続・午前一時五十五分のゴリラカフェ
「まだ雨止みませんね、マスター」
ウェイトレスの亜夢が窓を開けて手を外へ翳して言った。
「オゥ! 朝になれば止むかもしれないし、止まないかもしれない。俺にはどうすることも出来ないんだし、あー、甘い物が食いたいぜ、チクショー」
マスターは少しイラついていた。
「あ、ダメですからね〜 マスターはダイエット中なんですから」
先日、健康診断を受けたマスターは医者に太り過ぎを指摘され、亜夢に糖質制限を課せられている。
☆☆
午前一時五十五分。ここは、とある場所にある「ゴリラカフェ」。眠れない人間たちの運良き者だけが訪れられるという不思議なカフェ。そしてマスターと亜夢は正真正銘のゴリラである。
「やっぱり糖質制限ダイエットはマスターにピッタリだと思うんです。ベジタリアンの私たちゴリラは甘いものを控えるのと適度な運動がダイエットには最適です」
亜夢はマスターの方を振り向いてニコッと笑った。
「ちっ、痩せたゴリラなんてチャラいチンパンジーになっちまうぜ」
そう言ってマスターは咥えた葉巻を思いっきり吸い込んだ。
カランカラン〜
「こんばんは」
一人の少女が入ってきた。腰まである長い黒髪、長身ですらりと伸びた細い手足。モデルのようだ。でもまだ顔にはあどけなさが残っている。彼女は絢香。このカフェの常連だ。
「オゥ! 今夜も来たのか。しょうがねぇなー」
マスターは舌打ちをしてロイヤルミルクティーを作り始めた。
「今日はマスターに差し入れです。私が焼いたバナナケーキです」
絢香は丁寧にラッピングされた袋をマスターに差し出した。
「バナナケーキだと!!!!」
マスターが手を伸ばすと「だめです!!」亜夢がどこからか走ってきて袋をつかんだ。
絢香さん、ありがとうございます。おいしくいただきます、私が」
亜夢はマスターをチラ見してそう言った。
マスターはと言うと、無言でドラミングをしていた。
「ちょ、マスター何をやってるんですか! ミルクティーが沸騰してます!」
「オゥ!」
マスターは急いで火を弱めた。
ロイヤルミルクティーは牛乳に直に茶葉を入れて煮立てて作る。あとは茶漉しを通して温めたティーカップに注ぐ。
「オゥ! 出来たぞ。これ飲んで早く帰りな」
マスターの口癖である。そしてカウンター越しの絢香の前に少し乱暴にカップを置いた。
絢香はカップに口をつけると、そーっと啜った。そして顔をゆるませた。
「あったかい」
オレンジ色の照明が店内をふわふわ揺らぐ。いつものまったりとしたジャズのリズム。仏頂面のマスターの横顔。ここはとても安らぐ。
「マスター、私って変ですよね?」
絢香が消え入りそうな声でポツリと言った。
「ん? むむむ……」
マスターは俯いた絢香の顔をのぞきこんでジロリと睨みつけた。そしてとぼけたような顔をして言った。
「別に普通の人間の顔じゃねーか。ゴリラ顔じゃねえな」
しばらく沈黙が続いた。と、絢香が突然泣き出した。
「ひっく、ひっく、うぅぅ……人間関係って難しい。私一生友達作れない……うぅうぅ……うぅうぅ」
絢香はいつもこんな感じなのだ。学校や家庭で何かあると、ここへ来て泣いて帰る。
マスターは黒い大きな掌を絢香の頭にそっとのせた。
「絢香さん、すごく頑張り屋さんなんですよね」
いつの間にか亜夢がマスターの隣に立っていた。
「マスター、絢香さん手作りのバナナケーキです」
亜夢は薄ピンク色の皿に、二センチ幅ぐらいにスライスしたバナナケーキを載せていた。
「これからデコります。マスター、クリームを泡立てて下さい」
「オゥ!」
マスターは亜夢からまだ液体の生クリームの入ったボールとホイッパーを受け取ると深呼吸をした。
いっつ! しょー! たあーいむ!!
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ
マスターは踊り出した。
シャカシャカシャ シャカシャカシャ
シャンシャンシャンシャン シャカシャカシャ
みるみるうちに生クリームは空気を含んでカサを増してきた。
「ねっ、マスターが居ればハンドミキサーなんていらないんです」
亜夢が言うと、絢香は目を丸くしてマスターの手元を見つめていた。
やがて、真っ白なツノがピーんと立ったホイップクリームが出来上がった。
「オゥ!」
亜夢は出来立てのホイップクリームをドーンとバナナケーキの横に添えた。そしてその上にミントの葉を飾った。
「さあ、マスター食べて下さい」
亜夢がマスターに皿を差し出した。
「い、いいのか? 食べていいのか?」
マスターの声は裏返っている。
「せっかく絢香さんが作ってくれたんです。糖質制限一時解除します」
マスターはバナナケーキを素手でそっと掴むと、ホイップクリームを少しだけ付けてかぶり付いた。
「うほほっ! うほほっ!」
マスターの目が潤んでいる。黒い巨体が小刻みに震えている。
「涙が出るほど美味しいみたいです。たぶんもうすぐ座り込んで静止します」
亜夢は絢香に解説をした。
「はい。すごく嬉しいです」
絢香は溢れんばかりの笑顔を浮かべてマスターを見つめていた。
「私、将来パティシエになるのが夢なんです」
絢香は目を輝かせて亜夢にそう言った。
「そうなんですか! 絢香さんなら成れる気がします」
絢香はロイヤルミルクティーを飲み干した。
「何だか眠くなりました。おやすみなさい」
絢香は立ち上がるとペコリと一礼して帰っていった。
三十分後ーーーー。
「マスター、特上カルビ二人前お願いします」
マスターは亜夢の声で我に返った。
「オゥ!…………ん? カルビ?? ウシか?? ウチの店にそんなものはないわ」
「マスターがいつまでも感傷に浸っているからいけないんです」
「一週間振りに甘味に会えたんだ。この気持ち分かるだろう。我が友よ」
「今から糖質制限開始です」
亜夢は冷たく言い放った。
ドンドンドンドンドンドン ドンドンドンドンドンドン
マスターがまたドラミングを始めてしまった。
亜夢はふーっと溜め息をついた。
☆☆
人間の皆さん! もし、これから眠れなくて、運良くゴリラカフェに来店してしまったならば、マスターがしばらく機嫌が悪いということをお伝えしておきます。あ、でも大丈夫です。私、亜夢がフォローいたしますから。それでは皆さん、良い眠りを迎えられますようにお祈りしています。