優しい世界、冷たい世界。
小さい頃、世界は僕に何でも教えてくれた。
初めて見る「人」。
足の使い方。
ちょうちょの羽ばたき。
おはなしの仕方。
転んだ時の痛み。
絵本の読み方。
そこには確かに、色んなことを教えてくれる、小さくとも優しい世界があった。
でも、大きくなると、世界は僕に何も教えてくれなくなった。
前にいる人の名前。
理想の体型への道筋。
人間が飛ばない理由。
上手な会話の仕方。
心の痛みの解消法。
勉強、学びの意味。
世界は「俺」に、冷たくなっていった。
俺は叫んだ。
何故、助けてくれないのだ。
昔はあんなに優しかったのに。
その声は、虚空に消えて、返らなかった。
そして、もっと大きくなって、冷たい世界を受け入れた。
世界は冷たいのが当たり前なのだ、と。
そのまま世界は廻り、子孫が出来て。
だっこ、だっこ!
きっと、我が子にも冷たい世界が待っていて。
いやー!嫌いー!
それでも俺は、一瞬だけでも温かい世界にいて欲しいと、そう願って。
すぅ、すぅ…
我が子の寝顔を見ながら、眠りにつく。
オヤジ、元気か。
その一言で、誰だか分かった。
目を向けた方には、変わらぬ顔があった。
喧嘩して、家出して帰ってこなかったはずの我が子だった。
軽く怒り、すぐに再会を喜ぶ。
そのまま、無駄口を叩きあい、彼の減らず口を諌めて、その後無言になる。
オヤジ、と我が子が口を開く。
なんだ、と俺は返した。
優しい世界を、ありがとな。
俺は、何も言えなかった。
俺には、何も言えなかった。
俺にとって、この世界は冷たい。それが当たり前だった。
でも、俺は大きな勘違いをどこかでしていたのかもしれないと、気付いた。
冷たかったのは世界じゃない。俺が世界に冷たかったのだ。
我が子が再び旅立った、夕焼けの空。
一人、机の上でアルバムをめくる。
そこには、輝いている「俺」がいた。
それは輝きが無いと思っていた時の、「俺」だった。
ふと首を動かし、机上から目線を逸らす。
埃の溜まった窓に、俺の顔が薄く映る。
その小さく見えていた窓の外には、名前の知らない蝶が沈んでいく太陽に向かってゆっくりと飛んでいった。
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