命の実(2)1①
1①
あれは、たぶん小学二年生のとき。ダイちゃんが、まだ一緒だったから。
友理と三人、目をつむったまま真っ直ぐ歩けるか試そうってことになった。簡単なことに思えた。
晴れた冬の日で、人も車も何も通っていなかった。
友理は嫌がったけれど、結局、三人が横一列に広がって、目をつむって歩いた。
わたしは、一番右端だった。真っ直ぐな道で、真っ直ぐ歩いているつもりだった。それなのに、突然足の下がなくなって、二メートル下の田んぼに墜落した。
あのときの恐怖は、ジェットコースターなんか物の数じゃない。遊園地は、落ちるのが分かってて乗るんだから。
わたしは、泣いた。泣いて泣いて、泣きじゃくった。
でも、何の怪我もなかったのをいいことに、両親には話さなかった。
だって、叱られるのは、もっと怖かったから。
あのときの恐怖がよみがえって、心臓が破裂しそうなほど動き出した。
しかし、その苦痛は、たいして長くなかった。
ひかりは、すぐに大地から吐き出された。
顔に当たるのが土ではなく砂だと気づいたときには、もう、砂の上に立っていた。
ぶはーと息をすった。口の中がざらざらする。行儀が悪いと知りつつ、砂に唾を吐いた。
「何なのよー、いったい」
大声を上げたが、それを聞く人はいなかった。
なぜなら、砂しかなかったから。
あの、カメのようなバグの姿はもちろん、命あるもので動くものは見あたらなかった。ただ、砂の文様だけが、生き物のように、風の流れにうごめいていた。
「一体、どこ……」
コバルトブルーの空には、白っぽい半月が一つ、傾きかけていた。それより地平線に近いところにもう一つ、薄黄色の満月が、落っこちそうに浮かんでいた。
「月が、二つ……」
つまり、異世界!
思わず、両手で自分の体を抱え込んだ。指先にぐっと力を入れて、体の震えを止めようとした。が、ダメだった。
「バグー。出て来ーい。このバカー」
大声で呼んでも、応えはなかった。
「戻してよー、元の世界へ。返してよー」
ひとしきり悪態をついたが、動くものは相変わらず砂だけだ。恨みの声も、砂を動かす風の音に紛れてしまう。
大地に広がる細波が揺れると、ひかりの気持ちも揺れ動く。砂の流れがよどみ、山をなす。不安も山と積もっていく。乾いた砂ぼこりに、目がかすれてくる。いや、そうじゃない。涙で潤んでいるんだ。
いつの間にか、声を上げて泣きじゃくっていた。
二つの月は、お構いなしに沈んでいく。それにつれ、反対側の地平線が朱味を増し、日の出の近さを告げていた。刻々とコバルトブルーは後退し、代わりに水色が広がっていく。
とんでもない状況なのに、言葉がこぼれた。
「きれいだ」
涙が引っ込んでいく。
泣いていても現実は変わらない。行動を起こせ。
「ここにいちゃダメだ」
自分を励ますようにそう言うと、手の甲で涙を拭った。
(日が出てきたら、すぐに温度が上がってしまう。それまでに、どこか、蔭のあるところへ行かないと、干からびちゃう)
ぐるっと見回す地平には、三六〇度、砂しか見えない。右手には砂の山が、左手には砂の丘が、そして前からは絶えず砂を動かす風が吹いていた。
突風が砂を巻き上げる。目を閉じ、下を向き、腕で顔を隠す。
(風に向かって歩くのは嫌だ)
ひかりは追い風を受けて、左手斜め後に日の出を感じながら歩き出した。
それは、まったくの当てずっぽうだった。
けれど、あとから考えれば考えるほど、バグの思惑だったと思えた。なぜなら、バグはその砂漠のすべてを知っていたはずだからだ。どこに何があるかも、どれくらいの時間歩けばどこへ行くかも、そこで何が起こるかも。どちらにどれだけひかりを歩かすか、そのとき既に仕組まれていたのに違いない。
そうして、ひかりは、その罠にまんまとはまっていった。
「さばく」について調べたのは、五年生の春だった。
廊下ですれ違うとき、ダイちゃんがひかりの肩をたたいて言った。
「知ってるか。安井にサソリが来るぞ」
『安井』は隣町にあるホームセンターで、季節ごとに屋上で客寄せの催し物を開いていた。その年のゴールデンウィークには、『恐怖の生き物展』という名目で、サソリやコブラやタランチュラがやってきた。
さすがのひかりも、サソリは勘弁願いたかった。友理は、写真を見るのも嫌がった。
それでも百科事典を開いたのは、せっかくダイちゃんが声をかけてくれたのを無にしたくなかったからだ。
その頃はもう団地から引っ越し、クラスも離れ、ダイちゃんと話す機会が本当になくなっていたからだ。
年齢が二桁になったとたん、ダイちゃんは男の子としか遊ばなくなった。毎日自転車で遠乗りし、バス釣りに行ったりゲーセンに出入りしたりするようになった。
置いてきぼりにされたひかりは、友理と二人、図書館に入り浸るようになった。
友理は、ゆったりとした性格とは反対に読書スピードは速く、古典も新刊も話題の本も、大人向けの文学までどんどん読み進んだ。
一方ひかりは、気に入った本を何度も読み返すほうで、冊数は余りこなさなかった。何より、ファンタジーやコミック本の世界の登場人物になる、そんな空想に浸ることが好きだった。
サソリがきっかけで、さばくが広がっていることを知ったときもそうだった。
ひかりの引っ越し先は、アミを見つけた川の近く、あのときの工事現場だった。
山を崩し、谷を埋め、平らにならす。新しくできた広い土地に木々はなく、まばらに建った家の間を吹き抜ける風が土ぼこりを舞い上げていた。
(ここはさばくになるんだ。そしたらサソリが現れて、わたしにかみつくんだ)
真奈美に恐怖を訴えると、彼女はさばくについての本を図書館から借りてきて読んでくれた。曰く、雨の多い日本がさばくになることはない。
そのときは、強い母がいてよかったと胸をなでおろしたが、あとで思うとこっけいだった。思い込みの激しい娘を納得させるには書物が一番だと、母は気づいていたのだろう。
「さばく」という漢字が二種類あるのを知ったのも、そのときだった。
「砂漠」と、「沙漠」だ。
日本人は、「さばく」というと砂の広がる大地を想像するが、それは中国語では「沙漠」だそうで、「砂漠」は「礫」、つまり岩のかけらがごろごろした大地を指すらしい。
それでいくと、ここは間違いなく「沙漠」だった。
地平線が、一瞬キラッと光った。日の出だ。
(急がなきゃ)
日中の沙漠は、気温が五十度にも達すると聞く。食べ物どころか、一滴の水さえ持たないひかりの体が何時までもつか。
とにかく、歩くしかない。
足が砂に埋もれ、履いていたミュールが沈み込んだ。重力に逆らって引き抜いた爪先に、ミュールはなかった。両手で砂を掻き分けて引っ張り出す。右手にぶら下げ、また進む。
砂が、遠慮なく靴下に入ってくる。それが許せなくて素足になる。靴下を裏返し砂をはたくと、ジーンズのポケットに突っ込む。また、進む。
砂は、意外とまろやかだった。何万年も、いや、何億年もかけて、互いの重みで角を完全に磨りあったのだろう。靴下を履いているときはあんなに煩わしかったのに、今は痛くも痒くもなかった。逆に、沈み込んだ裏に優しく、ずっしりとした重ささえ甲に気持ちよかった。
もっとも、その感触を楽しめたのは最初だけだった。
まんべんなくかかる重力から足を抜き出すのは、恐ろしく力が要る。それを、一足ごとに繰り返すのだ。体育会系でないひかりには、拷問以外の何ものでもなかった。
それなのに、歩くしかない。
何度も砂に足をとられひざをついた。その度に起き上がることができたのは、ただ死への恐怖のためだった。
日が高くなるにつれ、砂が熱くなってくる。足の裏がやけどしそうで、靴下を履く。
直射日光が頭をじりじりと焼く。照り返しが周りの空気を加熱する。オーブンの中でローストされるチキンの気持ちが分かる。
しかたなく、トレーナーを脱ぎ、それを頭からかぶる。タンクトップ一枚で歩くのは恥ずかしかったが、誰もいないのだからと自分に言い聞かせる。
しばらくすると、今度は腕が焦げてきた。少し考えて、タンクトップをかぶり、トレーナーを着ることにした。
少しだけましになったのを確認して、また、歩く。
依然、視界には砂以外何も映らない。