命の実(44)19②
19②
ひかりは、一時手を放した。
美波の実をもぐ。
美波の実をもぐ、つまり、美波を殺す。
果たして、美波が死ねば、東君は自分のものになるだろうか。
なるはずがない。それは分かっている。
いや、これは復讐だ。
東君をわたしから奪い、友理との仲を引き裂いた。
その償いに、命を貰っても当然じゃないだろうか。
エフィルの香りよりも甘いささやきが、脳の片隅から広がっていく。
それは、恐ろしい誘惑だった。
落ち着いて考えよう。それがどういうことか、もう一度考えよう。
実をもぐと、美波は死ぬ。東君は悲しむ。わたしを好きになってくれるかどうかは分からない。でも、可能性はないともいえない。イラキーフは助かる。わたしは元の世界へ戻る。美波はいない。わたしは苦しいだろうか。
彼女がいなくても、たぶん平気だ。もともといなかった人だし。それに、きっと、友理と仲直りできる。
この実をもごう。
強く握り締め、手首をひねるだけでいい。
心を決めた後、再度実に触れた。美波の思いが、体中を駆け巡る。
「ひかりがイッチを好きだって聞いて、どうして良いか分からなかった。イッチは私のことを好きだって言ってくれるけど、ひかりの話になったらいつも生き生きしてて……。ちょっと意地悪しただけなのに、いなくなるなんて、卑怯だ。イッチもひかりの心配ばかりして、私だって心配したいのに、くやしいが先に立つ。私、どうすればよかったんだろう」
驚きのあまり、指先が離れた。
美波が、自分に嫉妬しているなんて、考えたこともなかった。
彼女の方がずっと美人で、人付き合いもよく、何でもできた。いつも自信にあふれ、みんなを引っ張っていく存在だった。
それに比べ、自分は後ろをついていくだけのちっぽけな人間だ。何の能力もない。
それなのに、東君がわたしの話を楽しそうにしたというそれだけで、彼女の心は揺れるのだ。嘘をついて、噂を流して、人を陥れようとするほど。
信じられない……。
ふと、思い返す。自分も同じだと。
わたしだって、自分を正当化するために、親には、彼女に騙されたような言い方をした。
結果、両親は悪いのは彼女だと信じ込んだ。クラスのみんなが、悪いのはわたしだと信じたように……。
彼女のしたことと自分のしたことと、どんな違いがあるだろう。
それまで抱いていた美波への憧れや憎しみが、潮が引くように薄れていく。
それに、イリューやアータガーンと知り合えた今は、東君のことはそれほど重要でもなくなっていた。
もちろん、今でも彼が好きだ。でも、もっと大切なことがたくさんあることに気がついた。
思い込みが強すぎて見えていなかったもの。
夢や理想という花を咲かせるためには、しっかりとした根や枝葉が必要だということ。そして、それを育むのが、さまざまな人との交わりや会話なのだ。自分ひとり空想の世界で遊んでいても始まらない。
この実は取れない。
ひかりは首を振ると、隣の木に触れた。
瞬間、身を翻した。
「ひかり」
そう発した声は、確かに、友理のものだった。
ひかりは、その木をじっと見つめた。
丈高く細い幹は、たくさんの細い枝を張っている。そのうちの一つに、大きな実がぶら下がっている。今にも折れるのではないかと心配になるほど、枝がしなっている。
「友理?」
呼びかけたが、もちろん返事はない。
聞き違いでないなら、友理はひかりのことを考えてくれていた。
どんなふうに? 好意をもって、それとも悪意を秘めて?
確かめるには、もう一度触れればよい。
けれど、それは耐えようもなく恐ろしいことだった。
もし、彼女がわたしのことを悪く思っていたら……。
そう思うだけで、居ても立ってもいられなかった。美波の木は、ためらいもなく握れたのに。友理の木にはできなかった。
両手のひらで包むように幹を取り囲む。けれど、閉じることはできない。
魔法の力で人の心を読んだため人間関係が崩れる、そんな話はいくつか読んだ。
物語はいつもうまく収まるけど、現実はどうだろう。
友理の本音を盗み見て、今まで通りでいられるだろうか。
木を見つめ、考える。
ようやく決心がつくと、首を横に振り、木に向かって笑いかけた。
「友理。わたし、きっと戻るから」
そう、わたしは何時だって、友理のところへ戻って行った。東君じゃなくて。
友理の木に背中を向け、次の木に向かう。
けれど、もう触れることができなかった。
この木もあの木もその木も、みんな生きている。
その心を読むことも、自分の罪を肩代わりさせることも、どちらもできない。
どちらも、更に罪を重ねるだけの行為でしかない。
振り返ったすぐ向こうに、魔女は立っていた。
ずいぶん歩いた気がしたのに、五〇メートルも離れていない。
そして、行く手には、はるかに広がる大地と木々の群れが待っている。
しかし、この広い平原に生える幾億とも知れない木々の、どれ一つとて自分のものではないのだ。他人の心や命を自由にする権利など、誰が持っているというのだ。
ひかりは、肩を落とすと来た道を引き返した。
足を引きずるようにして、とりあえず歩く。
魔女が待っている。その隣には、真奈美の木がある。優しくしなやかな枝が、ひかりの心を知ってなお、おいでおいでと招いてくれる。
熱に浮かされた病人のように、ふらふらと近づく。その前で、足を止める。
(結局、この実をもぐしかないのだろうか)
手を伸ばす。指が震え、目まいがした。足元がふらつき、隣の小さな木にもたれるようにしゃがみこんだ。背中から、その木の声がなだれ込んできた。
「お母さんなら、私の代わりに死んでくれるだろう。さっきだって、代わってやりたいって言ってたじゃない。他に方法はないし、仕方ないよね」
ひかりは体を離し、振り返った。
小さなその木は枝も葉も少なく、そのくせ一人前に実をつけていた。
すぐ隣の大きな木に寄りかかるように生えている様子は、人に頼らずには生きていけない持ち主の在り方そのままだった。
茶色の実が、ひかりが離れた反動で、嘲笑うように揺れている。
けれど、ひかりは笑えなかった。
自分の考えを、外から客観的に見る。こんな恥ずかしいことはない。
それは、自分で思っていたよりはるかに、自分勝手で甘えたものだった。
小さく揺れるエフィルを見つめる。そっと手を伸ばして、指先でつつく。思い切って握ると、力任せにもぎ取った。
痛みは、なかった。ただ、胸の奥でプチッと小さな音がして、何かがちぎれるのが分かった。それが、消えていく。その喪失感。
(でも、まだ生きている。死ぬまでに、イラキーフに届けなきゃ)
実は、指で割られるまで腐ることなく長持ちすると、イマニームは言っていた。だから、おそらく、実が食べられたときに、自分は死ぬのだろう。
顔を上げると、魔女が自分を見ていた。
その表情は傷ついた鳥のように悲しそうで、けれどその目は誇りに満ちていた。
(あれが、今のわたしの気持ち)
魔女は、静かに口を開いた。
「あるべきものは、あるべき場所へ」
ひかりは、自分の決断を誉められたような気がして、思わず微笑んだ。
応じて、魔女の顔に笑みが広がった。それは、教会の壁画に描かれたマリアのように、慈愛に満ちた表情だった。
(わたしは、正しい選択をした)
ひかりは、実を抱えると走った。その先には、ィアークが翼をたたんでくつろいでいる。
その背に飛び乗る。紐をくくりながら叫ぶ。
「お願い。飛んで」
ィアークが、ゆっくり振り返った。細い目が、鋭く光る。
「お願い。飛んで。イラキーフの家の近くまで。まだあなたの飛ぶ時間じゃないのは知ってるし、今日あなたの飛ぶコースから外れてることも知ってる。でも、もう時間がないの。あなたしかいないの」
静かに、翼が広げられた。ひかりは、ホッとして、その背に顔をうずめた。
バシッと大きな風音がして、体が舞い上がった。




