命の実(7)2①
2①
ふるるるる、ふるるるるる……。
不思議な呼び声で、ひかりは目を覚ました。
体を起こしぼんやりと辺りを見回すうちに、自分がどこにいるのか思い出してきた。
そう、ここはィアーケス・オニーシャ。ドゥニックの家のテラス。
夕食の片付けがすんだ絨毯の上に、シーツを被ってごろ寝した。
天井代わりの棚を覆いつくすのはウォドーブ。甘い実がなって、お酒やジュースの材料になる。
葉の透き間から漏れる月の光がまぶしくて、疲れていたのになかなか眠れなかった。
これからのことを考えて憂鬱だったのもあるけど……。
また、ふるるるる、ふるるるるるという声が聞こえてきた。
誘われるようにテラスを下り、外に出る。空は、夜明け前の薄い青だった。
かなり眠ったと思っていただけに、ひかりは驚いた。
昨夜はすることも無く、夕食後すぐ床についた。
寝つきが悪かったのに早く目覚めたのはそのせいだろう。
家は、大木に寄り添うように建てられていた。強い日差しを避けるためだろう。イシャシーフの家もそうだった。広がった枝葉は、まさしく「屋上屋を重ねる」だ。しかし、決して無駄ではないに違いない。
太い幹には、ぼこぼことしたこぶがある。もしかしたら、そこに水を蓄えてあるのかもしれない。ストローを突き刺して飲んでみたら、どんな味がするだろう。
自分の想像が気に入って、思わずくくっと笑い声がこぼれる。
裏に回ると家畜小屋があり、ドゥニックが獣に餌をやっていた。
「やあ、早いね。夕べはよく眠れたかい」
ひかりは、こっくりとうなずいた。
「はい、おかげさまで」
それから、小屋の中の獣を観察した。
体は、砂色の長くごわごわした毛で覆われている。そのくせ、長い足には全く毛がなく、トカゲのように硬い皮で守られている。
「これは、何という動物ですか」
「アドゥカルだよ。見るのは初めてかい」
「はい」
アドゥカルは、全部で五頭いた。乳を搾ったり毛を刈ったりする以外に、エフィルを探す人に貸し出したりするらしい。
「あそこの門をぬけるとオアシスがあるから、顔を洗っておいで」
オアシスは、思ったほども広くなく、けれど、澄んだ青い水をなみなみとたたえていた。
周りには木々が茂り、その陰を選んで家が建っている。
洗い場は、桟橋の横にあった。
ひかりは板を渡ると、据え付けられた桶に水を汲んだ。手を洗い、口をすすぎ、最後に顔を洗う。指紋の中にまで入り込んでいた細かい砂が、水を砂色に染めていく。その気持ちよさに、ほーと息をつく。
桶の前に座り込むと、しばらく手を浸してその冷たさを味わった。指先は魚になったように感触を楽しみ、水から出たがらなかった。名残惜しさを振り切って、立つ。
桶の水をオアシスに戻そうとして、止めた。何となく、汚すのがためらわれた。といって、捨てるのも忍びない。せっかくの水だ。
ひかりは、真奈美がよくしていたように、手近な木の根元にそれをかけた。
それから少し歩いてみた。
道の両側は、果樹園が続いている。椰子の木だろうか。丈高い木々の陰に、無花果やオレンジによく似た木が植えられている。その下には高く詰まれたうねが続き、スイカやメロンのようなものが植えられている。二重、三重にも陰を作り植物を守るその知恵に、自分の置かれている境遇も忘れ、見入っていた。
しばらく歩くと、集落を囲むレンガづくりの塀と防砂林が見えてきた。
そこに、昨日入ってきた門があった。
門には、横木を渡すだけの閂がついていたが、既に棒ははずされていた。
そっと押すと、音を立てて開く。その向こうは、沙漠だ。
そこに、踏み出す。
これからどうすればいいのだろう。
ぼんやりと地平線に目をやる。
どこまでも続く砂の世界。帰る方法は分からない。
ならば、このままここに留まるか。
しかしそれは、刻々と石になっていくイラキーフの最期を見届けるということだ。
耐えられるだろうか。
ため息をつき、視線を落とす。
その目の前で、砂がゆるゆると同心円を描き始めた。
「?」
砂は、ゆっくりと形を変えていく。
アリ地獄のようにすり鉢形になったかと思うと、中心が盛り上がり、筍が頭を出すように丸いものが現れる。それは、紛れもなくバグだった。
ひかりは一瞬息を止めたが、すぐ怒鳴り声を上げた。
「ちょっと、あんた。どーいうつもり。元の世界に帰してよ」
バグを捕まえようと右腕を伸ばす。
しかし、その姿は吸い込まれるように砂と同化した。と、左側から首を出す。
「本当に戻りたいときがきたらね」
「今、戻りたいのよ」
今度は、思い切り蹴りを入れた。が、それは空振った。
はずみで、尻餅をつく。その鼻先、五十センチほどのところに首が出た。
「本当に、戻りたいの」
「そう、戻りたいの」
バグの細い目が、もっと細く横に伸びた。口元が、微かに笑っている。
「じゃあ、イラキーフはどうするのかなぁ?」
心底、意地が悪い。
「どうしようもないじゃない」
「確かにね。おまえが食べてしまったから、吐き出したって戻らない」
ひかりは、座ったまま拳を振り上げた。が、間に合うはずがない。
叩きつけた拳は砂にめり込み、代わりにほこりが舞い上がる。
少し先に、バグの頭がある。また、拳を振るう。今度は右だ。いや、左だ。
そのたびに砂煙がたち、せっかく洗った口の中がざらざらする。
疲れた犬のように這いつくばり、あえぐように叫んだ。
「どうしろっていうのよ」
顔の下に、バグが頭を出した。
クルルルとプロペラが回るような笑い声が、のどの奥で響いている。
「それは、おまえが考えることだ」
そうして、出て来たときと同じようにゆっくりと、波紋を描きながら砂に融けていった。
本当に、何もできないのだろうか。
できることがあるのだろうか。
ひかりは、よろよろと立ち上がった。服のほこりを払いもせず、下を向いたまま垣根をくぐった。
小山のような潅木の茂みの傍を通ると、つんと鼻をつく匂いが迫ってきた。
「パクスだ」
誰にともなくつぶやく。
カイヅカイブキのような細い緑の葉の上に、雪の粉を散らしたように花が咲いている。小さく白い十字の花が、うなずくように揺れていて、黙ってひかりを見つめている。
考えるまでもなく、しなくてはならないことは分かっていた。
する勇気がなかっただけだ。
重い足を引きずって、イシャシーフの家の扉を叩く。
昨夜と同じように、イマナームが顔を出す。しかしその顔は、昨夜よりももっと疲れていた。げっそりと頬がこけ、目の下には隈があった。肩を落とし、背中も丸まって、一晩で十は老けたように見えた。
「ああ、あんたかい」
憎しみと憐れみの混じったような、何ともいえない表情と口調がやるせなかった。
「まだ生きてたのか」
後から、イシャシーフも姿を見せた。こちらは明らかに憎しみだけだった。
ひかりはぐっと息を呑むと、はっきりとあごを動かした。
「わたし、エフィルの実を探してきます」
二人は、驚いたように顔を見合わせた。それから、ひかりの方を見た。
「どこを探すっていうんだ。自分の言ってることの意味が分かってないだろう」
食ってかかるような強い口調に、イマナームも同意した。
「エフィルは沙漠にしか生えないのよ。これは、大昔から、魔女との取り決めなの」
「どこにあるかも分からない、探すことから始めるんだ」
「それから、育てるのよ」
「毎日、朝と夕に水をやらなければいけない。それも、半年」
「半年続けて、やっと実ができるのよ。でも、それが食べられるようになるのは、まだまだ三か月先」
二人は、交互にそう言った。それは、ひかりに教えているというよりは、自分達に言い聞かせているように見えた。
「その作業がどれだけ大変か、分かるか?
おれ達は、たまたま家の近くで見つけることができたから、二人で交替して水遣りをした。しかし、中には、遠く離れた土地で、一人で育てている人もいるんだ。水辺に近いところで見つけられればいいが、そうでなけりゃ悲惨だ。一日が水汲みと水遣りだけで終っちまう。他のことなんか何もできない」
「それに、たとえ、今日、新しい木が見つかっても、もう間に合わないの」
イシャシーフは息子の部屋を振り返ったあと、声をひそめてしぼり出した。
「イラキーフに残された時間は、あと二十日もない」
「えっ」
ひかりがこぼした音に、返事はしばらくなかった。
どんよりした空気に、もっとよどんだ息が吐き出される。
「イシュールシュにかかると、残された時間は一年だ。だが、エフィルは、食べられるようになるまで九か月かかる。つまり、分かるか。エフィルを探す時間は、三か月しかないんだ。そしておれは、見つけるのに二カ月と十日使っちまった」
ひかりは、ぐっと両手を握り締めた。体が引き締まる。
「それでも、わたし、行きます。もしかしたら、誰のものでもない実があるかもしれないから」
ひかりとイシャシーフは、にらみ合った。
「それは、おまえの自己満足だ。謝ればすむと思っている、自分勝手な考えだ」
ナイフのような言葉だった。切り開かれた心は、流す血もなく、戸惑い震えていた。
「それでも……」
イシャシーフは、フンと鼻を鳴らした。
「おまえがバグの裁きを受けている身でなかったら、殺してやりたいところだ。だが、そうもできない。だから勝手にするがいい」
最後の言葉を投げつけると、イシャシーフは背を向けた。