命の実(19)7
7
次の日の午後のことだった。
イマニームが突然カイの腹をかかとで蹴った。カイが勢いよく走り出す。ファイもそれを追いかけて駆け出した。
「ちょっと、待って。どうしたの」
慌てて追いかけようとしたが、ラムダは走ってくれなかった。
「もー。置いてかれちゃうじゃないの」
怒って腹を蹴飛ばしたが、平然と歩いている。
諦めて彼女の行方を目で追うと、ずいぶん先でカイから飛び下りる姿が見えた。それから、小さくてよく分からないが、ファイの背から何か下ろし始めた。
一つの予感に、心臓が大きく波打った。
「まさか、エフィル……」
のりだした弾みで、ラムダから転げ落ちた。這い上がるように立ち、彼女目掛けて駆け出す。果たして、イマニームの前には、一本の枯れた棒杭が立っていた。
イマニームは、震えていた。皮袋がうまく開けられず、少し水をこぼして舌打ちした。
「一つは、エフィルのため。もう一つは、エフィルを守るバグのため」
呪文のように唱えながら、水をかける。それはたちまち砂に染み、跡形もなくなった。
乾ききっていた人がのどを潤した後ため息をつくように、棒杭の先が震えた。コトッという小さな響きを発して、そこから新芽が顔を出した。
(魔法だ。魔女の魔法だ)
不意に、イラキーフのエフィルが枯れて砂になる光景を思い出し、震えた。
「ここでお別れね」
イマニームは、この木を育てるため、できるだけ水辺に近い場所に今日からテントを張るという。
「九カ月の辛抱よ。そうしたら、彼は助かるの」
「お母さんの分は?」
恐る恐る聞いた。
「大丈夫。きっとこのすぐ近くに、そう、半日以内にたどり着ける場所に、もう一本あるはず」
「どうして分かるの」
「魔女との取り決めよ」
「水は?」
地図で見る限り、この近くにオアシスはない。いくら小さな皮袋二つ分とはいえ、一日二回。一本でも大変なのに、二本分も用意して運ばなくてはいけないのだ。
しかし、イマニームは笑った。
「大丈夫。この辺りはキャラバンのコースだって言ってたじゃない。次に出会ったキャラバンに、定期的に水を届けてくれるように頼むわ。それに、もうすぐ雨も降るし。何とかなるでしょう、きっと」
イマニームは、また笑った。希望に満ちた、力強い笑顔。
どうしてそこまで信じられるのだろう。
不思議。
その夜、ひかりは一人で薪を燃やした。パクスのはぜる音を聞きながら、干し肉と果物をかじる。きちきちと肉を噛む奥歯の音が、耳の奥でわびしく響く。久しぶりに一人で過ごす夜は、妙に落ち着かなかった。
背中をラムダに預け、その首筋をそっとなでる。応えるように、ラムダはゆっくり首を曲げ、ふるると鼻を鳴らす。
今頃家族は何をしているのだろう。きっと、心配しているだろう。
ひかりは、昔から、臆病なくせに無鉄砲なところがあった。東君と一緒に冒険するのが楽しくて、危ないことも随分した。小さい頃は誰かに自慢したくて、いつも親に報告した。けれど、それは親の心配や怒りを買うだけだと気づき、そのうち言わなくなった。
あの時もそうだった。
ひかりの住む町には、赤瀬川という川が流れている。泳いで遊べるほどきれいではないが、岩や砂利の積もった狭い川原があり、子ども達には格好の遊び場だった。
あれは、小学三年の秋だったろう。
三人で川をさかのぼっていたとき、東君が川柳の茂みの陰に、トンネルのようなものを見つけた。それは、子どもならしゃがんではいれる大きさの排水管で、コンクリートの円柱の下部には、チョロチョロと水が流れていた。
東君が、「どこに続いているか、入ってみようよ」と言い、本当に入ってしまった。
トンネルの入口は明るく、柳の風が心地良かった。
のぞいて見ると、東君のチェックのシャツが、右に左に揺れながら少しずつ遠ざかっていく。(何てことない)と、すぐ後に続いた。
後ろから、「やめようよ。臭いし、きっと汚いよ」という、半べそが聞こえた。(弱虫だなあ)と、心の中で笑いながら、東君の後を追った。
水の流れに靴をぬらさないよう、両手、両足を広げ、壁に突っ張ったまま進む。初めのうちは忍者気分で楽しかったが、すぐに腰が疲れてきた。
足を突っ張るあたりの壁には何かぬるぬるしたものがついていて、気を抜くと滑って水に落ちてしまう。広げた指先には、苔やら何やらよく分からないものが触れることがあり、そのたびに心臓が縮まった。
手元、足下ばかりが気になって、なかなか進まない。顔を上げたとき、東君が見えなくなっていた。そのとたん、動けなくなった。
前には何も見えない。真っ暗な闇だけ、いや、微かな明かりがある。トンネルはきっと曲がっているだけで、明かりを頼りに進めば行き着ける。
振り返ると、ぽっかり浮かぶ真白な円の中に、友理の影が見えた。座り込んで、少し首を傾げてひかりを見ている。影しか見えないはずなのに、心配そうな表情まで分かった。
(大丈夫。怖くない)自分に言い聞かせたあと、友理に呼びかけた。
「おいでよ、怖くないよ」
声は、トンネル内で虚ろに響いた。
友理の影は手を振ったけど、それ以上動こうとはしなかった。
口に出した言葉が力になって、もう一度進みだした。時おり振り返っては、友理の姿を確認して、また進む。振り返るたび、友理を包む白い円は小さくなった。
少し行くと、思った通り、トンネルは左にカーブしていた。これ以上進めば、友理は見えなくなるだろう。そう思ったとたん、足が動かなくなった。
東君においていかれる辛さと暗闇の怖さが釣り合ってしまって、進むことも引き返すこともできない。闇と光とどちらも見えるよう、壁に背をもたせてうずくまった。
どれくらい穴の中にこもっていただろう。入口の方から「おーい」という東君の声が聞こえた。ひかりは跳ね起きると、靴が濡れるのもかまわず声の方に向かった。
「ダイちゃん、どうして」柳をかき分けながら聞いていた。
「あのな、道の向こうの田んぼにつながってたんだ」
東君は、興奮した声で二人を案内してくれた。
竹薮をかき分けて土手をよじ登り、道路を横断すると、少し低まった土地に水田が並んでいた。道路と水田の間には、稲作の時期に使われる水路がある。トンネルは、その水を川に流すためのもので、縁にしゃがんでのぞき込むと結構深く、マンホールのようにはしごが付いていた。
普段は穴に被せられているのであろう、大きな鉄の格子網が、どういうわけかその日は外され、土手に立てかけてあった。もしそれが取り付けられていれば、東君は外に出られず、ひかりのところに戻ってくるしかなかったのだ。
けれど、無事に通り抜けた彼は、冷たく唇をとがらせた。
「どうして来なかったんだよ。最後の登りは、すっごくスリルがあったのに」
ひかりは唇をかみしめ、自分を恥じた。
あれは、わたしが東君について行くことができなかった、初めての出来事だった。
そうして、それ以後、急速にわたし達は離れていった。
改めて襲ってくる敗北感に、ため息をつく。
今の自分は、出口の見えないトンネルの中にいるのと同じだ。
この先旅を続けたからといって、果たしてエフィルが見つかるかどうかもあやしい。かといって、戻ることもできない。振り返っても誰もいない。とにかく進むしかない。
あのときは進めなかったけれど、あれから五年以上経っているのだ。わたしだって、少しは成長したはずだ。
ひかりは薪を継ぎ足し、目を閉じた。
月が、まぶたの裏まで責めてくる。
ぎゅっと閉じると、天幕を引き上げた。




