命の実(9)3①
3①
「うわっ。本当に湿ってる」
恐る恐る犬の鼻先を触り、友理ちゃんは声を上げた。開ききった瞳は、いつものように少し潤んでいた。
「そんなことも知らなかったの。元気な犬は、みんな鼻が湿ってるんだよ。乾いてたら病気なんだよ」
わたしが得意満面そう言ったとき、後ろから声がした。
「ひかりだって、知らなかったくせに」
東君が、わたしを見下ろすように立っていた。子どものころのダイちゃんじゃない。中学生の東君だ。その口調はわたしを非難し、その目はわたしを威圧した。
「知ったかぶりね。ホント、嫌な子」
彼の胸に体を預けるようにして、美波さんが笑う。勝ち誇ったその笑みには、敵意があった。
「ひかりって、昔からシッタカだったよね」
振り向くと、友理ちゃんも中学生になっていた。その表情は冷たく、眼差しには軽蔑の色が浮かんでいた。
「違う。わたし、シッタカなんかじゃない」
自分の叫び声で目が覚めた。
目の前で二つの丸い穴が、驚いたように開き、また閉じた。
「な……」
はっきり目を開けて、それがラムダの鼻の穴だと分かった。
ラムダは、柔らかな胴体をひかりにぴったりくっつけて温めてくれていた。しかも風上に座り、ひかりが砂に埋もれるのを防いでくれていた。そうして、朝が来たから顔を舐めて起こしてくれたのだ。
「おまえ、本当に利口なんだねぇ」
昨日も感心したが、今日は一層そう思った。
ラムダはうれしそうに鼻を鳴らすと、擦り寄ってきた。
猫みたいだ。
太陽はまだ姿を見せていなかったが、地平線は赤く染まり始めていた。
日が昇る前に出発して、少しでも涼しいうちに距離を稼ごう。
少しだけ水を飲むと、ウーンと伸びをした。体の節々が痛い。砂の上に寝たせいか。それとも、昨日の落馬(?)のせいか。おそらく両方だろう。
ラムダにまたがって歩を進める。その背中で考える。
変な夢だった。
たぶん、ラムダのベチョベチョした舌や湿った息が見せた夢だろう。
あの犬は、エルだった。アルファベットの『L』。
三人で、近所の空き地でこっそり飼っていた犬だ。
三年生の初夏だった。ダイちゃんが、真っ白で、ふわふわの毛玉のような雑種犬を拾ってきたのは。鼻先は濡れていたが、長い毛を指ですくと、骨に触れるほどやせていた。
ダイちゃんが「名前を決めよう」と言ったとき、わたしはカッコイイ英語の名前にしたかった。そして、マンガでイニシャルという言葉を知ったばかりだった。
それで、提案した。
「Hにしようよ。ほら、ダイちゃんは東、友理ちゃんは本田、わたしはひかりでみんなイニシャルに『H』がついてるから」
「それじゃ、ただのスケベ犬だ」
「私も、ちょっと嫌かな」
猛反対で却下され、みんなでアルファベットの言い合いをした。
そして、ダイちゃんが「L」と言ったとき、犬が「ワン」と応えた。
それで、「エル」になった。
今思うと、かなりいいかげんだ。でも、三人は真剣だった。
エルは、わたし達の後をどこへでもついてきた。尻尾を振って足下にじゃれついてくる。あんまりまとわりつくから、歩けないほどだった。可愛い。でも連れて帰れない。
ダンボール箱をガムテープで張り合わせて小屋を作った。
空き地の隅には大きな金柑の木があって、その裏に隠すように小屋を据えた。
金色の実が鈴なりで、わたしとダイちゃんは作業の合間にそれをむしった。甘い皮をかじって種は吐き出した。でも友理ちゃんは酸っぱいのを嫌がって、一つでやめてしまった。
帰る前にエルの首にひもをつけ、木につなぎとめた。クーンという甘えた声が、寂しそうだった。
次の日から、学校の机の中にビニール袋を隠し、給食のパンをちぎってはこっそり放り込んだ。それをもって駆けて行くと、エルは小屋から飛び出してきて尻尾を振った。
けれど、四日目の帰り道、わたし達を待っていたのは、空き地の持ち主だった。
それから、お決まりの説教をされた。
彼の言うことは百も承知で、下を向いて聞いている振りをした。知りたかったのは、エルの行方だけだった。でも、それも本当は見当がついていた。
小屋は撤去されていたが、エルをつないでいたひもは、まだあった。それがよけいに哀しかった。
つないでいなければ逃げられたに違いないから。
肩を落として家に帰る、何度繰り返したことだろう。
いつしかわたしは、飼えない動物に手を出すことをやめていた。
でも、ダイちゃんは、「獣医になって、動物をいっぱい助ける」と卒業文集に書いていたから、今も捨てられた動物を見捨てることができずにいるのだろう。
それにしても、
「シッタカかぁ」
『シッタカ』というのは、『知ったかぶり』のことで、高学年の頃、そう言っていじめられていた男の子がいたのだ。
犬の鼻先が濡れていることを、実は、あの日初めて知った。しかし、友理に差をつけたくて知ったかぶりをした。それなのに、友理は疑いもせず、尊敬の眼で見てくれた。
後ろめたくなったわたしは、二度とシッタカにはなるまいと反省した。
それからは、東君が何か言うと、必ず図書館で調べるようにした。おかげで、虫やらトカゲやら恐竜やら、普通の女の子なら見向きもしない本ばかり読む羽目になってしまった。
母は眉をひそめたが、高校で生物を教えている父は喜んでいた風だった。
そして、今のわたしがある。
ということは、わたしは、東君のために本を読み、冒険を繰り返してきた?
改めて、自分の健気さに感心。でも、
「虚しい」
また、ため息がこぼれた。それを消そうと、風が吹いた。
太陽が昇り始め、背中が少しずつ温まってくる。
「少し休もうか」
声をかけると、ラムダは嫌だというように足を速めた。
「ダメ。休むの」
しかし、ラムダは言うことを聞かない。こちらの言葉が分かると思ったのは、やはり、ただの思い込みだったのだ。
(まったく、獣の分際で)
ひかりにも意地がある。こうなったら実力行使あるのみ。
背中に両手を突っ張ると、右足を越えて砂に飛び下りた。弾みでしりもちをついたが、やわらかいから平気だ。
ラムダは驚いたようにいななくと、だだっこのように足踏みをした。
「言うことを聞かないからだぞ」
ひかりはぷいっと横を向くと、ストレッチをした。ブーツの履き心地は悪くなかったが、ジーンズを挟んでいるため、どうも窮屈だ。
「だいたい、沙漠でブーツなんておかしいよね。サンダルなら分かるけど」
ひかりは砂の上に座りこむと、ひもを解いた。素足になると、やはり、砂はまろやかで心地良かった。ふふっと笑いながら、二、三歩足を運ぶ。ずっしりとした重みも、少しの間なら楽しいだろう。砂が熱くなるまで、このまま歩いてみようかな。
右手で手綱を取り、ブーツを反対側の手にぶら下げた。ラムダは、それが気に食わないように、一層鼻を鳴らした。
「いいじゃない。この方がおまえだって楽でしょう」
しかし、ラムダは歯をむき出して、猫が怒ったときのように息を吐いた。ひかりを背に乗せなければ一歩も進むまいと言うように、四本の足を踏ん張った。
「やだなあ。わがまま言うなら置いてくよ」
そう笑って、手綱を放すとダンスステップを踏むように、砂の上を弾んで見せた。
突然、砂からベージュの紐が飛び出してきた。「えっ」と立ち止まった瞬間、ラムダがひかりの襟首をくわえ振り回した。左足、ふくらはぎに紐がぶら下がっている。
何が起こったのか全く理解できず、ラムダの口からぶら下がったまま呆然とそれを見つめた。と、同じように飛び出してきた紐が、今度は右足のかかとに飛びついた。瞬間、針で突いたような痛みが全身をつらぬいた。
(蛇?)
体が左右に揺れるたびに、二本の紐は空中で円を描く。それを目印に、砂の中から紐のようなものが次々飛び出してくる。そいつらは、ひかりの体をかすめてぱたぱたと地に落ちる。しわくちゃのビラビラした体が、砂に引っ込んではまた飛び出してくる。
「ひぃぃぃぃー」
ありったけの腹筋を使って、脚を引き上げる。同時に、両足をばたつかせたが、そいつらははがれなかった。
かかとのビラビラはしわが伸び、徐々に赤くなっていく。それにつれ、体の力が抜けていく。
襲い掛かる攻撃から逃れるため、ラムダは走り出した。それでも、ビラビラははがれない。
もはや。足を上げる力も出ない。けれど、足を下ろせばビラビラの餌食だ。
でも、もう、だめ。
だんだん意識が遠のいていく。