世の中のバランス
※ぐだぐだ話。なんだこれ。
世の中には、善人しかいないのだろうか?
いや、そんなことはないと分かっている。道を歩けば交通整理のポールを蹴りながら自転車を漕ぐ、傍迷惑な高校生のガキがいる。ニュースは毎日陰惨な事件を垂れ流し、それほど清廉な正義感を滾らせているわけでもない自分でも眉をしかめたくなる事実を伝えてくる。
そう、世間には確かに悪意が溢れている。
だがしかし、それは光也をわざわざ避けているのではないかと彼には思えるのだ。
佐野光也は二十五歳の男である。彼自身は至って普通の人間だ。年功序列で地位に就いただけの偉そうな上司の命令には内心で舌打ちを返す。帰りの電車で座ろうと後ろ向きになり、膝を折ろうとした瞬間に身体をねじ込んでくる押し出しの強いオバハンは、思わず頭をはたいてやりたくなる。
もちろん表には出さない。内心で怒り狂い、顔では愛想良く受け入れる。それが社会人の常識というものだ。
本音と建て前を使い分ける技術は経験と共に年々向上しているとは思う。ただ、やはり心の声とはどこかにはけ口を求めているものではないだろうか。
どれほど取り繕うのが上手い人間でも、透けてしまう瞬間はあるはずだ。やはりそれを見抜く目は年を追うごとに磨かれていく。他人と自分、どちらの利益を取るか。選択を迫られた際に、逡巡なく他人を取れる人間は希少だ。心根の構造が光也とは根本的に違っているのだと思う。光也なら、悪あがきとばかりに迷った末に、体裁を取り繕うために譲ろうとする。本音では相手が辞退することを願いながら。
ところが光也に親しく関わってくる人間は、なぜか希少な者ばかりだった。
まず、父と母だ。光也は物心ついた頃から感情のままに怒られたことがない。かといって甘やかし放題に育てられたわけでもない。
要するに両親は「叱る」と「怒る」を区別していた。
とにかく、悪さをすると父も母もまずしゃがんで目線を合わせてきた。そして光也の行動の結果誰がどのような迷惑を被るか理路整然と説明し、なぜしてはいけないかを幼い我が子にも分かりやすいよう明確にした。そして光也には関係者にきっちり謝罪させ、両親も共に頭を下げた。
こんなことを何度も繰り返していると、そのうち悪さをすること自体がアホらしくなってくる。行為に爽快感や憂さ晴らし等のメリットが見出せなくなるのだ。それを光也少年は六歳にしてどうしようもなく理解し、ハメを外すにしても境界線をキッチリ引いて、親を呼ばれない程度までに留めた。
ちなみに両親は暇な老人しかやりたがらない町内会の役員にも積極的に立候補し、ボランティアを募られれば喜んで参加する。忙しいからといって子供との関係性も疎かにしない。
「自己満足な子供との対話」ではなく、心から楽しそうに光也の話を聴く。それも鬱陶しく触れられたくない部分まで踏み込んでくるでなく、息子も感心するほどの絶妙な距離感を保って興味を示してくるのだ。
これほどお手本のような二人に育てられてどうしてこんなに普通な自分が形成されてしまったのか、光也自身も首を傾げるばかりである。
光也には兄が一人いる。二つ年上の兄は身長が低く頬も福々しいぽっちゃり体型で、顔かたちも整っているとはいえない。はっきりいって光也の方がよほど見目はいい。事実、彼は結構もてるのだ。
しかし、兄は両親の気質を光也の分まで奪い取ったかのようにこれまた人格が素晴らしかった。別に聖人君子のようなというわけではない。むしろそうであった方が胡散臭く、光也としても疑いを持てただろう。そして兄に反発もできただろう。
今は途絶えて久しいが、小学校までは兄とも普通に喧嘩していた。子供に相応しい、どちらが先に風呂へ入るとか、ごく下らない理由から起こる諍いだ。
光也が兄を凄いと思っていた点は、どんな喧嘩でも必ず先に謝ってくるところだ。自分の何が悪かったかをいちいち述べて、それから詫びを入れてくる。数学の証明を習ってから「ゆえに」マークを見るたびに、光也は兄の釈明を思い出したものだ。
ただ、それだけなら嫌みなヤツとやはり光也も辛い点をつけられただろう。
ところが兄は、さすがはあの両親の長男だった。
兄は自分が謝罪した後、今度は光也の問題点を指摘してくるのである。貶める意図が微塵も含まれていない指摘にはただ真っ直ぐな弟の自省、果ては人格向上への願いが込められていて、ここで「ごちゃごちゃうっせんだよバーカバーカ!」と捨て台詞を吐いてその場から飛び出せる人間がいるなら、お目にかかりたいくらいであった。そう思えるほどには光也自身も周りの人間に感化されていた。
当然光也は否応なく納得させられた上でこうべを垂れ、兄との喧嘩に禍根を残したことは今まで一度もない。
思えば光也が生まれるまで、兄はただ一身に親の理論を叩き込まれてきたのだ。言わば純粋培養である。勝てるはずがなかった。
そんな風なものだから、光也目当てで家に来た女も、少し接する内に兄の人格にコロッと参ってしまう。いずれ衰える容姿ではなく、内面から光を放つ色褪せない魅力に打ち抜かれるのだ。弟相手の場合は軽いノリでも、兄には一度転がってしまえば心酔するというパターンがほとんどだった。
兄は来年、二十八歳という若さで課長への昇進がほぼ決定している。異例の速さだ。
先進的な業務形態を持つ大企業には、きっと足を引っ張ろうとする有象無象どももいたことだろう。しかし、と生まれた時から兄の輝かしい人柄を見せつけられていた弟は思う。
恐らく兄は、それらの人間をことごとくシンパに変えてきたのだ。それも意図せずに、心の内から滲み出てきたものによって。善意を当たり前のように持つ人間は、それを善意とは意識しないものだ。
いずれ社長になるのではないかと空恐ろしい想像を抱かせる将来性抜群の兄は、昨年結婚した。
競争率の高い戦いを勝ち抜き見事将を射たのは兄と同じ職場の、総合職の女性だった。兄よりも背が高く、学生の頃は街を歩けばスカウトの名刺が束になったという義姉は仕事を何よりも愛しており、会社からも性別の垣根を越えて将来を嘱望されていたはずだった。ところがなんと、結婚した途端にあっさり退職してしまった。
兄のために家を整え、兄のために料理の腕を磨きたいというのだ。愛しい男に心底イカれてしまった才色兼備な義姉は、知り合いの一流シェフから請われた腕をふるい、兄の胃袋をガッチリ掴んで離さない。いずれ子供を授かり、笑顔に包まれた理想的な家庭を築くことだろう。
ちなみに家は二世帯住宅に改装され、プライベートスペースの確保と同居の夢を叶えた両親は喜んでいる。嫁姑関係も良好で、お互いに得意分野の料理を教え合ったりもしているらしい。
特にどうでもいいことではあるが、光也は大学の頃から独り暮らしだ。
煌めかんばかりな兄の人生には最早嫉妬心も起こらず、幸せな人生を送ることが決定している二人を両親と共に祝福するばかりである。
光也に関わる善人は、家族ばかりではない。大体学校生活の中では、クラスの友達と仲良くなる。学年が上がる中でクラス替えは行われ、それと共に友達は変わる。
そして新しく出来る友達は、なぜか必ず善意に満ちた人間だったりするのだ。
どうして小学校二年生の子供が、「くれ」と一言いわれただけで、余ったデザートのプリンを惜しげもなく光也に譲ることができるのか。十回のジャンケンを勝ち抜いた末ゲットしたにも関わらず、だ。
どうして小学校四年生の子供が、忘れ物をした光也に自らの水着を貸し与え、風邪気味だから丁度良かったなどと心からの笑顔で言えるのか。タイムを計るテストの日で、自分が誰よりも張り切って練習していたにも関わらず、だ。
歴代の友人たちは一事が万事そんな調子で、光也が侮辱されれば我が事のように、いや、本人以上にその相手に食ってかかり、喜ばしい事が起こればこれまた当人でも敵わない反応を見せた。しかも光也などと関わって何が楽しいのか、社会人になった今でも向こうの方から積極的に交流が続いている。
会社に入ってからもやはり言わずもがな。
作業の手伝いを頼んでも渋い顔一つ見せず引き受けてくれる同僚たちが飲み会で、嫌な上司の愚痴を叫んでいるところなど聞いたことがない。
皆、酔っても大層楽しい酒で、光也などは今日こそ愚痴大会に発展させようと意気込んでも、毒気は途中ですっかり抜かれてしまう。つられて陽気に騒いでいる内に、くすぶる不満は気に留めるほどでもない瑣末な事に感じられ、ストレスも立ち所に昇華されてしまうのであった。さらに同僚たちは光也の心中を見抜いたように上司の美点を指折り挙げていき、大袈裟に膨らませていく。望むべくもない最高の上司だと洗脳された光也は、週明け上司への挨拶が恭しくなってしまうほどだった。
尤も、一日過ごしただけでその評価は元に戻ってしまうわけだが。
ついこの間などは恋人も出来た。彼女についても説明は不要だろう。顔だって彼好みで可愛い。他に目を向けようとも思わない。結婚するなら彼女しかいないと思えるほど、心から愛している。もちろん彼女も同じ気持ちでいてくれている。
しかし、とどうしても光也は思ってしまうのだ。
大した人格者でもない自分が、これほど善人たちに囲まれていていいものか、と。
最近、光也の趣味にドライブが加わった。彼女とのデートがない日、一人でそのあたりをぶらぶら走る。
例えば片道一車線の道路で、対向車線側に住宅街などから合流する狭い道が交差していたとする。その狭い道に左折のウィンカーを点滅させている車がいるとする。つまりその左折車は、光也の対向車線に乗りたいのだ。
こういった場合少し気の利いたドライバーなら、なるべく左に寄って走行してやるものだ。そうすれば道幅は広くなり、相手は自分が通り過ぎるのを待たなくてもよくなる。少しでも早くスムーズに通行してもらうための配慮だ。
ところが光也はなるべくセンターライン寄りを走るようにした。いかにも僕はただ気がつかなかっただけですよ、わざとじゃありませんよという顔をして。端的にいって嫌がらせである。
例えば縦列で止める駐車場があったとする。
そういった場合、運転に慣れた者なら自分も前後の車も出やすい間隔を開けて、駐車するものだ。
しかし光也の場合、どちらか(なるべくトラブルに発展しそうにない車。例えば軽とか)を選び、その車が何度も何度もハンドルを切ってバックと前進をくり返してやっと出られる程度の車間を空けて、止めるようにした。いかにも縦列駐車に馴れてませんよという風情を装って。言うまでもなく嫌がらせである。
周りが善人ばかりの分どうしても、代わりに光也が悪意を振りまかないとバランスが取れないような気がするのだ。ここに善意が集中しすぎて他の場所にその分の悪意が飛んでいっている、と考えるのは迷信的すぎるとも思うが、あり得ないことだとも言い切れない。そして何らかの揺り返しが起きて、あの人格者たちに総決算のような悪意が降りかからないとも限らない。
光也は善意から出た悪意という自分にもよく判らない大儀を掲げた。
とはいえ、凶悪犯罪に走って善意に満ちた家族や友人たちを嘆かせるつもりは毛頭ない。
というわけで悪人にも善人になれない平凡な光也は、日々セコい悪事をなんとか頭から捻出してちまちま励んでいる。