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寒いね
人との付き合いの少なさだけには揺るぎない自信を持っているこの僕でも、今のこの状況が多くの高校生が憧れる「デート」と呼ばれるものではないことが容易に理解できた。
出会って二日目とは思えないほどに近い距離間、初日とは似ても似つかない、狂気とも殺意ともとれる、しかし見る人間によっては愛と感じることができるのかもしれないその表情を浮かべるこの少女、魁彩菜。彼女は学校の門を出るや否や、そこから数百メートル歩いたこの現在地まで僕の腕に抱きついて離そうとしない。男子である僕でもそれを引きはがすなら思い切り足に力を入れて、遠心力を以てでしか不可能だと本能的に分かった。まるでジャングルなどに生息している大蛇がそのまま腕に巻き付いているようだ。一方の僕は捕らわれた野兎のように委縮してしまっていた。
「藤原君ってやっぱ男の子だねぇ。腕の筋肉、頼りがいあるなぁ。」
魁はその細い指で僕の腕を肩から手首まですぅっとなぞる。たまらず身震いしてしまう。僕の腕をこんな力で束縛するこの女のほうが頼りがいがある筋肉をもっている気がするが。また、教室で声をかけられたときの、感情を失ったような声ではなく、昨日僕が聞いたようなきれいな声色に戻っていた。しかし相変わらず、彼女の表情は昨日とは、まるで別人で、狂気を孕んでいるように感じられた。
「なぁ。その、なんで僕なんかと?…カラオケなんて。」
僕は昨日からずっと気になっていたことを恐る恐る聞いてみる。昨日教室を飛び出したその帰り道の時点では、こんな僕にもモテ期的なものが来たのかと、少なからず思っていた。だが今日の魁を見る限り、そんなことは言っていられない。殺意を向けられたことなんてないから察することができないが、これが、そうなのかもなと、思った。
「んあ。なんでって、そりゃ、藤原君のことが気になってるからに決まってるじゃん。」
僕のほうに顔を向け、にこりとする。僕はびくりと震える。できるだけ普通の表情を見せようとしているように思えたが、程遠い。むしろ、怖いな、と思った。その言葉は、文面だけ見れば告白としか捉えられないはずだが、その目の奥に潜む狂気的な感情を垣間見ている僕にはときめきを感じることができなかった。
「そ、そうなんだ…うれしいけどさ、僕なんかとこんなことしてるとさ、変な噂、たつと思うよ?」
変な噂を立てられることは僕としても困る。それは彼女も同じはずだ。クラスの人間に知られたままで二人きりでカラオケに行くなんてその先の展開的にお互いデメリットでしかない。というのは、多分建前で実際は沈黙している空気の方が怖いような気がしたからこんな質問をしたのかもしれない。
僕は案外度胸があるもんだ。
「そんなん気にならないよ?藤原君と二人きりでいたいって気持ちのほうが強いんだもん!」
先程同様、僕の目を真っ直ぐに見つめてそう言う。
現に二人きりで歩いているこの状況から見るに、その言葉自体に嘘偽りはないだろうとは思う。しかし先程から何度も言うが、ただの恋心を抱く少女にこんな表情はできるはずがない。何かしらの裏があるんだろうな、と思った。
「そう、なんだ。でも、気になってるってのは…どういう意味?」
これは単純に気がかりな質問だ。気になっている、なんていう曖昧な表現は、僕にはその真意まで探ることができない。とは言ってもこんな、心を許せばなにをしだすかわからない魁に、恋愛的な感情を抱かれていたとしても、気持ちが揺れ動いたりなんかしない。と、思っていた。
「うーん。それ、今藤原君に教えてあげるのは、ちょっとハズイかもなあ。」
急に、重苦しかった魁の雰囲気が解消された気がした。
そう言って笑う彼女はいつの間にか、昨日のような可愛らしく健全な表情を浮かべていた。それは、見た人間全員を虜にできるんじゃないかと思うほどに芸術的な価値が高かった。僕はその時、この女は多重人格なんだろうな、と思った。今日、僕に再び声をかけてきた狂気の表情を浮かべる魁。そして、たった今再び現れた昨日のような無邪気で活気にあふれたあの魁。実をいうと僕は前に同じような境遇をした人間に会ったことがある。性格や声のトーンはもちろん、表情や顔のパーツまでを二通り持っている男だった。それと同じように、再び柔らかな表情に戻った彼女のそれはとても演技には見えず、僕はそう確信せざるを得なかった。そんなようなことを推理している僕の表情を彼女は少し不思議そうな目で覗き込んだ。一瞬目が合い、僕はすぐにそらした。
「そっか。」
目が合っただけで顔が熱くなる。だって、整いすぎている。
「でも、やっぱり気が変わった!」
いきなり、彼女は僕の腕の拘束を解き、僕の肩に手を載せ、顔を僕の耳に近づけてきた。そして、耳たぶに唇が触れてしまいそうな距離感で
「男の子として、」
と囁いた。くすぐったさで思わず身震いをすると、彼女の顔が僕から離れ、後退したのちに
「好きってことだよ。」
そう言った。こんなことを言われてしまっては、僕の気持ちは傾くなんてもんじゃすまない。
いきなりの告白。こんなにも容姿端麗な美少女から。柄ではないが、好きになってしまうのは仕方の無いようなことのように感じられた。先程まで、狂気的だとか、なんて言っていたのに、彼女の、その可愛げのある部分も見てしまうと、一男子である僕としては非常に弱い。
僕はその瞬間、彼女の「容姿」に好意を持った。
「そ、そっか。そうなんだ。」
こんなことを言われたことは生まれて初めて、返す言葉なんて知っているわけがない。なんて言うべきかと、目をそらしながら口をもごもごさせていると、魁は再び元の立ち位置であった僕の腕にしがみつき、
「ほら!藤原君、あそこのカラオケ!」
そう言って指をさす。その先にはいかにも、と言っていいであろう、でかでかとカラオケと書かれた看板を頭にかぶった巨大な建物があった。
「別に、返事とかの催促、したりしないから!」
僕がこういう、男女間のやり取りに疎いことなどお見通しのようだ。でも、不思議と赤く灯ったような彼女の顔を見ると、魁が自らそれについての会話を回避したかったようにも感じられて、何とも言えない親近感を感じた気がした。
「…うん、分かった。でもありがと。」
そんな返事をした。また、この女が数秒前までは寒気を感じるほどの目をしていたことも、思い出した。そうして、カラオケに入っていった。ドアは自動で開いた。
カラオケなんて小さいころに、家族で一度だけ行ったか行ってないか、それくらいだ。その程度の経験しかないその施設は高校生になった今、今日初めてまともに会話をした女性と利用するとなると、なんだか少し不健全なものに感じられた。受付に立っていた大学生と思われる店員は、僕と魁を交互に観ながら入店の手続きを行っていた。魁のあまりの美少女ぶりと、それに不釣り合いな僕を見て、軽い羨望の感情を抱いていたように感じられて、不思議と誇らしく感じた。決して、いかがわしいことをする目的でここに来たわけではないし、そもそもそんな度胸はない。にもかかわらず、まるで空港の関税を通るときみたいな緊張感があった。魁も店に入るや否や、僕の腕の拘束をやめ、二人は常識的な距離感のまま受け付けは終わった。
そもそも今日のこのデート(と言っていいのかわからないがそれ以外に合う言葉もない)は断るつもりでいたんだった。それが不可能に思える彼女の表情が僕を恐怖させ断れなかった、という成り行きのはずだが、先程、彼女が二重人格なんだろうという事実の判明以降、彼女への恐怖はかなり軽減されたように感じられた。
しかし、彼女の持つ二つの人格、それぞれの性格もほとんど知らない。僕の知人の彼は、穏やかでのんびりとした性格、活力にあふれたせっかちな性格、その二通りを日替わりで共存させていた。一つの肉体に。正直想像できない。どんな、生き心地がするもんなんだろう。これも気になる。怖いほうの魁、あの人も僕のことを、好意的に思っているのだろうか。あちらの彼女も同じく、僕に対して好意的な感情を抱いているのなら、あのような表情を向けるその意図も、彼女なりの愛情表現であるとはんだんしてしまってもだろうか。攻撃的な意図などなく、僕の思い込みだったんだと。つまり、上文を要約すると、彼女の笑顔に負けてしまった。惚れてしまった。
さて、そんな魁との初めての二人カラオケ、そう、「密室」である。
全然話が進まないね