二話:黒い夜、白い昼
風の無い暗い街。
月の無い昏い空。
凶刃は闇に紛れて獲物に迫り、野獣の如き獰猛さでその命を貪り尽くした。
「標的の死亡を確認。任務継続、目標確保。これより撤退行動を開始する」
はだけた襟を正し、芸者姿の少女は匕首を帯に偲ばせ、鞄からくすねたフラッシュメモリを下着の間に設けた収納スペースに挟み、鮮血の海と化した座敷を後にする。
時刻はもう直零時を回ろうとしていた。
男を暗殺するのは、至極容易い
少し肌を見せただけで、殺し屋を自分の寝床へ入れてくれる。そして少しおねだりすれば、簡単に言うことを聞いてくれる。
殺し屋を背後に回すなんて、死神の鎌に凭れ掛かると同じ事だ。その馬鹿さ加減のおかげで、こうして返り血ひとつ浴びずに、何事も無かったかのように、着替えを済ませて帰路に着く事が出来る。
作戦エリアから離脱後、事前に打ち合わせた通り、南東二百メートル地点に待機しているSUVに接触する。
少女が近付くと、後部座席のドアが勝手に開き、中の女性が周囲を確認し乗るように指図する。
そんな用心は不要だ。
尾行をされるようなヘマはしない。先ず怪しまれていない。
少女が乗り込むと、車はゆっくりと走り出した。が、直ぐに急ブレーキが踏まれ、激しく前後に揺れながら止まった。
「どうした?」
「酔っ払いですよ、ちくしょう。若い男が二人、ぶつかって来て」
運転手がうんざりした様子で外を指差す。
「怪我させたの?」
「発車したばかりで、十キロも出てません。それにぶつかったのは助手席のドアです」
外では若い男性が、呂律の回らぬ言葉で何やら叫んでいる。それをもう一人の男がたしなめ、こちらの運転手に謝っている。
「“Death”る?」
「必要ならこちらから指示を出す。ディケード、フラッシュメモリを出しなさい」
ディケードはポケットからフラッシュメモリを取り出し、彼女に渡す。それと同時に、車が動き出した。
酔っ払い二人は、何事も無かったように肩を組んで歌なんて歌っている。一昔前のバラードだと記憶している。
「気楽な奴等」
「週末だからな。大目に見てやれ」
ディケードのボヤきに、運転手が答えた。
そんなものか、と酔っ払いを見送るのをやめた。
「あら? 貴方が社畜を擁護するなんて、意外ね?」
「社畜って言い方は止した方がいいですよ。差別っぽく聞こえます。特に貴女が言うと」
「やけに肩を持つじゃない? サラリーマン時代が懐かしい?」
二人の会話に着いて行けないディケードは、ぼんやりと運転手のうなじ辺りを見る。それに気付いた彼は、「俺がノンキャリって知ってるか?」とバックミラー越しに問い掛ける。
「知らない」と答えた。本当に知らなかった。
「他の連中と違って、俺は一般上がりでね。昔は営業マンとして色々とストレスを溜めては、やけ酒してたもんだ」
彼は何処か懐かしげに語った。
ディケードには興味の無い話だった。ここに居る二人の素性なんて知らない。名前すら知らない。
ただディケードに教えられて無いだけだろう。必要が無いから。
「飯草、兵器に聞かせるような事じゃ無い」
そうだ。ディケードは人間としてここに居るのではなく、兵器としてここに居る。
一振りの剣、一丁の銃と同じ。人を殺す為の道具として、ここに居るのだ。故に、任務に必要な事以外は、知る必要が無い。
「また、そんな冷たいことを。心にも無いくせに」
「飯草!」
「おっと。これは失礼しました、ボス」
飯草という名前らしい運転手が上部だけで謝ったところで、会話は途切れた。
ディケードは外の景色に目を流し、暗がりに沈む街並みを見詰めた。
本日は猛暑が厳しい日になりそうだ。
雲は無く空はどこまでも蒼く晴れ渡り、風は少なく熱中症に注意が必要。道路を挟んだ反対側の歩道が、陽炎のように揺らめいて見える事から、コンクリートから発せられる熱にも気を付けなければならない。
朱鳥来美は外気とは裏腹に、冷房でキンキンに冷えた喫茶店の中で、ぼんやりとそんな分析をしていた。
「聞いてるのか?」
「聞いてる。つまりはそいつを“Death”ればいいんでしょ?」
来美はアイスティーに口を付け、相手に気取られぬよう眉を顰めた。
味が薄い。ぎっしり詰められていた氷が溶けたせいで、紅茶が薄まったのだろう。
セコい商売だ。ケチな紅茶に、この無駄に寒い店内は、客の入れ替えをよくする為だろう。照明が点いていないのは、電気代の節約か。お陰で日当たりの悪い店内は、薄暗くて気味が悪い。
「そうだ。資料と必要な物は追って届ける。それまでは待機だ」
「了解。――憂さ晴らしになる?」
「そうだな。その紅茶よりは幾分かマシだろう」
「ならいいけど」来美は通話を切り、立ち上がる。
伝票を引っ掴みレジへ向かい、会計を手早く済ませてくそ寒い喫茶店を後にする。因む必要も無いが、店員の態度は来美以上に無愛想だった。
冷えきった体にこの猛暑はキツい。
けれど、未成年の自分には車なんて無いし、バイクは先日の闘争でお釈迦になった。だから徒歩でしか交通手段が無い。公共のものを使うのは嫌だし、タクシーは高いし。
でも、このまま帰るのは何か惜しい。せっかく昼間に外出しているのだから、ちょっとは羽根を伸ばしてみたい。
そうだ、定刻まで時間はタップリある。ちょっと遊んで帰ろう。
そう決断すると、自然と足取りが軽くなった。
暫く何をするでも無く、立ち並ぶ店舗を外から眺めたり、擦れ違い行く人波を観察したりしながら歩いていた。
今日は平日だが、世間では夏休みだ。来美と同年代の若者達が、キャッキャワイワイと楽しげに街を闊歩している。訳知り顔で、幸せそうに。
途中、何人かの男に声を掛けられたが、「私に触れるな」と一瞥をくれただけで離れていった。
来美は他人に体を触られる事を嫌う。特に男のように、下心だけで気安く触れるような連中には、吐き気さえ抱く。女でも同じだ。とにかく触れられたく無い。
ふと、疑問が浮かんだ。
こいつらの中で、何人が世界を知っているのだろうか?
いや、世界だけでなく、今、この街に凶悪で冷酷無慈悲な暗殺者が歩いていると、誰が分かるだろうか?
「誰も分からんだろうな。気楽な奴等だもの」
知らず恨めしげに呟いていた自分に、小さく舌打ちをする。
何を羨ましがっているのか。
自分にはこんな生活はもう送れないと分かっているのに、なんて未練がましい。
やっぱりダメだ。
自分には、昼の街中は合っていない。
自分にお似合いなのは、死んだような夜の街と、こびりつくような血の臭いだろう。
時間は潰せた。もう帰ろう。
頭を切り替え帰路につこうとしたその時、急に頭がクラクラしだし視界が霞み始めた。
あまりの暑さに、頭がやられたのかも知れない。
「やっば……街が歪む……」
ふわり、と意識が大きく揺れた気がした。
それは気のせいではなく、実際に体が揺れたのだ。「――――あ」と小さく声をあげる間に、膝が崩れる。
倒れるな、と理解したその時、「危ないっ」と誰かが体を支えてくれた。
優しく、今までに無いほど優しく、来美の体を支えてくれた。
ようやく安定してきた視界に飛び込んで来たのは、少年の優しげな瞳だった。こちらの顔を覗き込むエメラルドグリーンの瞳が、気遣うような色を浮かべているのが分かった。
そして次に安定した意識が、今の自分の格好を知らせてくれた。
仰向けに倒れかけている体を、少年に抱えられているという、まるで映画のお姫様のような恥ずかしい格好だと。それを周囲の人間に、物珍しそうに見られているのだとも。
「体が熱く、顔が赤い。熱中症かな?」
少年は冷静に来美の容体を告げる。
多分、体が熱く顔が赤いのは、別の理由もあるのだと思う。
「あ、ああ、あの……私に触れ――――」
「何処かで休んだ方がいい。――えっと、あそこにしよう。歩ける?」
「へ? ちょ、ちょ、ちょっと……!」
こちらの気など知らないであろう少年は、来美を抱きかかえ、近くの喫茶店へ入った。
これは、新手の痴漢ではないかと、頭が混乱した。
こうして朱鳥来美は、流されるままに喫茶店へと入っていった。
これが朱鳥来美と鳴海翔梧との、最初で最後の物語りである。




