幸せ
「お兄ちゃんは、友だちがいるの?」
ある朝、翔太が椅子に座って新聞を読んでいると、羽矢が大きな目で訊いてきた。
「友だち?」
「うん。いるの?」
翔太は立浦の最後に見せた悪魔の顔を思い出しながら、「一人だけ」と答えた。
「だあれ?その人」
「菅原っていうんだ。中学生の時に友だちになった」
翔太がいうと、羽矢は急に顔が変わった。
「もしかして……、お兄ちゃんのこと、いじめたやつ?」
「いじめ?」
翔太は首を傾げた。
「兄ちゃん、いじめられたことなんか、一回もないぞ」
「嘘だ。お兄ちゃんがサッカーやめたのって、その人のせいなんでしょ」
羽矢は悔しそうな顔をした。
「違うよ。兄ちゃんがサッカーやめたのは」
羽矢を『知らないおじさん』から護るためだ、といおうと思ったが、やめた。
もしそんなことをいったら、羽矢は傷つく。
「あたしが余計なことしたんだね」なんていうかもしれない。
「……やっぱり、兄ちゃんは運動神経ないからさ」
羽矢は「そうだったの?」とびっくりしたようにいった。
そして「よかった。お兄ちゃんがいじめられてなくて」と安心したように笑った。
さらに「そのスガワラって人に会ってみたい」といってきた。
翔太は少し困った。
「菅原はいま近くに住んでないんだ。一人暮らししてるんだよ」
すると羽矢は「じゃあ、今度来てくれないかっていってくれないかな」といった。
翔太は不思議に思った。
「なんで会いたいんだ?」
「お兄ちゃんが友だちとしゃべってるところが見てみたい」
可愛い声でいった。
「ああ、そうか。じゃあ、電話しておく」
翔太も菅原に久しぶりに会いたいと思った。
「それから、お兄ちゃん」
羽矢が指を立てて、注意するようにいった。
「そうやって新聞広げて読んでるとオヤジみたいだからやめて」
菅原が来るのは来週の日曜日になった。
羽矢は「どんなふうに話したらいいのかな」と何度も訊いてきた。
「ふつうに、兄ちゃんに話すみたいにすればいいんだよ」
翔太が答えると、「そうじゃなくて、話題だよ!」といった。
「あたしサッカーなんてやったことないし……。もしサッカーの話になったらどうしよう」
「大丈夫だよ。それに妹はスポーツのこと全然知らないから、できればそういう話はやめてくれっていっておいたよ」
翔太がいうと「それならいいんだけど」と、まだ不安そうな顔で答えた。
日曜日になると、羽矢は朝からひとりで忙しそうにしていた。
「この服変かな?」
「出すお菓子とか、何がいいんだろう」
「『こんにちは』っていえばいいのかな?『初めまして』の方がいいのかなあ」
何やってるんだよ、と翔太は笑った。ただ兄の友人に会うだけなのに、かなり緊張している。
「よし!これがいい!」
羽矢が薄いピンクのワンピースを着て部屋から出たと同時に、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、「久しぶりだな」といいながら菅原が入ってきた。
「本当に久しぶりだ。ゆっくりしてけよ」
翔太がいうと、菅原が「ほい」と大きな紙袋を差し出した。
「この店の大福がめっちゃおいしいんだよ。よかったら食ってくれ」
紙袋には大福以外にも団子や饅頭も入っていた。
「ふたりじゃ食べきれないよ」
そういうと、菅原がにやりと笑いながらいってきた。
「で、瀧川の妹はどこにいるんだ?」
その顔を見て、また「嫌な予感」の気配を感じた。
菅原をつれてリビングに行くと、緊張した顔で羽矢が立っていた。
「妹の羽矢だよ」
「ハヤ?聞いたことない名前だな」
ははは、と笑いながら羽矢に近づいていく。
「……初めまして……」
緊張した顔で笑いながら羽矢がいうと菅原は大声を出した。
「瀧川の妹可愛いなあ!オレの秋奈と取り替えてくれよ!」
翔太は答えず「お茶とお菓子、出してくれるか」と羽矢にいった。
羽矢は頷いて、キッチンに入っていった。
「紅茶以外ならなんでもいいぞ!」
菅原が大きな声で羽矢にいった。
羽矢がキッチンに行くと菅原は翔太に話しかけた。
高校生になって、こんなことがあった、あんなことがあった、といろいろな話しをした。
菅原は本当に明るくていいやつだ。
「これからも、ずっと仲良くしような」
菅原が太陽の笑顔でいった。
「もちろんだ」
翔太も笑いながらいった。
羽矢がお茶とお菓子を持ってやってくると、菅原は話しをやめ、にやにやしながら羽矢を見た。
翔太は菅原に「妹は人見知りだから、話しかけないでくれ」と始めにいっておいた。
「羽矢ちゃん、その服似合ってるな。すごく色っぽいよ」
羽矢はまだ緊張していたが、にっこりと笑って「ありがとうございます」と答えた。
翔太は「話しかけるなっていっただろう」と注意したが、菅原はまた羽矢にいった。
「将来モデルとかになれるよ。秋奈とは大違いだな。秋奈は胸も小さいし、全然女らしくない」
羽矢は少し黙ったが、「ありがとうございます」とまたいった。
「学校じゃモテモテだろう?」
菅原がまた羽矢に訊いてきた。翔太はもう一度「話しかけるな」といったが、完全に羽矢との2人きりの世界に行ってしまったようだ。
「いいえ。そんなことないです」
すると菅原は驚いた顔をして「オレだったら絶対告白するのに」といった。
「じゃあ好きな男とかもいない?」
「聞いてるのか」
翔太が立ち上がっていった。あまりにも馴れ馴れしい。
「羽矢に話しかけるな」
しかし菅原は無視し、「羽矢ちゃんは、どういう男と結婚したいのかな?」とやけに優しい声でいった。もうこの男は翔太の存在を忘れているのがわかった。
「羽矢、部屋に行け」
翔太がいうと、羽矢はすっと立ち上がり、くるりと背中を向けた。
菅原は残念そうな顔をした。
「なんでだよ。オレもっと羽矢ちゃんのこと知りたいのに」
翔太は鋭い眼光で菅原を睨んだ。菅原は気づいていなかった。
「待ってよ、羽矢ちゃん」
菅原が立ち上がって、羽矢の腕をつかんだ。羽矢は驚いていやあっと悲鳴をあげた。
「さわるな!」
翔太は菅原の腕をつかみ、羽矢から引き離した。
「羽矢にさわるな!」
睨みながら翔太がいった。
「は?」
菅原が気の抜けた声を出すと「羽矢にさわるな!出て行け!」と、もう一度いった。
「なんだよ、どうしたんだ?」
菅原が翔太と羽矢の顔を交互に見ながらいった。羽矢は泣いていた。
翔太は菅原の顔に湯のみの中の熱いお茶をかけた。そしてその湯のみを菅原の足もとに投げた。湯のみは割れ、粉々になった。
「何するんだ!」
菅原は翔太を殴ろうとした。
しかし床に散らばっていた湯のみの欠片を踏んで、「うわ!」と大声をあげた。
翔太は冷たい目で菅原にいった。
「羽矢を傷つけるやつは絶対に許さない。もうおまえは友だちでもなんでもない。ただの変態だ」
「なんだと!」
菅原がまた翔太に殴りかかろうとした。だがその時、羽矢が両手を広げて翔太の前に立った。
「やめてください」
くっと悔しそうな声を出して、菅原は拳を下ろした。女の子には絶対に乱暴をしてはいけない。
菅原は翔太を睨み、大声で怒鳴った。
「おまえ、妹想いのいいやつだと思ってたけど、ただのシスコンバカだったんだな!」
翔太は睨んだままで、何もいわなかった。
「おまえは頭が狂ってる。変態はおまえの方だろ」
菅原がまたいった。
翔太は無視して、泣いている羽矢の涙を手でぬぐいながら
「断ってるのに無理矢理サッカー部に入れて、人の話しが聞けないやつって本当迷惑な生き物だよな」
と冷ややかにいった。
菅原は「わかったよ!」と大声を出した。
「もうおまえとは二度と会わない!相談なんか、絶対にのらないからな!」
そして、大きな音をたてて玄関のドアを閉めた。
「……お兄ちゃん……」
羽矢が翔太に震える声でいった。
「……ごめんね……。あたしのせいで……。あたしが呼んでなんていわなかったら、こんなことにならなかったのに……」
「羽矢のせいじゃないよ」
翔太は優しくいった。羽矢の涙はとまらない。
「悪いのはあっちだ。羽矢に色目使いやがって」
「でも……別にあんなことしなくても」
「じゃあ、あの馴れ馴れしい男と一緒にいたかったか?」
翔太がいうと、羽矢は首を横に振った。
「いやだよ。あんな人。気持ち悪い」
「そうだろう。あれぐらいやっておかないと、また羽矢に会いに来るぞ」
羽矢は頷いた。そして「護ってくれてありがとう」といった。
これでいい、と翔太は思った。
昔から、翔太と羽矢はふたりきりで生きてきた。
羽矢がいれば、友だちなんかいらない。
いままでだってずっとそうしてきた。
「羽矢がいてくれれば、兄ちゃんは幸せだ。友だちなんて、いてもいなくてもどうでもいい」
翔太がいうと、
「あたしも」
と羽矢が小さくいった。