命の実(42)18④
18④
誘惑を紛らすため、皮袋から最後の食料を取り出すと、かじりついた。
ほんの少しだけ食いちぎり、スルメかチューインガムをかむように、きちきちと繰り返しあごを動かす。ねっとりとした、ドライフルーツの果肉が歯にへばりつく。それを流そうと、唾液が口を湿らせる。
生きている。
その感覚が、気持ちを落ち着かせた。そうすると、さっき聞いた話が思い出された。
(エフィルは命だと言っていた。ということは、今食べているエフィルも、誰かの命なんだろうか)
「そうです。誰かの命です」
静かに、けれど、はっきりとした声だった。言いながら、新しい命を割った。ひかりは、思わず眉をしかめた。
魔女も眉をしかめ、不快感を露わにした。
「私が人間の命を食べることが気に入らないのですね」
ひかりは、黙ってうなずいた。
「私が平気で命を食べていると思うのですか」
「嫌ならやめればいい」
「そうして、私に死ねと言うのですね」
「そうは言ってないけど……」
「同じことです」
ひかりは口をつぐんだ。
「私とて、食べねば生きていくことはできません。それは、あなたも同じでしょう」
「でも、わたしは人を殺さない」
「人でないものを殺します。動物も、植物も、死ぬときは悲しく苦しいのです。あなたが今食べている果実も、もとは生きていたのです。木からもぎ取られるときは、どんな悲鳴をあげたのでしょう。聞ける耳を持った人間がいないから、平気なだけではないかしら」
ぐっと、果物がのどにつっかえそうになった。アンアンと咳き込む。
どこから来たのか、バグがまた現れた。手には木の椀を持っている。
「ほら、水だよ」
見分けはつかなかったが、声でバグ・マだと分かった。
ひかりは受けとると、一口飲んだ。すーと、乾ききった体に染みていく。
「ありがとう、バグ・マ」
ひかりが落ち着いたのを見計らうように、魔女は再び口を開いた。
「いいですか、ひかり。私やバグは、この大地と一続きのもの。私たちが死ぬということは、この世界の命も終わるということ。私たちはこの世界の命を生かすために生き、そのためにこの世界の命を食べる。一つの命を育てるためにはその数万倍も、いえ、数億倍もの命が必要なのです」
やっぱり、訳が分からない。
卵が先か鶏が先か。裏も表もない、メビウスの輪のような論理に、頭が混乱する。
「命を奪われる者は、いつも悲しみます。残された者は、もっと悲しみます。
彼らの表情を見たくなくて、命を木の実に閉じ込めました。
それでも、私は大地と一続き。命を奪われる者の気持ちが、残されたものの嘆きが、大地を通して私の心に響くのです。目を閉じても耳を塞いでも、その声は直接心に聞こえ続け、幾億もの日々が経つうちに、私の心は声に同化し、今では対話する者の表情や感情が、自分のもののように思われるのです」
ひかりは、ギョッとして息を止めた。
魔女やバグが心を読んでいたのは、そういう訳だったのだ。
けれど、それでは、さっきから人をバカにしているように感じていた、魔女の表情は?
「全て、あなたの気持ちです」
それは、恐ろしく恥ずかしいことだった。
自分の心の奥底に隠しているつもりの醜い感情が、相手の表情として現れるのだ。一番見たくないものを、常に面前に晒される。
魔女から目を反らす以外に、できる抵抗はなかった。
魔女もそれきり口を閉ざし、山盛りのエフィルを食べ尽くした。捨てた皮は砂となって砕け散り、種だけが残ったざるは、また四匹のバグが現れ、静かに運び去った。
魔女は、地面に生えている柔らかな草から大きな葉を一枚抜き取ると、それで口もとをぬぐった。それから、形のよい唇を開いた。
「人間は、夕食の後、お互いの話を聞き合うそうですね。私たちも、何か話をしませんか」
ひかりは、ぷいっと顔を背けた。魔女の表情は見たくなかった。
「話すことなんか、ありません。だって、あなたはわたしの心が読めるんだから、いちいち聞く必要もないでしょう」
「じゃあ、私が何か話をしましょう。どんな話がいいですか」
その言葉には、惹きつけられずにはいられなかった。
魔女の話、だ。はるか遠い昔から生きているのだ。しかも、全ての人間の心が読めるのだ。知らないことなどないはずだ。では、わたしは何が知りたいのだろう。
「わたしは、本当のことが知りたい」魔女の目を見ないで言う。
「本当のこととは?」
「旅の間、いろんな人からいろんな話を聞いたけど、ちょっとずつ違う。だから、本当は、人間はバグに何をしたのか。どうしてイシュールシュにかかるのか。そんなことを。大昔のことを見た人はいないけど、あなたなら知ってるんでしょう」
ずっと生きているんだから。
何が正しく何が間違っているのか、何が善で何が悪か、まるっきり分からない。見る方向を変えれば絵柄が変わるだまし絵のように、結局それらは同じ物なのか。
「分かりました。真実の話をしましょう」
魔女は、ゆっくりと話し始めた。
『真実』の話
昔、大地は緑に覆われていましたが、ある時気候が激変し、沙漠になってしまいました。
食べるものがなくなり、人々は、アロットのような大型の獣はもちろん、エーンのようなちっぽけな獣まで、ありとあらゆる生き物を捕まえて食べました。そうして、バグも捕まえました。しかし、甲羅をはずすとバグは砂に戻ります。その死に方が、イシュールシュにかかった人間と同じだったので、人は、病気はバグの裁きだと思ったのです。けれど、人がイシュールシュにかかるのは、罰でも裁きでもありません。そういう運だったのです。
長い沈黙が続いた。ひかりは続きを待ったが、一向に始まる気配が無い。
「あのう、話はそれだけ?」
「そう。これで終わりです」
「はあ?」
拍子抜けした。
「本当に、それが真実なの」
「そうです」
「じゃあ、今まで聞いた話は……」
「それは、真実のモザイクです」
何となく、分かるような分からないような……。
「いいですか。真実が先にあるのです。それを手にしようと、賢者はいろいろな事象を調べ、推理し、観察し、記録し、検証します。けれど、真実の全てが分かるわけではありません。分かるのは、ほんの一部です。見つかった真実の破片を上手く繋ぎ合わせるため、賢者は考えるのです。想像力というにかわで張り合わせ、一つの作品を作るのです。作り手が違えば、絵柄も変わって当然でしょう」
「だから、国によって話が違う、と……」
魔女はうなずいた。
騙されたような気もしたが、それが本当だろうと納得することもできた。そう、アータガーンの考えは、ある意味正しかったのだ。
「さあ、もうお休みなさい。明日は大事な一日になるでしょう」
魔女はそう言うと、また、指先を動かし始めた。今度は何かを編むように。見えない棒針を動かす。編まれていくのは、草だった。柔らかな緑の絨毯が一枚できた。それを床に広げると、三度、何かを作り始めた。今度は掛け布団だ。薄い緑の袋の中に、タンポポの綿毛のようなものがつめられていく。
「ここは、地上よりもずっと冷えるのです」
魔女が出て行くと、ひかりは布団に包まった。地面から湿った土の臭いが立ち上り、鼻をくすぐる。それが気になって、しばらく眠れなかった。
なぜか、乾いた砂が恋しかった。
『沙漠も結構住みやすい』
アータガーンの声が耳の奥に甦る。彼らは、今頃何をしているだろう。
もう会うことのない人々に思いを馳せると、胸の奥がむずがゆかった。
罪には祝福を
祝福には愛を
罪を犯したる者は
その罪を償わん
罪を償いし者は
祝福を与えられん
祝福を与えられし者は
愛を得ん
その罪を恥じるなかれ
その罪を隠すなかれ
イリューの歌を、そっと口ずさむ。
ああ、メロディーが少し違う気がする。でも、思い出せない。歌詞は分かるのに。
トゥールの音が、耳の奥で響いている。
低くうねる波のように。
胎児が聞く、母の鼓動のように。
まあるくなって、赤子のようにまあるくなって、今は眠ろう……。




