命の実(10)3②
3②
「止まれー」
突然、右前方から甲高い声が聞こえた。
了解したラムダが止まる。薄っすらと目を開け、声のした方を見る。
見知らぬ誰かが、アドゥカルに跨ったままひかりの左に回ってきた。頭を覆う白い布が、花嫁のベールのように翻った。
「じっとして!」
少女の手の中で、ナイフが光を弾いた。
次の瞬間、真っ赤なしずくが飛び散った。
同時に血の臭いが広がり、点々と砂に赤い花が咲く。
「ひぃぃぃぃー」
「大丈夫。切れたのはあなたの足じゃない」
ひいひいとあえぎながら見下ろした足には、ビラビラはもうなかった。切り落とされた体が血を噴出し、のたくり、縮れ、萎んでいくのが見えた。
しかし、頭部はかかとに吸い付いたまま血をたらしている。
「少し痛いけど、我慢して」
ひかりの右足を持ち上げると、少女は、ナイフでえぐるようにしてそいつを引き剥がした。
少しどころの痛みではなかった。
気がつくと、ひかりは絨毯の上に寝かされていた。
じんじんした痛みが、脳味噌まで響いている。傷口は包帯が巻かれ、きちんと手当てされていた。包帯には血がにじんでいたが、もう乾いてパリパリになっていた。
気づいたラムダが、首を伸ばしてきた。大きな目の中、味付け海苔を貼り付けたような黒い横長の光彩が、心配そうにひかりを見つめている。少し間の抜けたような瞳は、今まで見た誰よりも優しく温かかった。
「ごめんね。心配かけて」
鼻面を、そっと撫でる。
「危険が迫ってるって教えてくれたのに、無視して。それなのに、助けてくれてありがとう」
ふみふみと、うれしそうな鼻息が耳もとをくすぐった。
「ああ、気がついたのね」
さっきの少女が、ラムダの向こうから顔を出した。
ふわっとした艶のある黒い巻き毛は、美しい鳥の羽のように碧に濡れていた。色白で、彫りの深いはっきりとした顔立ちに、灰色の瞳は宝石のように輝いている。きりっと結ばれた口もとは、一本芯に秘めたものを感じさせた。
「あ、ありがとう。助けてくれて」
けれど、返ってきた声はきびしかった。
「どうして脱いだりしたの」
突き出された右手には、落としてきたブーツがぶら下がっている。わざわざ拾ってきてくれたのだろう。さっきの場所に戻るのは、怖くなかったのだろうか。
とがめるような口調に、声が自然と小さくなる。
「その……、砂が気持ちよさそうで……」
少女は目をむいた。灰色の瞳が、明らかに怒っていた。
「何考えてるの。ユーバに血を吸われて干からびたかったの」
「ユーバ? さっきのビラビラ?」
「決まってるじゃない。知らなかったとでも……」
そこまで言って、少女は言葉を止めた。
大きな目を瞬かせて、ひかりを見る。そこには、もう怒りの色はなかった。
「ごめんなさい。あなたがィアーケス・オノトーシャラスから来たってことを、忘れてたわ。ひかり……、だったよね」
ひかりは驚いて目を見張った。
「どうして……」
「名前を知ってるのかって?」
いたずらっ子のように、灰色の瞳がくるっと動いた。
「ドゥニックに聞いたのよ」
「ドゥニックに」
「そう。それより、なにか食べて力をつけたほうがいいわ。ずいぶん血を吸われたみたいだし。朝食はもうすんだかしら」
首を横に振ると、
「じゃあ、まずこれを飲んで。毒消しになるから」
と、湯気を立てるパクスティーを勧めてくれた。
「ありがとう」
一口すすると、香りと温かみが、じんじんした痛みに取って代わるのが分かった。
「さっきは悪かったわ。私っていつもこうなのよね。すぐに頭にきて、見境がつかなくなってしまう……。だからバグの裁きを受けたっていうのに」
その言葉に、ひかりの体がぴっと伸びた。
「バグ、の裁き……」
「そうよ。あなたも受けてるのよね、確か」
下唇をかみながら、うなずく。
「ドゥニックが心配してたわ。私は、昨日の午後、彼に会ったの」
イマニームというその少女は、二月ほど前アームを出発し、フーまで行った帰りだと言う。昨日の昼、ひかりが目指していたラムスを抜け、夕方ロディムに着いたらしい。
「途中でひかりという少女に会わなかったか、て聞かれたのよ。会いませんでした、て答えたら、方角を間違えたのだろうかって。それで、探してあげるって約束したのよ。まだ半日しか経っていないなら、急げば間に合うでしょう」
「でも、どっちに行ったか分からないのに、どうやって見つけてくれたの」
「見つけたのは、この子たちよ」
そう笑いながら、自分の乗っていたアドゥカルの頭をポンとたたいた。
「アドゥカルには不思議な力があってね、放っておくと、仲間のいる方向へ勝手に進むの」
「仲間のいる方向なんて、どうやって分かるの」
「さあねぇ。だから不思議なのよ」
改めてラムダを見つめる。何とも間の抜けた表情は、そんな力とは無縁に見える。
「あの、ビラビラは何?」
ビラビラという言葉に、イマニームはくくっと笑った。
「あれは、ユーバよ。砂蛇と呼ばれてるけど、蛇じゃなくて蛭ね。他の生き物の血を吸って生きてるの」
地下水脈の周辺に住み、昼間は砂の中で眠っているが、夕方や日の出の涼しい時間帯に砂の下を移動し(真夜中から明け方は冷え込むので、あまり活動しない)、人や獣を襲うのだという。パクスの香りが嫌いなので、人々はオアシスの周りにパクスを植え、葉っぱはお茶にし、枝を乾燥させ薪にする。
「そうして、体にパクスの香りを染み付かせるの。それだけで、ユーバよけになるから」
道理で、出会う人もアドゥカルも、みんなパクス臭いはずだ。
ひかりはうなずくと、真っ黒いお茶を一気飲みした。こうなったら、何倍でも飲んでやる。
「沙漠を旅する人は、あいつらに襲われないためにブーツを履き、パクスの香りをまき散らすのよ。アドゥカルは足の皮が硬いから、食いつかれることのない唯一の生き物ね」
ひかりは、ベージュの体が赤く太っていく様と、切られたときに吹き出していた血を思い出し、また気を失いそうになった。あれは、自分の血だったのだ。
「かかとの傷は当分痛むと思うけど、ふくらはぎは無事でよかったわね。たぶん、その変わった着物の生地が硬かったからでしょうね」
ジーンズをはいていて、ラッキーだったのだ。もう二度と、窮屈などと文句を言うまい。
誓うようにブーツに足を入れると、ひもを硬く絞めた。
「それで、今、どの辺りにいるんですか」
「ロディムを挟んで、ラムスと百八十度反対の方向よ」
イマニームが、肩をすくめた。
「地図の通りに行ったつもりだったんだけど……」
言い訳をするように目をあわさず、皮袋から図面を引っぱり出した。
広げた紙面を見たとたん、イマニームは感嘆のため息をもらした。
「アーム製の地図ね。サインは無いけど、見事なものだわ」
何となく誇らしい気持ちが胸に広がり、説明する声がわずかに弾む。
「わたしが出発したオアシスがここで、目指してたオアシスがここだから、西に行けば良いわけで……」
「西?」
イマニームが口をはさんだ。
「それは、どこ?」
「こっち」
ひかりは、太陽が沈む方角を指さした。イマニームは、腑に落ちないというように目を瞬かせた。
ひかりの自信に影がさす。
「地図って、上が北だし、左は西で……、だから、西に行けばいいのかなって……」
「地図は、上が北……」
イマニームが、考え込むように首を傾ける。
どんどん自信が萎えていく。
「もしかして、それは、あなたのお国の話?」
もはや、言葉がなかった。
「私の知っている限り、ィアーケスでは、北や西という言い方は聞いたことがないわ」
完全なる思い違いに、ひかりはぽかっと口を開いて地図を見つめるしかできなかった。
それを慰めるように、イマニームは微笑んだ。
「大丈夫。お昼を食べた後、地図の見方を教えてあげるわ。特に急いでどこかへ行くということもないんでしょう」
ひかりは、黙ってうなずいた。
イマニームはもう一度微笑むと、のんびりと待っているアドゥカルに跨った。
ひかりも痛む足を引きずってラムダに跨ると、後に続いた。
追いかけるように、砂がさわわと動いた。




