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『いいなあ、お兄ちゃん。あたしも早く中学生になりたい』

羽矢が毎日必ずいうセリフだ。

「あと3年経てば行けるよ」

「3年も待ってられないよ」

「羽矢は学校楽しくないの?」

翔太がいうと、羽矢は呟いた。

「友だちが……あんまりできない」

羽矢も翔太と同じく友だち作りが苦手だ。

ずっと兄妹ふたりきりでいたから、周りの人との付き合い方がよくわからない。

「お兄ちゃんがいないと何もできないんだよ。あたし。学校つまんない。行きたくない。やめたい」

「またそうやってわがままいって」

翔太がいうと、「それに」と羽矢が暗い声でいった。

「変な人がいる」

「変な人?」

「変な……知らないおじさんがいるんだ」

羽矢の顔を見て、翔太は不安になった。

「知らないおじさんって、学校の先生のこと?」

羽矢は首を振った。

「知らないおじさんが、あたしのこと見てる……」

「見てる?」

翔太の胸の中にまた嫌な予感がやってきた。

「あたしのことだけを見てるんだよ。他の子は見ないで。ずっとあたしのこと見てるの」

「なに……なにそれ」

「わからないよ。でも、学校の先生じゃないことはわかってるんだ。着てる服が変なんだ」

「どんな服?」

「真っ黒なの。黒い帽子かぶって、黒い服着て、黒いズボン履いてる。靴も真っ黒」

嫌な予感が大きくなる。冷や汗が出てきた。

「見てるのって一人だけなの?」

「一人だけ」

「どんな顔してるの?」

「帽子で隠れてて見えないよ。それに暗いところにいるから、全然気づかないの」

「何か持ってた?」

包丁とかナイフとか持ってたらどうしよう……と、どきどきしたが、「何も持ってなかったよ」と羽矢は答えてくれた。

しかし、安心はできない。

「知らないおじさん見たのいつ?」

「一週間くらい前に友だちにいわれた。なんか変な人がいるよって」

「一週間くらいって……。なんでもっと早くいわないんだよ」

「だってお兄ちゃんがサッカーの話ばっかりしてるから……」

翔太はショックを受けた。自分のせいで、羽矢はずっと誰にもいえなかったのだ。


羽矢のことは自分が護るとかいって、全然だめじゃないか…………。


「でも母さんにいえばよかっただろう」

「いやだ。なんかお母さんは助けてくれない気がする」


羽矢の言葉に、また翔太は思い出してしまった。

羽矢は瀧川家の子どもではない。

お母さんと呼んでいるけれど、本当はただの知らないおばさんだ。


翔太は悩んだ。その知らないおじさんとは誰なのか。


どうして羽矢のことだけ見ているんだろうか。


翔太は羽矢の手をつかんで、いった。

「わかったよ。次、また出て来たら兄ちゃんに教えてくれ」

「やだよ。また出てくるなんて怖いよ。早くいなくなってほしい」

「だけど兄ちゃんはそのおじさん見たことないからどういう人かわからないよ」

そういうと、羽矢はいきなり真剣な顔になった。

「じゃあ……警察呼ぼう」

羽矢の言葉に翔太は驚いた。

「警察!?」

「変な人がいるんだっていったら、警察の人は捜して捕まえてくれるかもしれない」

本気でいっているようだ。翔太はあせった。

「ま……待ってよ。兄ちゃん、警察なんか呼べないよ」

「なんで」

「そのおじさんが、全然違う人だったらどうするんだよ。たまたま羽矢のこと見てただけかもしれないだろ」

さっきは捕まえる気でいたのに、いまは臆病者になっている。

逆に羽矢は弱気から強気になった。

「違うよ。あのおじさんは、きっとあたしにひどいことしようと思ってるよ。早く警察呼ばないと」

「だめだよ。警察は。新聞とかに載るのいやだよ。兄ちゃん」

「でも、もしおじさんに変なことされたらどうしたらいいの」

羽矢のいうとおりだ。もし羽矢がどこかに連れて行かれたら翔太はどうすればいいのか。


翔太はもう一度悩んで、いった。これしか思いつかなかった。

「じゃあ、明日から兄ちゃんが学校まで迎えに行くよ。羽矢は学校で待ってろ。先生と一緒にいるんだぞ」

「え……」

羽矢が震える声でいった。

また翔太は強気になり、羽矢は弱気になった。

羽矢は申し訳なさそうな顔をしていった。

「……お兄ちゃん……」

翔太は聞こえないふりをして、後ろを向いた。



次の日、翔太はサッカー部の部室に行き、一枚の紙を部長に渡した。

「退部します」

部長は驚いて、目を丸くした。

「退部って……どうしたんだ」

「すみません」

翔太は頭を下げた。

部長は真剣な顔つきになった。

退部しないでほしい、と顔に書いてある。

「すみません」

翔太はもう一度頭を下げた。

部長は目を閉じて、ぽつりといった。

「楽しくなかったのかな」

翔太ははっとした。あわてて手を横に振る。

「そんなことないです。すごい楽しかったです。また今度、遊びに行きます」

すると少しだけ明るい表情になった。

部員たちも翔太の退部にびっくりして、寂しそうな顔になった。

特に残念そうにしていたのが菅原だった。

「どうしてやめちゃうんだ。おまえ、すごい楽しそうにしてたじゃんか」

「ごめん」

翔太は下を向いた。

「なんでサッカーやめなきゃいけないんだ?」

「妹迎えに行くんだ」

翔太が答えると、菅原はびっくりした。

「妹迎えに……?」

「うん」

「学校って、もしかして中央小?」

こくりと頷いた翔太を見て、菅原は目を見開いた。

「ちょっと待てよ。こっからあそこまで行くのに1時間かかるぞ」

「でも、妹が心配なんだ」

「なんでわざわざ迎えに行かなきゃいけないんだ」

「大事だから」

翔太の答えを聞いて、菅原は黙った。

そして、諦めたようにいった。

「瀧川ってものすごく妹想いなんだな。オレはそんなこと絶対やらない」

翔太はその言葉に少し気になった。

「菅原って妹いるの?」

「いるよ。秋奈あきなっていうんだけど、すっげえわがままでさあ」

翔太の頭の中に羽矢の顔が浮かんだ。

「わがままなんだ」

「そう。すげえわがまま。毎日ケンカしてるよ。本当にあいつ、性格悪くって。この前なんか宿題教えてほしいっていってきたから、ふざけんじゃねえっていって追い払ったよ」

翔太は驚いた。以前、翔太は羽矢の夏休みの宿題を手伝ったことがある。しかも教えるのではなく、全部やってあげた。

「早く出ていってほしいよ」

うんざりしたように菅原がいった。

「菅原は妹のこと可愛くないの?」

翔太の質問に、菅原は何いってるんだ?という顔をした。

「全然可愛くねえよ。あんなやつ」


翔太は羽矢のことが可愛くて大好きだ。

でも菅原は妹のことが嫌いらしい。


「あっ、もう練習始まる。じゃあ、また今度な」

菅原が部室に戻っていった。

翔太は心の中に大きな穴が開いたような気になった。


自分はどうして誰の子なのか知らない女の子のために、サッカーをやめなきゃいけないんだ………。


なんだか泣きたくなってきた。寂しい思いでいっぱいになった。

さっき、部長にまた行きます、といったけれど、たぶんそんなことできないだろう。


壁にかかっていた時計を見ると、4時半になっていた。

翔太は羽矢のいる小学校に向かって走っていった。

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