命の実(43)19①
19①
美しい音楽が聞こえる。細かいリズムを刻んでいる。
イリューだろうか。いや、違う。あれはトゥールの音じゃない。
じゃあ、誰が演奏しているのだろう。
ひかりは、目を開けて天井を見つめた。木の葉の模様の天井。いや、本物の木の葉だ。その透き間から、太陽がちらちらと、ダイヤのような光を放っている。
(そうだ、魔女の家だ)
久しぶりに柔らかい布団に包まって眠ったため、疲れはすっかり取れていた。
うーんと伸びをすると、おなかがぐぅーと鳴った。慌てて押さえると、誰も聞いていないか辺りを見回した。そして、はっと気づいた。
「雨?」
確かに雨が降っていた。
霧のような細かい雨粒が、屋根を形作る木の葉に当たり、躍って、跳ねて、こぼれていく。
ひかりを起こした音楽の正体だ。この世界に来て、二度目の雨だ。
濡れるのも構わず、外に出た。
エフィルの木々は、恵みの雨に体を震わせ、喜ぶように枝を伸ばし葉を広げている。
雨を降らせている雲は、手を伸ばせばとどくほどの高さにあった。そして、少しずつ遠くに移動していく。まるで、果樹園に水をやるスプリンクラーのよう……。
そこで気がついた。
魔女が、ステージの上で、オーケストラの指揮者のように杖を振るっている。それに合わせ、雲が遠ざかっていく。あとには、朝日を浴びてきらめく水の粒だけが残っていた。
完全に雨が見えなくなったとき、魔女は杖を下ろした。
「よく眠れましたか」
後ろを向いたままの問いかけに、ひかりは素直に「はい」と答えた。
「エフィルは、一日に二度水をやらねば死んでいきます」
確かに、これだけのエフィルに水をやるには、魔法でも使わないと無理だろう。
「全部、一人で世話してるんですか」
「私がするのは水遣りだけです。手入れと収穫は、バグたちがします」
「バグは、全部で何匹いるの」
「エフィルの数だけ」
ぞっとした。
振り返った魔女は、怖いものを見たように体を震わせている。今のひかりの気持ちに共鳴したのだろう。これもまた、うんざりだった。早く終わらせて帰りたい。
「それで、わたしがもらっていいエフィルはどこにあるんですか」
「そうですね。案内しましょう」
魔女は指を丸めると口にくわえ、少年のように、ぴーっと鳴らした。
ィアークが飛んでくる。地面に降り立つと、姿勢を低くして、ひかりが乗りやすいようにしてくれた。昨日のようにまたがると、首に巻きつけたままのひもを体に結びなおした。
「行き先は、ィアークが知っています」
「ィアーサは乗らないのですか」
「私は、先に行って待っています」
また、訳が分からない。
でも、もう、どうでもいいや。
その気持ちを察したように、ィアークが舞い上がった。
翼を震わせて、丘を越える。また、新しい丘が見える。それも飛び越す。
どこもかしこも、エフィルの森だ。
三つの丘を越え、ひときわ大きな森が見えてきた。中ほどにぽっかりあいた穴のような広場がある。そこに降りる。ひかりはひもを解くと、背中を滑り降りた。
魔女は、本当に先回りしていた。
ひかりをみると両手を上げ、オペラ歌手のように声を張り上げた。
「さあ、どれでも良い。一つだけお取りなさい」
「どれでも、いいの」
「そう、どれでも。おまえがこれだと思う実を、一つだけ」
どれをとっても良いと言われ、逆にためらった。
息を止めて周りを見回す。無数のエフィルの群れ。木々はどれも一つずつ茶色の実をつけ、そのどれもが、あの桃のような芳しい香りをたたえている。
この中から、たった一つを選ぶのだ。どの実でも、はたして同じ効果があるのだろうか。もし、間違った実を選んで、病気が治らなかったら……。
「効き目はどれでも同じです。あなたの気持ち次第です」
そう言われても、決めるのは難しい。
何度も首を回して、木々を見比べる。
その中に一本、ひかりを惹きつけて放さない木があった。
懐かしいような優しさをたたえ、揺れる枝葉が招いている。芳しい香りは声となり、「こちらにいらっしゃい」と呼びかけている。
誘われるまま、ふらふらと近寄った。薄茶色の幹が、全てを許してくれるようで、手を伸ばした。
中指の先が実に触れた瞬間、電流を通されたように体中が震えた。
「お母さん」
懐かしい真奈美の声が、指先を通して心に飛び込んできた。
その声を発しているのは、紛れもなく、エフィルの実だった。
ひかりは、魔女を振り返った。
「声が聞こえる」
「それは、その命の持ち主が、今考えていることです。大地を通して響いてくるのです」
「前は、聞こえなかったのに」
「イラキーフの実を食べたときのことですね。でも、それは当然なのです。あの実を食べたから、この世界の言葉が分かるようになったのですから。食べる前には聞こえるはずがないのです」
「おかしいとは思わなかったのかい」
土の中から、バグ・マが顔を出していた。
「見知らぬ世界で言葉が通じたり文字が読めたり、おかしいと思わなかったのかい」
ひかりは固まった。
不思議だと思わなかったわけではない。が、それがエフィルのせいだとは思わなかった。
「まったく、驚くほどの考えなしだねぇ」
皮肉を帯びたその口調に、頬がかあっと熱くなるのを抑えられなかった。
唇を引き締め、背を向ける。目の前には、母の木があった。
そっと、真奈美の木に触れる。真奈美の思考が、体の中に流れ込んでくる。
「ひかりはどこへ行ったのだろう。もう三週間にもなるのに、何の連絡もない。家出だろうか。スマホを返してあげなかったから……。でも、そんなぐらいで家出する子じゃない。もっと頑固だ。草引きをすると言ったら続けるはず。
じゃあ、やっぱり誘拐? それなら犯人から何か連絡があるはず。でも、目的がお金じゃなかったら……。ああ、どうしてこんなことになってしまったの。無事でいるの。ちゃんと食べてるの。食べ物をもらえず、病気になってるんじゃないの。暴力を振るわれたり暴行されたりしてたら……。ああ、できるなら、代わってやりたい」
自然に涙があふれ、指先が実から離れた。
これは、取れない。母を殺すことになる。
母を殺す。
そうなんだ。わたしがこれからしようとしていることは、殺人なんだ。
さっきまで実に触れていた指が震えてきた。震えが全身に広がっていく。目まいがする。気持ちが悪くて、立っていられない。ぺたんとその場に座り込むと、情けなく口を開けたまま木々を見上げた。
見渡す限りの大地に生えたエフィルの木。そのどれもが、一つだけ実を抱えている。それらは、皆、元の世界に住む人の命なのだ。
「取れない」
ひかりは、ぽつっとつぶやいた。
「選べないよ」
振り返った魔女も、悲しそうに眉を寄せていた。
「イラキーフは、もう明日には死んでしまいます。このまま元の世界へ帰ってしまえばどうですか。私が帰してあげますよ」
そうして、イラキーフを見殺しにした思い出を抱えたまま生きろというのか。それもまた、吐き気がする。
(探すんだ。時間はまだある)
きっと、あるはずだ。もぎ取っても、誰も困らない実が……。
ぎゅっと拳を握りなおすと、思い切って立ち上がった。
それから、片端から木の幹を握ってみた。
最初の木は、ひかりの父親だった。
新学期が始まった忙しい時期なのに、学校を休んで警察にいた。どうすればひかりを見つけられるのか、その方法を考えていた。ポスターを作って貼る、インターネットで呼びかける、その手順を話し合っていた。
これもダメだ。
次の木は、近所のおばさんだった。小さな子どもがいる。その子のことを考えていた。
これもダメだ。
その次は、ひかりの知らないおばあさんだった。遠くに嫁いだ娘さんのことを考えていた。
これもダメだ。
その次は、小学生の子どもだった。大きくなったら何になろうかと考えていた。
これもダメだ。
「ダメだ、ダメだ、ダメだ、全部ダメだ」
知らぬ間に、声を上げて泣きわめいていた。
どんな実なら、取ってもかまわないのだろう。そんな実は、あるのだろうか。
犯罪者だろうか。もうすぐ死にゆく人だろうか。そういう人の命なら、奪ってもよいのだろうか。
自分の罪を償うために他人の命を奪うということは、許される行為なのだろうか。
その答えを探すために、ひかりは木々に触れて回った。
幾本目だろう、美しいなめらかな幹を、触れたとたん握り締めていた。
「美波さん」
美波もひかりのことを考えていた。
「ひかりは、どこへ行ってしまったんだろう。あんなことがあったから、私達と一緒に新学期を迎えたくなかったのかもしれない。本田さんのことを悪く言ったり、永田君との噂をばらまいたりしなければ良かった……。今更遅いけど」
瞬間、この実をもごうと思った。




