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いつも見ている

作者: 大地 凛

 ――我々にとっては、毎日が水晶の夜であった。まさか自分たちの信頼していた国家から、石を投げられるとは、思ってもみなかったのだ――。


 この手記を残し、第七十七区の残党は狩り尽くされた。もちろん既に消え去った彼も知っての通り、分割された街区を行き来する方法はない。故に、このメッセージは、まだ何も知らないアダムとイヴに届くはずもないのである。


 果実は接収され、メモランダムは焼かれて灰になった。幸いなことに、囁く蛇すら残されないこの地は、ある意味では理想郷(ユートピア)である。



「帰るよ、博士が心配してるよ」


 ガーベラが呟いた。それに対し、私は何と答えればいいのだろうか。


「そうだね、仕事も済んだし」


 考えることもなく、口からは言葉が繰り出された。否、プログラムに従って紡がれた、バイナリーの要請に応じただけだ。私は違和感を押し殺した……、もとい、常に見ている誰かによって、“私”が押し殺された、といった方がいいかもしれない。周りの仲間が歩き出した方向へ、私も自動的に向かう。



 それは、私に根づいた記憶なのか、それとも転送されてきたデータなのか。何かにつけて思い出すことがある。それは、世界が霧に覆われる前の出来事なのか、それとも仮想海の揺らぎなのか、洞窟の中の啓示なのかは判然としないが。ともかく、私の脳の中で、それは予兆なしに、とりとめなく蠢く。


『もう、人間の発展には限界がある。……今一度、リセットしよう』


 計画的に分割された世界。しかしその満ち足りた壁の中ですら、人々の欲望は際限なく膨らんだ。思い描いていた理想郷の青写真は、敢えなく雲散霧消した。仕方なく別個に行われた政策。私たちのいる街区の統治者が下した決断が、この霧だ。


 地下に張り巡らされたパイプから吹き出す霧は、人間のみならず、動物にとっても有毒だった。脳を犯し、殺戮する洪水である。そして、運良く霧を逃れても、私たちがいる。残された人間に、逃げ場はない。


 ここにいる数十名の子供たちに、毒性の霧は効かない。脳の機能は、既に胎児の段階でコンピュータに置換されている。作用すべき脳を持たない私たちは、霧の中を潜行し、土竜に引き金を引く。その仕事を毎日繰り返し、夜が来ると博士のところへ戻る。



「ご苦労、次は第九十八区だ。全部で四つの生体反応、抵抗者(レジスタンス)かもしれない」


 無言で、博士の話を聞く、同じような顔をした子供たち。話など聞かなくとも、指令はデータとして入ってくる。だのに博士は話したがる。見せつけるように白衣を広げ、眼鏡を取り落としそうになる程に、大きな手振りで。


「……そうだ、LI-19は、いるか?」


 ぼうっとしていた私は、自分の名を呼ばれたことに気づかなかった。元の名、リリーと呼ばれて、ようやく気づいた。


「……はい、何でしょうか」


「感情と感覚の転送に不具合がある。修理するから、ラボに来なさい」


 先に霧の効果はないといったが、しかし、水を多分に含む気体に晒され続ければ、不具合も起きるだろう。私は同意を示した。



 ラボは汚い、散らかっていて無秩序だ。だから私はこの場所が嫌いだ、口には出さないが。


「……汚くて悪かったな。生憎君たちみたいに、頭を電子海に漬け込んでないのでね。僕は非効率的真人間として、できる限りのことをやってるんだよ」


「感情の転送は上手くいっているようですが……、霧の中では不具合が?」


 博士は肩を竦めた。どうやら笑っているのだと、私は認識した。


「いや、面白くてね。君たちの感情は、全部こっちでコントロールしてるから。君のように不如意なのは、いや、久し振りだ」


「すみません、おっしゃっている意味がよく分かりません」


「だから、君を大切に扱って正解だったよ。まさか先月送られてきた君が、僕の十五年前の失敗作だったなんて!」


 博士は手元のデバイスに、何らかのコマンドを打ち込んだ。それが、私の感情の転送を停止し、自立思考に切り替えるものであると気づくのに、時間はかからなかった。



「……っあ。……な、何、これ……?」


 やがて私は、騙されて知恵の実を口にしてしまったのだと悟った。何も知らされていなかったのは、むしろ私たちの方だったという皮肉が、赤く染まった身体に投影されていた。


「君たちは、十五年前に一斉に作られた屠殺用の半人造人間(セミ=アンドロイド)。だけど僕のミスで……、いや、僕の作為で、意図的に生み出されたバグ。それが君なんだ」


 博士の言葉は、脳内の濁流に押し流されて、理解することすらできない。ああ、これが人間の脳の限界か。機械に支配されていた時には思いもよらなかった、熱を持った混乱が、混濁を加速させる。


「君には、人間の人間たる所以を、すなわち心を残した。その上で、霧への耐性をつけるため、わざと子供たちの中に隠した。何故かって、問う必要はないだろう。私たち抵抗者たちのためさ」


 博士は笑んだ。国の理念に基づいた執行に、追従する笑みではない。血と狂悖暴戻とに頭を抱える私を、狂気的に迎える笑みだ。


「気づいた以上、戦わないという選択肢はない。幸い、この建物の中の半人造人間たちのコントロール権限は僕にある。ただ、僕には戦う力なんてない。だが、君なら……」


 同意する間もなく、私の意識が書き換えられる。怯えも、怒りも、悲しみも、そういった昂る感情一般が全て消えていき、次に意識が戻った時には、私はガーベラに馬乗りになり、銃を突きつけていた。彼女は笑顔で、何も言わなかった。言わないように命令が下っていた。


「引き金を引くか、それとも引かないのか。決めるのは君だよ、リリー。さぁ、どうするんだい」


 深呼吸をすると、部屋の中に充満した血の臭いが、肺臓に満ち満ちる。迷いが頭を掠めたのは、一瞬のことだった。すぐに女の顔が弾けた。飛び散った塊の中に、埋め込まれた機械部品が光っていた。



「こんな世界、おかしいと、そう思わないか」


「……話しかけないで。今、それどころじゃない」


 滅菌用のシャワーだが、この際そんな機能などどうでもよかった。血と肉とコードを洗い流したい一心であった。そして何より、あの後戻りのできないタイミングまで、自分の意識を奪った博士に対する、裏切りへの怒りにも似た、奇妙なる感情が渦巻いていたのだ。


「じゃあ、勝手に話すがね。十五年前から我々は、選ばれた人間たちだけで理想郷を作ろうとしている。しかし、多頭では上手くいくはずもなく、各々の思い描いていた理念が暴発して、世界が乱れてる。僕たちのいる世界は、十七人の政府高官がそれぞれ受け持った分割区(divideds)のうちの一つ。キース=ヨハギスの『絶対統治区』。迫害、差別を許さず、厳罰を持ってあたる。第十四の理想郷だ」


「それは、あらゆる差別を許さないってこと……?」


 博士は苦笑した。その原理の絶対化と拡大が何を生むか、この監視社会において、私たち半人造人間の鉄槌を逃れることはできない。


 だが、それは過去の話だ。子供たちは鏖した。そのヨハギスなる人物が思い描いていた、滑稽なまでに完璧な、差別なき理想郷の幻想は、崩れた。


「じゃあ、やることは一つだよな。僕たちで、壁をぶち壊す、分割された世界を一つにする」


 差し出された手に、私はまだ湯気の上がる手を差し出した。


「改めて名乗ろうか、僕はギュンター、ギュンター=アンドルフだ。よろしく、リリー」


 無知な世界が、再び鏡に光を宿すことに成功したこの日を、人類は忘れないであろう。その第一歩が、交わされた握手として、今、踏み出されるのであった。

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