命の実(37)17①
17①
翌朝、ひかりはラムダの手綱をイシャギーフに渡そうとした。
「ラムダをつれて飛ぶことはできないから。もし、ロディムというオアシスに行くことがあったら、ドゥニックに返して欲しいの。靴と荷物はまだ必要だから持っていくけど、たぶんわたしのほうが先に帰るから、そう伝えておくね」
が、彼はそれを受けとらなかった。
「一緒に行くよ」
「ダメだよ。オアシスで待ってるみんなに迷惑だよ」
「大丈夫だ。我々は風の吹くまま旅をするのが慣わしだ。急ぐ必要なんかない。幾日でも待ってくれるさ」
「そうそう。どうやって飛ぶつもりかは大体予想がつくけれど、徒歩じゃあィアークに追いつけないよ」
アータガーンがにこやかに、けれど嫌みったらしく言った。
「それに、僕は、君が諦めるのを心待ちにしてるしね」
ひかりは、アータガーンをにらみつけた。
「どういうことよ、それ」
「失敗したとき行く当てはあるのかい、てことだよ。ロディムには戻れないだろう」
ぐっと息が詰まる。
「そのときは、僕と一緒に行こうよ。ひかりはとてもチャーミングだ」
口調は相変わらずだったが、瞳はとても真面目だった。胸のときめきを打ち消そうと、小さい子のようにイーと歯を出した。
「おあいにくさま。そのときは元の世界に帰ります。バグは、わたしが望めばいつでも戻してくれるって言ったから」
「残念」
アータガーンは、笑いながら後頭部を掻いた。
イリューとイシャギーフは、やれやれというように顔を見合わせ、肩をすくめた。
「冗談はさておき、食料を運ぶものは必要だ」
イリューは、言いながら荷物をまとめ始めた。
「だから、我々も一緒に行こう」
彼にまでそう言われると、ひかりもうなずかざるを得なかった。
昼寝のとき、ひかりはこっそり起き上がると、必要最小限の荷物を準備した。
食べ物を少しと、水を入れた皮袋を一つ(節約すれば二日はもつだろう)。そうして、測量器具と地図。他の者を起こさぬように、テントは畳まなかった。重いし、持っていく必要もない。できるだけ荷物は少なくしないと速く歩けない。
それに、うまくいこうがいくまいが、残された時間は、あと三日と少し。
明々後日の日没には、イラキーフは砂になる。
しかし、歩き始めたところでイシャギーフの声が追いかけてきた。
「やっぱり一人で行くんだね」
横たわるアドゥカルたちの間から、彼が姿を現した。
「わたしの責任だから」
「そう、それがいいと思う」
イシャギーフは止めなかった。一緒に行くとも言わなかった。
けれど、気配に目を覚ましたラムダが、足踏みをしてひかりの進路をさえぎった。
「ごめんね。連れて行けないんだ」
別れるのは寂しかった。けれど、一人沙漠に残していくわけにはいかない。
その鼻面を撫でながら、彼に助けられた様々な出来事に思いを馳せた。
「ラムダをお願い」
分かったと言う代わりに、イシャギーフは手綱を握り締めた。
ラムダは叱られた子供のような顔でフミーと鳴いたが、諦めたように彼に従った。
「パクスは持たなくてもいいのか」
「うん。たぶん、なくても大丈夫。バグが守ってくれるから」
ひかりは確信に近いものを持っていた。が、イシャギーフはあきれたように首を傾げて、寂しそうに微笑んだ。
ひかりは、わざと明るい口調で言った。
「あなたのおかげで、取るべき道が見つかった。ありがとう」
「そうして、イリューやアータガーンに恨まれるんだろうな」
二人の名前を聞くと、胸がチクッとした。
「イリューに伝えてよ。もしうまくいったら、わたしの歌を作ってって。魔女に会うため竜に乗った少女とか、何とか」
けれど、イシャギーフは、もう笑わなかった。
ひかりは「じゃあ」と手を振ると背中を向けた。が、再度、イシャギーフが引き止めた。
「アータガーンには、何もないのかい」
心の震えが、自分の肩を揺らすのが分かった。後ろを向かず、答える。
「アータガーンには……」
ひかりはぐっと唇を引き締めた。今ここにいるのがイシャギーフではなく彼だったら、出発できなかったかもしれない。彼のことは、思い出さないほうがいい。
「何も、ない」
そうして、歩こうとした。が、足は前に出なかった。
もう、会えない。上手くいこうが失敗しようが、わたしは自分の世界に戻る。だから、もう、二度と会えない。本当のことを伝えることもできない。
思い切って振り向くと、顔を上げようとした。けれど、涙がこぼれそうで、やっぱり足下に目を落とした。
「本当は、好きだって。一緒に行きたかったって」
イシャギーフはひかりの傍に来ると、小さくつぶやくように言った。
「きっと喜ぶよ。イリューはくやしがるだろうけど、歌でも作って耐えるだろう」
それから、手のひらでひかりの両頬を包み、そっと上を向かせた。
「バグの祝福が、汝の上にあるように」
祈りの言葉のあと、その唇が額に触れた。見えない力が、自分の中に流れ込んでくる。
その力を信じて、ひかりは一人歩き始めた。彼が教えてくれた通り、ィアークがその日通るであろうコースを。
途中、一度だけ振り返った。
もう、彼はいないだろう。そう思って。
けれど、丘の上にはイシャギーフの影と、あと二つ、背の低い影と高い影ががこちらを向いて立っていた。
(イリュー、それに、アータガーンも)
二人は、ひかりが一人で行こうとするのを知っていて、寝たふりをしていたに違いない。
手を振って応えたかった。けれど、そうすると、歩けなくなる気がした。駆け戻って、彼らと一緒に旅をしたかった。
ぐっと熱いものが込み上げてきて、堪えるためにも前を向いて歩き続けた。
時おり、地図の上に磁石をのせ、方角を確認する。イシャシーフにもらった道具が、今、役に立っている。
ひかりは、一人微笑んだ。
「問題は、山からの距離だ」
イシャギーフの言葉を繰り返す。
「山からどれだけ遠くまで飛ぶか、それは奴の気分次第だ。うんと遠く、町の近くまで飛ぶ日もあれば、山の真下に降りる日もある」
コースが分かっていても、一時間で近づける範囲にいないと意味がない。糞をするための一時間。その一時間が勝負だ。
これは、賭けだ。
勝てるだろうか。
ひかりは、自分は運の悪い人間だと思っていた。
じゃんけんゲームは、いつも一番に負けた。懸賞に当たったこともない。トリプルリーチになっても、決してビンゴにはならない。くじ運も最悪だった。
たとえば、一年生のとき、毎月くじ引きで掃除場所を決めた。八月を除く十一回のうち、実に十回も、ひかりはトイレ掃除が当たった。
「運の良し悪しなんてね、一生で帳尻が合うようになってるのよ」
そう言ったのは、母、真奈美だ。
それを、信じたい。今こそ、帳尻合わせをしてもらう時だ。
それでも、自信がない。
(とにかく、歩けるだけ歩こう)
果たして、その日のィアークは、ひかりのはるか頭上を飛び越えていった。ずっと、ずっと遠くへ。その影を追いかける。
砂の上を歩くのも随分慣れたとはいえ、走ると足をとられ、倒れそうになる。
戻ってくるィアークの影を見つけたとき、体中の力が抜けるのを感じた。思わずひざをつき、砂の上にしゃがみこむと、肩で大きな息をついた。
今日一日を、無駄に使ってしまった。
(何としても、明日はあいつを捕まえてやる)
静かに顔を上げると、歯ぎしりをしながら山に向かう黒い影をにらみつけた。
その夜、ひかりは、干し肉を噛みながら自問自答した。
とにかく、でたらめに進んでもダメだ。予想しなくちゃ。
予想? そんなことができるだろうか。
予想できるってことは、動きに規則があるってことだ。でも、あいつの動きは不規則だ。
不規則な動き。この世界に似つかわしくない。
と、ひかりはあごの動きを止めた。
(不規則な動きのものって、他になかったっけ)
目を上げる。三つ目の月、ヤーキッシュが今しも地平線に沈もうとしている。
(あいつだ)
それにしても、この世界でどうして不規則なものがあるのだろう。
ここ、ィアーケスでは、驚くほど全てが規則的に動いていく。
地図を見たとき、時計のようだと思った。しかし、今は訂正する。時計そのものだと。
それなのに、不規則なものがある。変だ。
あいつの動きには、本当に意味がないのだろうか。
この世界で、意味のない動きをするものがあるだろうか。
隠された何かが、あるのではないだろうか。
そうだ、あれは、初めてィアークを見たとき。アータガーンが言った。「ヤーキッシュ」は三つ目の月の名前以外に、「ィアークの来る月」という意味があるって。つまり、ィアークとヤーキッシュは、何か関りがあるはずだ。
でも、どんな?
情報が足りない。けれど、話をしてくれる人がいない。
人が……。
ひかりは、にやりと口の端で笑った。それから息を吸うと、大きな声を上げた。
「バーグ」
返事はない。
「いるんでしょ。分かってるんだから出てきなさいよ」
ひかりの前、少し離れたところの砂が盛り上がり、バグが顔を出した。
「やれやれ。お呼びですか」
ひかりは、もう一度にっと笑った。
「一人で寂しいの。話し相手が欲しくって」
「ハイハイ。何でも聞きますよ」
「そうじゃなくって、おまえの話が聞きたいの」
「私の」
「そうよ。おまえなら、人間も知らない話を知っているでしょう」
バグは、さあてねえと首をひねるようにした。
「で、どんな話を」
ひかりは、今しも地平線に隠れようとしている月、ヤーキッシュを指さした。
「あいつの話を……。あいつとィアークの話を」
ふふっと、バグは小さな声を立てて笑った。
「確かに、あいつのことなら、人間の知らない話を知っているかもしれない。バグは、人間よりあいつには詳しいからね」
「ゴチャゴチャ言わなくていいの。 さっさと話して」
「では、ご要望にお答えして」




