命の実(4)1③
1③
どれくらい走っただろう。太陽はすっかり沈んでしまい、輝く星に負けまいと満月が昇ってきた頃、ようやく町の影が見えてきた。
その間、ひかりは何度も獣から落ちそうになった。何しろ、お尻の下はぼこんぼこんと上下に揺れるし、しがみつこうにも両手は縛られている。男がしっかり支えてくれていなかったら、確実に落馬(?)していただろう。
町は防砂林に囲まれていた。
風の力を逃がすため、緩やかな弧を描くように丈高い木が並んでいる。その根元には、透き間なくびっしりと灌木が枝を張り、ガシャガシャした黒い影を落としている。その向こうは煉瓦塀だ。
防砂林に沿ってぐるりと歩く。
風が塀に当たらない方向、生垣の切れ目に小さな門があった。
男は獣から降りると、その門を開けた。板を組み合わせて作った簡単なもので、押すとクィィーと金属のきしむ音が聞こえた。
その音に応えるように、人の声がした。
「イシャシーフかい」
掲げられた明かりが、背の高い老人を浮かび上がらせた。
「ああ、ドゥニックか。こんな時間にどこかへ行くのか」
「まさか。おまえさんを待っていたのさ。今日あたりエフィルが熟す頃だろう。イラキーフの回復を一緒に祝いたくてね」
一瞬にして、周りの空気が怒りと殺気に染まった。ひかりは背中に荒い息を感じ、二人を乗せていた獣さえ、その気配に一、二歩退いた。
(今度こそ、殺される)
恐怖に突き動かされ、ひかりは大きくもがいた。
男は慌てたように腕を差し出したが、それをすり抜け、わざと獣から落ちた。砂の大地で身をよじり、老人を見上げる。
「お願い、助けて。殺される」
ドゥニックと呼ばれた老人は、驚いたようにひかりを助け起こそうとした。それすら待ちきれず、ひかりは叫んだ。
「この人、わたしの生き血をイラキーフに飲ませるって言うんです」
老人のしわに囲まれた細い目が、大きく開かれた。戸惑ったように、ひかりとイシャシーフを交互に見つめている。
「この子は、何を言っているんだ」
イシャシーフは、いまいましげに唾を吐き捨てた。
「この小娘が、エフィルを食っちまったんだ」
「ええっ!」
ドゥニックは、もう一度ひかりの顔を見つめた。
「だって、わたし、一日中何も食べてなかったんです。飲み物もなかったし、あのままだと、干からびて死んでるところだったわ」
思い出しただけで、涙が出てきた。鼻をすすり上げ、声を張り上げた。
「あの実を食べなきゃ、死んでたわ」
「死んでりゃよかったんだ」
もっと大きな怒鳴り声が返ってきた。ひかりの胸倉をつかみ、また、揺さぶりをかける。
「いいか。おまえがエフィルを食ったから、わしの息子は死ぬんだ。息子を助けるために、それだけのためにこの一年耐えてきたのに。おまえが台無しにしたんだ」
ドゥニックが間に入ってくれなかったら、今度こそ本当に殺されていただろう。それほど、彼の怒りはすごかった。
「落ち着け。この子の話も聞こうじゃないか」
「何を聞くっていうんだ」
イシャシーフは血走った目をぎらつかせ、狂犬のように歯をむき出した。本当に噛みつかれそうで、ひかりは、ドゥニックの背後に身を隠した。
「この子は、言っていることも変だが、着ているものはもっと変じゃないか。何か事情がない限り、こんな格好で沙漠をうろつくはずがない」
言われて初めて気がついたように、イシャシーフはひかりを見た。ひかりもまた、彼と自分の服装を見比べた。
頭には白いターバン、襟なしシャツにだぶだぶのパンツ。ターバンは銅の輪で止められ、耳たぶには緑の石のピアスが光っている。
絵本やアニメで見たアラビアンナイトのようで、沙漠の生活にマッチしているのだろう。全体的にゆったりとした着こなしで、薄くて軽い布地が涼を誘う。
それに比べ、ひかりのジーンズにトレーナーは、分厚く不恰好だった。おまけに、頭にはタンクトップを被っている。この世界には似つかわしくない。それははっきりしていた。
しかし、彼の目はまだ血走っている。
「ィアーケス・オノトースの人間だろう」
「いや、わしの知る限り、ウスタトゥの向こう、海までの間に、こんな服を着る種族はいない」
「じゃあ、イーやエーンの向こうだろう。王宮辺りの道化師じゃないのか」
それから、思いついたように手を打つと、あざけるように笑った。
「王の愛人だったんじゃないか。怒りを買って、放り出されたんだろう」
ひかりは、かっとなって言い返した。
「馬鹿にしないで。わたしを放り出したのは、バグよ」
とたんに、二人は固まった。
ドゥニックの頬に緊張が走る。
イシャシーフも怒りが飛んでしまったように、目を見張り、音を立てて唾を飲み込んだ。
ひかりは意気込んだ。
「バグを知ってるのね」
二人は顔を見合わせ、それから同時にうなずいた。
「娘さん、バグに遭ったって本当かい」
「本当です。うちの庭のパンジーを食べてたんです。それで、捕まえたんです」
「捕まえた?」
「ええ。甲羅を」
「甲羅を!」
ドゥニックとイシャシーフが同時に叫び、顔を見合わせた。
それから、そろってひかりに目を向けた。それは、鬼か悪魔でも見るような、驚きと恐怖にみちた表情だった。
しばしの沈黙の後、イシャシーフが重々しく言った。
「そりゃ、裁きを受けて当然だ」
ドゥニックもゆっくりうなずいた。
「裁き?」
その問いには答えず、二人はヒソヒソ話をはじめた。
「どうやら、ィアーケス・オノトーシャラスからきたようだな」
「ああ。こちらの人間なら、バグのことを知っているはずだ」
「甲羅のこともな」
ひかりはイライラしてきた。
「一体、何の話なの」
イシャシーフは、ひかりの足もとにぺっと唾を吐いた。
「おまえなんか、沙漠に放り出されても仕方ないって話だ」
その口調が怒りからあきらめに変わったのを、ひかりは聞き逃さなかった。
何かが、彼の中で変わった。
そして、それは、「バグ」と「裁き」に関係している。
「それより、これからどうするつもりだ」
ドゥニックの声に、ひかりもイシャシーフもはっと顔を上げ見つめ合った。
「どうしようもない」
目を反らせて、イシャシーフが吐き出す。
「食っちまったものは、どうしようもない」
「イラキーフとイマナームに、どう説明する」
ドゥニックの控えめな声に、ため息が応える。
「とりあえず、家に戻ろう。もう、ユーバの出る頃だ」
そう言って、すねたように背中を向けた。
ドゥニックは黙ってひかりの両手を縛った紐を解くと、イシャシーフに並んだ。
自由になった両手はしびれていて、自分のものではないような気がした。
掌で交互にマッサージしながら二人の後をたどる。
イシャシーフは背を丸め、ドゥニックに肩を支えられるように歩いている。誰も何も言わず、葬列のような重い空気があった。
しばらく歩くと、樹木の陰に、煉瓦造りの円い家が見えてきた。裏の方から、フミーンフミーンと動物の鳴き声が聞こえてくる。
周りには幹が太く丈高い木が数本立ち並び、その下の畑と住人を昼間の太陽から守っていた。
イシャシーフは戸口には近寄らず、その一本の陰に隠れるように立ち止まると、ドゥニックを手招きした。
「家内を呼んできてくれないか」
ドゥニックは少しためらったが、扉に近づきノックした。