知らない記憶
刹那、激震。
ミノ助は手にしたハンマーを、自分たちに向けて振り下ろした。
傷一つ無かった真っ白な床と壁が砕け、つぶてが凶器となって襲いかかってくる。
「くそ!」
暴力を詰め込んだような、恐怖を覚えさせるカタチ。
たった一振りで、絶望を植え付ける圧倒的な戦力差。
苦々しくつぶやいた先輩の右肩はえぐれ、血を流している。
いつの間にか、悪夢に迷い込んだようだ。
薄れてゆく現実感の中、唯一濃厚な死の匂い。
「ひくぞ! 月乃森。あれはダメだ!
俺たちでは、太刀打ちできん!」
自分の体は動かない。
先輩の悲鳴と怒りが混ざった声を聞きながら、ある場所から目を離せないでいた。
奥にある、真っ白部屋。いつか見た、夢と同じ風景。
ただ、いつもより遠くに自分がいるだけ。
「――――――ああ。
いかなきゃ。いかなくっちゃ……!」
知らず、声がこぼれていく。いや、生まれていく。
体の内側から生まれた暗闇が、前に進めと、足を動かしてくる。
暗闇に果ては見えない。どこまでも自分は沈んでいき、きっとあと少しで消えてしまう。
「なんで……?
ありえない、ありえない……!」
目から涙がこぼれていく。自分の言葉がまるで理解できない。
意識はもう薄弱で、ただ、いくつもの感情だけで動いている。
ひどく絡まったその感情に名前は付けられない。だけど―――
「ジャマヲするな……デカブツ。
……チクショウ。みんな、壊してヤル!」
それが、ひどく醜悪なことだけは、理解できた。
忌避などできない。
いくら目をそらそうと、ソレはもとより自分の内にあるモノ。
幾度、丹念に殺しても、ソレは何度でも甦るモノ。
目の前のミノ助(脅威)が生み出す恐怖など、
この感情の嵐の前ではそよ風にすぎない。
内側を腐らす毒が、自身の感情であることを忘れてしまうから、いつだって、自分たちは間違える。
右手に握った剣は、すでに雷をまとっていた。
目の前の巨人が、ハンマーを振り上げる。
感情が、自らの生存本能を焼き尽くし、
「――――――!」
まっすぐに、相手の懐に飛び込んだ。
すんでのところで、ハンマーの直撃を避ける。
しかし地面は砕け―――数多のツブテが背中に食い込んだ。
巨人の赤い目は、爛々と光りながら自分を睨んでいる。
聞き覚えのある声が、遠くから聞こえてくる。
自分が、どんな表情をしているのか分からない。
痛む背中はおそらく重傷。戦力差は絶望的。しかし、
「ッハ!――――――デカブツ、その程度カヨ!」
感情に支配された自分は、勝てる見込みのない敵を、倒すべき相手だと認識した。
真っ赤に灼けた剣を、相手の膝頭に突き刺す。
鈍い剣戟。巨人が吠える。耳の中で反響する二つの音。
巨人はそれこそ岩のようなハンマーを振り下ろし、剣は鋼鉄の表皮に浅い傷しか残せず―――
ほんの一瞬で、巨人の背後に回り込んだ。
「ッラァ!」
閃光を伴って、巨人の背中が十文字に刻まれる。やはり奥まで届かない。
刻む方は常識を超え、受ける方は常識を捨てていた。
巨人は攻撃を受けながらも、強引に背後にいる見えない敵に向けてハンマーを横に振るったのだ。
嵐のように無数のツブテが肌に突き刺さるのは、巻き込まれた通路の壁が破壊された為である。
「――――――ッチ……」
体の重心が、いつもと違う。
片足が、あらぬ方向に曲がっている。
白い床に、赤い斑点が一つ、二つ。
「……失敗だ」
気にせず両足に足に力を込めて、右手の剣を構える。
霞む視界の向こうで、ハンマーを振り上げる敵に向かって、
「全く持って失敗だ。こんな攻撃じゃ逆に無礼だったな。
なあ、ミノ助」
先ほどと同じように、まっすぐ相手に向かって飛び込んだ。
再度、振り下ろされる鉄槌。
しかし、先ほどとは違う結末。
壊れてしまうことさえいとわずに、左手を、迫り来るハンマーの側面に叩きつけた。
―――無様にひしゃげた自分の左手。
激痛に悲鳴を上げる頭蓋。
粉砕。断裂。圧壊。―――数え切れない救難信号(脳のシグナル)。
わずかにそれたハンマーのすぐ横を駆け抜け、壊れかけの片足が血飛沫をあげるのを無視しながらも、意識はすでに曖昧模糊。
時間感覚を失った脳内で、断裂した映像が再生し続ける。
ボクの体はいつかの熱を思い出している。
舗装された道の堅さを足が覚えている。
赤く塗れた足がバランスを崩しかける。
痛みと共に知らない風景を見つける。
―――目がくらむような青色の空。
―――砂浜に残された二人分の足跡。
―――夜の海岸線に現れた大きな火柱。
―――真っ白な部屋で横たわる、
「――――――」
なぜか、知らない記憶で胸が痛んだ。
にじんでいく視界。
知らないボクが、返してくれと泣いている。
握っていた剣は、熱で溶けてしまったが問題はない。
代わりに現れた白く輝く槍は、目の前の敵をいともたやすく貫くはずだ。
知らない記憶が、真っ黒な感情を生み、焼けただれた右腕を稼働させる。
――――――さあ。
奪われたモノを、取り返さないと。
■
目がくらむ閃光。
決着がついたのを知ったのは、目の前の光景を見てからだ。
視界がどうにか戻り、ミノ助の土手っ腹に大きな穴が空いているのを確認しても、自分がなぜここに立っているのかを思い出せなかった。
「――――――え、あれ?」
ひどい痛みで、呼吸が難しい。
……なぜ、こんな有様なのか。ありえない方向に曲がった左足。
つぶれた左腕と、炭化目前の右腕。
固い音は相変わらず耳の中で反響していて、白い部屋で解剖される人形たち。
「――――――ッツ」
何かがせり上がってきて、思わずえづきそうになる。
満身創痍なのはいい。
ミノ助との遭遇は、死を覚悟しなければならないものだった。
いつの間にか剣を失ったのも、生きているのならば些細な問題だ。
だけど、何も思い出せない。記憶の空白が何よりも恐ろしかった。
それなのに、壊れかけの右腕に残る、敵をほふった感覚に寒気がしていた。
耳に障る音は大きくなるばかり。あと少しでその発生源にたどり着ける。
真っ白な床に赤い筋を描きながら足を引きずる。
なぜだか、さっきまで燃えるように痛かった体が寒い気がする。
「っはぁ―――」
理由は見つからないが、何をすべきかだけは知っていた。
この体はいま、覚えのない感情で動いている。
通路の先に広がる空間にある透明な筒を見たとき、胸を支配したのは、泣きたくなるような痛みだった。
喉が渇き、あえぐような渇望はたやすく自分を支配した。
頬を伝った涙のあとが、何かを求めていた証だった。
だけどもう、思い出せない。
泣いた意味さえ、見つけられない。
あの透明な筒の中には答えがあるかもしれないと、目を凝らし、急速の心まで冷えた。
大きな亀裂。
筒の中を満たしていた緑色の液体が、無惨にもこぼれていく。
「―――あァーーー」
真っ黒に焦げた右腕をなんとか伸ばす。露わになっていく透明な筒の中身。
そこには自分と同じ、ヒトのカタチをした少女が眠っていた。