、侯爵としての義務でこの場にいるだけ。

 仕事相手と挨拶を済ませたらすぐに帰るのだから、私なんていてもいなくても問題ないでしょう?

 どのみち、いつも置いていかれるのだし。



「――待ってくれ、エーファ」


 だというのに。

 彼の声が背中から飛んできた。

 振り向く前に、カミル様の手が私の腕を掴み、ぴたりと引き留められる。


「……何か、ご用でしょうか?」


 問いかけると、彼は気まずそうに目を逸らしながら、少し俯いた。


「……これまで、すまなかった」

「え?」

「僕は……女性と社交の場に出たことがほとんどなくて……その、どうエスコートすればいいのか、正直、自信がなかったんだ……」


 ぼそぼそと、まるで小声で言い訳をするかのように。

 あの、いつも毅然とした表情を崩さない、プライド高きカミル様が、こんなふうにしおらしく謝るなんて……正直、驚いた。


「だが、君がそんなに辛かったなんて……知らなかった。本当にすまない」


 絞り出すようなその声に、私は思わず目を見張った。

 今にも泣き出してしまうのではないかと思ってしまうほど、悲しそうな顔をしているカミル様。

 ぎゅっと握られた拳が、ぷるぷると小さく震えている。


 いつもはあんなに堂々としている方なのに。

 社交の場でも、公務の席でも、誰の前でも隙を見せない人が、こんな表情をするなんて。


 その姿はまるで、失敗を叱られた少年のようで……少しだけ、胸がちくりと痛んだ。

 彼は子供の頃に母を亡くし、父である先代の侯爵も二十歳のときに亡くしている。

 若くして家を継いだ彼は、周りから舐められないように、そして早く認めてもらえるようにと、苦労してきたのは知っている。



「……自信は、経験とともに身につくものですよ?」


 そんなカミル様に、ルイが肩をすくめながら口を挟んだ。

 やれやれ、といった様子で、それでいてどこか優しさをにじませて。


 するとカミル様がふいにルイへと視線を向けた。


「そうだな……って、そもそもおまえは誰だ!? 僕の妻を平然と呼び捨てにしていたな……!」


 思い出したようにルイに言い募り、私の隣にいるルイに一歩詰め寄る。

 そして、まるでルイから奪うように、私の腕を引き寄せた。

 その手は力強く、けれど少しだけ、震えていた。


「エーファは僕の妻だ!」

「……」


 私たちは契約結婚した夫婦なのに。

 カミル様は、まるで本当に私を愛しているかのように、ルイに向かってそう叫んだ。


「ああ、ご挨拶が遅れました。俺はルイ・ヴァルトハイムと申します」

「え……ヴァルトハイム?」


 もちろん聞き覚えのある姓に、カミル様が戸惑った顔を見せる。


「はい! ちゃんとお会いするのは初めてですね、叔父さん!」

「叔父……ってことは、つまり――」


 爽やかに笑うルイに、カミル様の表情が引きつっていく。


「そうです。ルイは私の姉の息子……つまり、私の甥になります」

「え…………ええええええっ!!?」


 そう、彼はヴァルトハイム家長女である私の姉の、息子なのだ。

 姉は、幼馴染の伯爵令息を婿にした。


 カミル様とルイが会うのは初めて。

 想像以上に驚いているカミル様の反応に、私は思わず笑ってしまう。


「甥って……いくつだ!?」

「今年で十五になりました」

「十五!? 見えない……!!」

「最近の子は、大人っぽいですよね」


 私が肩をすくめて笑うと、ルイは得意げにふふんと鼻を鳴らした。


 ちなみに私は四姉妹の次女で、ヴァルトハイム家の娘はみんなそれぞれ個性が強い。

 長女は十六でルイを出産した。私と姉は十二歳離れている。


「まっ、これからはしっかりエスコートしてくださいよ? じゃ、俺は行くね」

「ええ、ありがとう、ルイ」


 ウインクを一つ残して、ルイは颯爽と会場へ姿を消していった。


「……確かに、君には甥がいると言っていたな」

「ええ。カミル様はお忙しくて、まだちゃんとご挨拶もしていませんでしたね」


 何しろ私たちは契約結婚。

 どうせ白い結婚なのだから、両家の顔合わせも、結婚式も、まともに行われていない。

 すべては〝必要最低限〟の範囲で済まされた。



「……これまで、本当にすまなかった」


 ぽつりと呟かれた彼の低い声に、私はふっと微笑んだ。


「わかってくださったのなら、それで構いません。でも……そんなに謝ってくださるなんて、少し意外です」


 正直な気持ちを口にすると、カミル様はばつが悪そうに目を伏せ、それから観念したように口を開いた。


「最初は……僕は、君を誤解していた」

「誤解?」

「君は社交の場に知り合いが多いから、僕といるより楽しいだろうと……」

「ああ、それは妹ですね?」


 私には、顔と名前がそっくりな双子の妹がいる。

 彼女は社交界で派手に振る舞い、貴族男性たちと華やかに遊びまくっている。

 だからカミル様も、私と妹の噂を勘違いしていたのだ。


「そのうち、君がそんな噂のような女性ではないことには気づいたが、今更どう接すればいいかわからず……僕はいくじなしだな」


 本当にすまなかった、と続けるカミル様に、私は小さく息を吐いて告げた。


「本当ですよ。ただ……普通に腕を差し出してくだされば、それでよかったんですよ?」

「そうだな……。格好つける必要はなかった」

「そうです。だって私はあなたにちゃんと、エスコートしてもらいたかっただけですから」

「……エーファ」


 少しの沈黙の後、カミル様がふと目を逸らした。

 思えば社交の場に出ると、彼はよくこうして私から目を逸らす。

 愛のない夫婦だからだと思っていたけれど――なんとなく今日は、それとは違うのではないかと思えた。


「今日の君は……いや、いつもだが、今日は特に……その、眩しいというか……美しくて……」


 頬を赤くしながらも、必死に言葉を紡ごうとするその姿が、不器用で、少し可笑しい。


「だから、腕を組まれるの、少し緊張するんだ」

「まあ」


 まるで初めての恋をする少年のように、どこかぎこちなく照れくさい顔をする彼に、私はふっと笑みをこぼす。


「大丈夫です。少しずつ、慣れていきましょう?」


 そう言って私がそっと手を差し出すと、カミル様は一瞬戸惑ったけど、決心したようにしっかりと腕を差し出してくれた。


「エスコートはまだ不慣れかもしれない……だが、君が妻で、僕はとても誇らしい。だから、恥をかかせるようなことはしないと、誓うよ」


 その言葉には、少しだけ男らしい頼もしさがあった。

 私は小さく微笑み、二人並んでゆっくりと会場へと足を踏み入れた。


 優雅な音楽が流れる会場内には、既に多くの人が集まっていた。


「……エーファ、僕と、踊ってくれるか?」

「ええ、喜んで」


 その夜、私たちは初めて二人でダンスを楽しんだ。

 カミル様のダンスは、やっぱり不慣れなのか、とても上手と言えるようなものではなかった。時々噛み合わないし、少し腰が引けている。

 もっと堂々とすればいいのに……。でもそれすらも、私には楽しいと思えた。


 真剣な顔で、一生懸命、私をリードしようとしてくれるカミル様。

 私が他の男性()にエスコートされて慌てふためいたのも……ちょっと面白かった。



 けれど、こうして素直になった彼は、少しだけ格好よく見えた。



 これからは、ちゃんと向き合おう。

 言いたいことはしっかり伝えて、彼ときちんと話し合おう。



 そう思えた――少しだけ、距離が縮んだ夜だった。




お読みいただきありがとうございます!

母が「父が私を置いて先に行っちゃうの」とぼやいていたので私が昇華しておきました(๑._.)و笑


この2人エーファとカミルが出てくる作品、ついにシリーズ化しました\(^o^)/

『都合のいい契約妻は終了です』

https://ncode.syosetu.com/n2376ks/


こちらも応援していただけるとすごく嬉しいです(*ˊᵕˋ*)

楽しんでいただけたら、評価やブックマークを押してくれると励みになります!!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
よくある幼馴染登場かと思いきや、まさかの甥っ子! 15歳にエスコートを指導される旦那(笑) 面白かったです。
男の人よく奥さん置いて先に歩いていっちゃうけど、一緒に歩くの恥ずかしいと言って許される親父はもう死んだオヤジしかいませんわ〜〜。 令和を生きているならそれ改めないと、男のほうが『なにあれ…酷い旦那だな…
あとがきの母のぼやきを昇華させるの一番好きです。 ぼやきシリーズおかわり!!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ