第一話
実験棟の突き当たり。そこに今や使われなくなった第十二能力研究室がある。
そこだけ他の部屋から隔絶されたようだと、いつも思う。
この研究室に通うのが、木羽祐吾の日課だった。
別に好きで日課にしているわけではない。研究室の女主、三國日向が呼び出すから、仕方なく通っている。好きではない、といっても嫌々ながらでもない。その理由は、既に認知している。
単純に彼女のことを愛しているからだ。
そこまで分かっていても“好きではない”というのは、社会的モラルを考慮すると“嫌っている”と脳内にインプットしている方が、万が一の間違いを回避出来るからだ。彼女を傷付けるような事態だけは、何としても避けなければならない。
しかし、こんな子供騙しレベルの自己催眠に、かかってしまっていると思い込んでいようとしているのだから、己のバカさ加減には呆れてしまう。騙しきれていないし。
「来たぞ」
「ん。そこの段ボール、棚に上げて下さい」
ドアを開けた直後、顔すら合わせず雑事を言い付ける。
わかった、と三國日向の足下に置かれた段ボールに手を掛ける。
「足、見ないで下さい」
「……見るか」
本当は見た。膝丈の藤色のスカートから覗く、艶の良い脚は、細く美しい造形をしていた。
一瞬高まった動悸を、わりと重い箱を落ちないように念入りに棚の奥へ押し込む作業の間に抑え込んだ。
箱が落ちて三國日向が怪我でもしたら、後々会わせる顔が無い。
「お疲れ様。――はい、これ」
そう言って差し出したのは、先日行ったテストの答案用紙だった。三國日向の講義を受講する学生は多く、それだけにテストの数も半端ではなく、これは採点を手伝え、という無言のアピールだ。
一応、言っておくが、祐吾は受講生であり、普通に受け取ってしまったがテストも受けた身だ。
「どうしました? 赤ペンならご自分のを。予備がありません」
「いや、解答が無ければ……」
「ならば、これを」と渡されたのは、祐吾の答案用紙。既に採点済みなのは、不正防止の為の三國日向の策略だろう。
まぁ、満点だから別にいいけど。
三國日向の向かいの席に着き、採点を始める。
今回のテストは比較的難しかったからか、全体的の点数が下向きだ。
いつも高得点を取る連中の平均点は下がり、低空を飛んでいる奴等は揃って赤点。気の毒に。
――――おや?
「フッ――」
「思い出し笑いで笑うなんて、気味悪いですよ?」
「違う」
「妄想ですか?」
「そんなわけないだろ」
これだよ、と三國日向に答案用紙を見せる。
彼女はほう、と感心したようだったが、「誰ですか?」と直ぐに首を傾げた。
まぁ、知らなくても当然か。この人、基本的に生徒に興味が無いから。
「今まで何とか赤点を回避してた奴だ」
「六十八……ちゃんと計算してませんが、平均点は越えてます」
「ここ一年で、飛躍的に成績が伸びている」
「飛躍的に…………カンニング?」
「あいつに限って、それは無いよ。あんなバカに、そんな賢しさはない。第一、カンニングしてるなら、もう少し点数とれてるだろ?」
「それもそうですね。決して高い点数じゃありませんし」
「ま、それでも嬉しいもんだ」
答案用紙を見詰めてニヤつく祐吾は、ふと三國日向に感情の読めない目で見詰められていることに気付いた。
また、嫌味でも言われるのだろうとわかっていながら、「何だ?」と問い掛けてしまった。
「いえ、何か私より先生らしい気がして。まさか、教師でも目指してるんですか?」
予想と反して真っ当な答えだったので、祐吾は少し照れ「そんなわけ無いだろ」と答案用紙を横に除けた。
その後は特に会話もなく、黙々と採点を続けた。
この人と居て一番楽なところは、気を使わなくて済むところだ。
例えば、話したく無ければ話す必要が無い。話題が無いのに間を持たせる為に、どちらかが話題を無理矢理持ち出す必要が無いのだ。逆に、何か話したいことがあれば、勝手に話すようになっている。
お互い口下手なだけあって、本当に楽な関係だ。
「…………駅前に和菓子屋さんが出来たの知ってますか?」
「入ったことはないな。いい感じなのか?」
「悪くはありませんね。特に鯛焼きが何とも――」
始まった。
この女師の好物は、魚介類と甘い物だ。特に甘い物には目が無い。芒原市内のお菓子屋というお菓子屋を、全て巡ったと豪語するほどだ。
この話し、長引きそうだ。
「――それで、神社の前に出店があって――――」
話しに脈絡が無い。そんなんでよく講師が勤まるな。
「――で、徳見屋の最中のバリエが増えてまして、全部買っちゃいました。そしたら――――」
それにしても、本当に幸せそうに話すな。
思わず作業の手を止め、その姿に見入ってしまう。全く話しの内容と一致しない身ぶり手振りや、興奮に微かに紅潮した頬、感動に煌めく瞳、熱の籠った声。
その全てが愛おしい。それらを見て、聞いて、感じるだけで、祐吾は幸せだった。
「……聞いてますか?」
「聞いてる。で、胡椒味のアイスは美味かったのか?」
「案外、イケましたよ。けど、私は紅いも味の方が気に入りました。それから――」
と、そこで三國日向の腹の虫が高らかに鳴った。食い物の話をしていたから、だろうな。
こういう時、普通なら恥じらったり誤魔化したりするところを、彼女は一瞬だけ静止すると「お腹空きました」と簡素な状況報告をする。
何とも味気無いが、そこが可愛かったりする。
「みたいだな」
「おや、もう晩御飯の時間ですね」
「そうだな」
時計を見れば、時刻は七時の少し前だった。今がご飯時かは、個人宅による。
「確かイカがあったと思います。探しますんで、貴方はアレの準備をお願いします」
「リョーカイ」
三國日向は立ち上がり、部屋の隅まで歩きそこに置いてある小さな冷蔵庫を開ける。
使われなくなった研究室に何故イカがあるのかは、彼女がこの部屋を私物化しているからに決まっている。そんな分かりきったことを、今更咎める気は無い。
祐吾は黙って、三脚とガスバーナー、小型の鉄板やらサラダ油やらをかき集め準備を始める。
火を焚き、三脚の上に小型の鉄板を置いて熱し油を垂らす。
「自家製タレ、どこやりましたっけ?」
「知らない」
「あ、ありました」
三國日向はスルメイカとタレを持ってきた。何処と無く、楽しそうだ。
「お酒もあります。赤ワインですが」
「俺はバイクだ」
「私は車です」
「じゃ、飲むなよ」
「バレなきゃ大丈夫です」
「俺が何処で働いてるか知ってるだろ? しょっ引くぞ」
「む。言い方が古いですよ」
とか話している内に、三國日向は二人分のグラスにワインを注ぐ。そして制止する間も無く、グイッとグラスを傾けてしまった。
ま、送ってやるか、とひとり決めて、祐吾はイカを焼いていく。
この人は酒が好きなのだ。止めたところで無駄だということは、よく分かっている。ワイン以外、飲んでいるところを見たこと無いが。
「貴方は、彼女居ないんですか?」
酒の席での勢い、というわけでも無さそうだ。
ただ単に聞きたかっただけで、何の悪気もなく爆弾を放り込んだのだろう。
「居たら、こんなところで入り浸って無い」
「作らないんですか?」
誰に惚れてると思ってるんだ、と言ってやりたかったが、グッと堪えて別の答えを探す。
「……長続きしないんだ。何でも、私を見てくれないってさ」
少し前まで付き合っていた子に言われた言葉だ。体臭が気に入っていたことと、何だかんだ面倒な奴だったことだけは、鮮明に覚えている。
やれデートだ何だと、授業中でも仕事中でも構わず携帯を鳴らすような奴だ。
しかし、彼女が悪いのでは無い。悪いのは全部、祐吾だ。
別に電話もメールもその場で返さなくても、後で暇が出来た時に返事をすれば良いと彼女も言っていた。
それを面倒臭がって、返さなかった祐吾に責任がある。そりゃ、あれだけ気を使って貰って、あんな態度取ってたら嫌われても仕方がない。
まぁ、格好悪いがあえて言い訳をするならば、その頃はもう、三國日向という女の虜になっていた。自分でも気付かぬうちに。
『私を見てくれない』
その通り、彼女の事なんて眼中に無い。
祐吾の目には、既に三國日向ひとりしか写っていなかった。
そう言われたところで、反論出来なければする気にもなれない。
三國日向の連絡は、凄く簡潔に要点だけを言うので、返事をしなくても良い。
留守電にもメールにも、『研究室に居ます』とただ一言だけ入れられている。いつでもいいから今日中には来い、という暗黙のメッセージが籠められている。非常に楽なものだ。
それに慣れてしまった身には、彼女だった女とのやり取りは面倒なもの以外の何でもなかった。
「私のせいですか?」
何の気無しの、ただの会話。
彼女にはそれでしか無いのだろう。
だからこそ、どうしようもなく苛ついてしまう。
「下らない。そんなにモテないように見えるか?」
「モテるんですか?」
「これでも特殊部隊所属だ。モテるよ、多分な」
彼女のせいでは決してない。
悪いのは、全部、こんなにも愛してしまっているのに、ヘタれて答えを出せずにいる祐吾だ。
「イカ、焼けてるぞ」
「タレが少ないです。もっとしっかり塗って下さい」
「熱したから蒸発しただけだ。焦げる前に食べろよ」
「その前にワインが無くなりました。取って来ます」
早くも一本飲んでしまっていた。
見ると、グラスには半分残っているが、瓶の方は空になっていた。
途中で面倒になって、らっぱ飲みしやがった結果だ。
「惚れた弱味って奴さ。好きにさせてやれ」
無意識のうちに呟いていた。
どうやら祐吾は、好きな人がどんな粗相をしても許してやれる程、ご執心出来る質らしい。最近気付いた事だ。
「何か言いましたか?」
「いや、何でも。ちょっと自販機で何か買ってくる」
「ワイン、嫌いでしたか?」
「バイクだと言ったろ」
本当、自由な人だ、と呆れながら、研究室を後にする。
祐吾は今のままでも十分幸せだった。しかし、こんな関係、いつまでも続く筈がない。早いところ答えを出さなければ、後、一年もしない内に卒業してしまう。大学院に行くほどの金もやる気も無いし。
自動販売機でお気に入りの炭酸ジュースを買って研究室に戻るまで、十分と経っていない。なのに、既に二本目が空いていた。
「聞きたくは無いが、何本飲む気だ?」
「イカ、焼いて下さい」
「無視か……」
どうやら祐吾より、イカのようだ。変な話し、イカにまで嫉妬しそうだ。“イカにまで”というのは、既に甘いものに嫉妬しているからだ。
その後は、特に会話もなくイカを食べては酒を煽る三國日向にバレないように見惚れていた。
誰が見ても飲んだくれの女だが、祐吾にだけはきらびやかに輝いて見えていた。
「一人で飲むの、飽きました」
「俺が居るだろ」
「違うもの飲んでます。……そのワイン、飲まないんですか?」
一番最初にグラスに注がれた、祐吾の分のワインだ。「飲まない。ていうか飲めない」と言うと、彼女は立ち上がり祐吾の旁に寄ると、グラスを手に取りクイッと煽った。
遂には人の物にまで手を出し始めたか。飲まないからいいけど。
「まだ飲めます。飲んで下さい」
「ったく、何度も言ってるだろ? 俺は――――ッ!?」
言葉を遮り、三國日向の唇を介して、祐吾の口の中にワインが注がれて行く。
それを拒絶出来るはずもなく、余すこと無く飲み干した。口の端から溢れ頬を伝った赤い雫は、彼女が丁寧にも優しく淫らに舐め取ってくれた。
全ての感覚が、麻痺した。
それは常人を超越した感覚を持つ祐吾には、有り得ない事であり、有り得てはいけない事であった。
それに驚愕すると同時に、言い表しようの無い怒りを覚えた。
だって、そうだろ?
「俺はバイクだ」
「私は車です」
この女は――――
「じゃ、飲むなよ」
「バレなきゃ大丈夫です」
こっちの気も知らないで――――
「俺が何処で働いてるか知ってるだろ? しょっ引くぞ」
「む。言い方が古いですよ」
どれだけ、我慢していると思って――――
「…………帰れなくなっただろ」
「帰したく無いんですよ…………」
それを、何という――――
「この、酔っ払いめ」
「はい、酔っ払いです」
もう、抑えが利かないじゃないか…………




