命の実(26)10②
10②
その夜、夕食の後、ひかりは話し始めた。
『失恋』の話
わたしが中学に入ってすぐのことです。
朝、学校に行くとき、猫が死んでたんです。道路を渡ろうとして車にはねられたんでしょう、歩道のすぐそばにありました。
団地のあるところはもともと山だったし、道路は新しくて、幅も広くて、車は遠慮なくスピードを出して走ります。だから、動物が死んでいるのは珍しくありません。
引っ越した頃は、可哀そうだけど気持ち悪くて、走って通り過ぎたものでした。でも、その頃はもう慣れっこになっていました。
その日も、見て見ぬふりして通り過ぎるつもりでした。
でも、わたしのすぐ前を歩いていた女の子が、近寄ってしゃがみこんだんです。それで、つられて足を止めてしまいました。
わたしと同じ制服を着ていたけど、見かけない子でした。その子はカバンを開けて中を引っかき回していましたが、いきなり振り向いて言いました。
「ねえ、紙袋か何か、持っていない?」
それが、美波さんとの出会いでした。
わたしは、「ビニール袋なら」と、カバンから引っ張り出しました。それは、急に雨が降ったりしたときのために、いつも入れたあったものです。
美波さんは、固まった血の付いた汚い猫を素手で持ち上げると、大切な物をしまうように袋に入れました。
「どうするの」と聞くと、
「学校に持ってって、花壇の隅にでも埋めてやろうと思って。この辺りって、そんな場所ないでしょ」と、当然のように答えました。
それは、確かにそうでした。山を削って平らにした田畑には家が建ち並び、道路はアスファルトで固められ、草の一本も生える隙がありません。
わたし達は、並んで学校に向かいました。でも、猫の臭いが気になって、本当はそばに寄りたくありませんでした。けれど彼女はおしゃべりで、受け答えをしているうちに、同じクラスだと分かりました。
人付き合いの下手なわたしは、同じ小学校出身でも顔と名前が一致しない子が多く、彼女も見覚えがありませんでした。
でも、美波さんは春休みに住宅に引っ越してきたばかりで、「二ノ宮さんが友だち第一号だね」と笑ってくれたので、気持ちがすっと楽になりました。
校門で立ち番をしていた先生に事情を話し、体育館の裏手の桜の木の下に埋める許可をいただきました。
わたしは、「スコップ借りてくる」と言って、彼女から離れました。臭いが嫌だったんです。
スコップと新聞紙を持って体育館の裏に回ったわたしは、思わず息を止めました。
東君がいたんです。バレー部の朝練が終わって体育館から出てきたとき、美波さんと出会ったんです。
わたし達は交代で穴を掘り、猫の死体を新聞紙に包み、そこに納めました。
「新聞紙まで持ってくるって、二ノ宮さん、よく気がつくんだね」
「アミが死んだとき、ダイちゃんが言ったんだよ。直接埋めたら可哀相だって。土に還るように紙に包もうって」
「そうだったっけ。もう忘れたなあ」
「東君と二ノ宮さんって、幼馴染なんだ」
「そう。俺もひかりも動物好きで、話が合ってんだ」
「へぇ。うらやましい」
美波さんは、本当にうらやましそうな顔をしました。本当に動物が好きだったからです。
それから、動物の話になりました。東君が獣医を目指しているというと、美波さんはトリマーになりたいんだと言いました。
でも、わたしは将来のことなんて、これっぽっちも考えたことがありませんでした。東君と同じ高校に行って、同じ大学に行きたい、その程度でした。
美波さんの家には五匹も猫がいて、東君は会いに行く約束をしました。
そのときも、何も飼っていないわたしは口をつぐんでいました。
東君も美波さんも、捨てられた動物を見かけると、すぐ餌を与えたり拾ったりして親に叱られるのだと笑いあいました。
でも、わたしは、絶対飼えないと分かっている動物には手を出しません。
そうして、初めて気がつきました。
わたしは、動物なんか好きじゃない。東君に気に入られたくて、動物が好きな振りをしていただけだって。
だから、引っ越ししても、何もペットを飼わなかったんです。お母さんが反対したからじゃない。お母さんのせいにしていただけで、本当の理由は自分にあったんです。
そのうち、美波さんが言いました。
「でも、東君って、ダイちゃんって柄じゃないなあ」
「どうして」
「ダイちゃんって、こう、がっしりした、強い男のイメージがあるじゃない」
「俺、弱そうかなあ」
「そうじゃないけど、ガキ大将って雰囲気じゃないよね。もっとスマートな………。ダイチ……、そう、イッチの方が似合ってるんじゃない」
「イッチかぁ。なんか良いなあ」
そうして、わたしの「ダイちゃん」はいなくなって、美波さんの「イッチ」になってしまったんです。
でも、わたしは、イッチなんて気障ったらしい名前は口が裂けても言いたくなくて、その日から彼は「東君」になりました。
美波さんは、その日のうちにバレー部に入部していました。男好きだっていう噂が、すぐに立ちました。でも、彼女は否定もしませんでした。
「自分の気持ちに正直に生きたいんだ、なんちゃって。そのせいで小学生のときいじめられてさ、仕返しに相手をぶん殴って怪我させちゃったんだけどね」
そう笑っていました。
憎らしいほど強い人で、東君はそんなところを好きになったのかもしれない。
そして、わたしも憧れました。
だって、わたしにはできない。自分の失敗や過ちを、そんな風に笑って人に話すなんて。わたしは隠してしまう。ばれないように誤魔化してしまう。いつも言い訳のオンパレードで、よけい惨めで恥ずかしくて。そのたびに「次こそは」って思うのに……。できないの。
だから、二人のことも、気づいていたのに知らない振りをしていた。
だって、少女漫画ではいつだって幼馴染が結ばれるから、東君の相手は自分か友理だと勝手に決めていた。でも、友理は東君のタイプじゃないし、今は美波さんと噂があっても、最後はきっとわたしのところへ戻って来るんだって、思い込んでいた。
でも、友理はもっと冷静だった。いつも本ばかり読んでいて、周りの人間からオタクのように思われてるけど、本当は、わたしよりずっとしっかり現実を見つめて、それを理解していた。ただ、わたしを失望させたくなくて、黙ってたんだ。
わたしは、そのことすら気づかなかった。
だから、友達を失って当然なんだ。
最後の言葉を、ひかりは飲み込んだ。
やっぱり、言えない。
自分がどんなに卑怯者か分かっている。でも、言えない。
言えば、この人たちは自分に愛想を尽かすだろう。それが怖い。
どうか、気づかないで下さい。どんなにわたしが醜い人間かを。
どうか、わたしを嫌いにならないで下さい。わたしを一人にしないで下さい。
どうか……。
ひかりは、祈るように下を向いた。
低い弦の響きがした。イリューのトゥールだろう。
ぱらぱらとこぼれる五つの音が、傷も痛みも醜さも、全てを包んで春まで隠しておく雪のように、ひかりの中に降り積もる。
溶けて流れる五つの音が、乾ききったこの国の空気を潤す一年ぶりの雨のように、ひかりの心に染み渡っていく。
イリューの澄んだ声が、それに重なる。
ナーキッシュはいつも私を見ている
父のように 母のように
マーキッシュはいつも私を追いかける
姉のように 弟のように
けれど ヤーキッシュは気まぐれ
いつも私を悩ませる
恋人のように 恋人のように




