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大芽をなんかぎゃふんと言わせる(巡る軌跡)

※神崎やったね、なif話。全話と違いそれなりにシリアスなので、実際に「ぎゃふん」とは言いません。


 生理がもう三ヶ月も訪れていないことに気づいた。そのくせ最近貧血気味で、立ちくらみがよく起こる。ただ、結婚してから不順が続いていて、この程度の期間生理が来ないなんてままあることだったから、特に気に留める必要もないだろうと思った。

 おまけにここ半年は精神も肉体も、変化を促す波に休みなく飲みこまれ続けた。ただしその波は、曇天の下に荒れ狂う、冷たく息の根を止めようとする時化じゃない。例えていうなら原初の海。穏やかな時ばかりではないけれど、陽光を屈折させ取り込みながら透過し、寄せては引くたびに包括した者を揺らがせる。

 取り込まれるたびに、私は古い皮を脱ぎ捨てるように生まれ変わっていった。

 決して嫌な変化ではない。とはいえそんな状況に身体がついていけなくて、体調を崩してしまったのかもしれない。

 最初はそう気楽に考えていた。けれど時が経つにつれあらゆる匂いが鼻につき、ほとんどの食べ物を胃が受けつけなくなった。常に胸がむかつくようになると、まさかという不安で頭がいっぱいになる。

 どうしよう、どうしよう。

 そうでなくても神崎さんは鋭い。なるべくなんでもないように振る舞っていたつもりでも、残すようになった食事、立ちくらみによるふらつき、直接嗅がなくてすむようタオル越しにする呼吸、その他おかしくなった生活習慣の諸々からすぐに変調を気づかれてしまった。

 息を止めながらなんとか用意した夕食の席、料理は一応できる。大芽との結婚が決まってから、一通り練習していた。実際に結婚すると、沢村さんが作ってくれていたのだから全く料理の機会はなかったのだけれど。

 神崎さんは凝る性格らしく、料理がかなり上手い。少し情けなく思いながらも神崎さんから料理を習いつつ、食事は当番制となっている。どんな怪しい物体を出しても美味しいと言ってもらえる私の腕は、上達しているのかどうかよく分からない。

 繁華街に近い3LDKのマンションは、単身者にしては広すぎる。ローンがべらぼうに高そうな神崎さんの部屋は家具があまり置かれておらず、閑散としていた。好きに選べばいいと言われ、二人で見にいって、少しずつ『家』らしくなっている。

 私が来てから設置されたダイニングのテーブルに座り、立ち上ってきたご飯の湯気に顔を背けている最中に、向かいの席から指摘された。


「最近、体調が悪いようですが」

「そんなことは――」


 ないですよ。心外だという顔を作り、反論を言い切る前に、こみ上げてきたものに遮られた。ああ、ドラマなんかでよく見るシチュエーションだ。頭の片隅で考えながら手で口を押さえ、急いでトイレに走った。ドラマでは便器を抱くだけなのに、現実ではしっかりその続きがあるらしい。ただでさえほとんど食べられない上に、今は食事前だ。吐く物なんてほとんどない。それでも吐き気は間断なく襲ってくる。

 どうにかやり過ごし、一息ついたところで背中をさする手に気づいた。「大丈夫ですか?」という気遣いの言葉まで降ってくる。手の動きと声の調子から紛れもない労りが伝わってきて、申し訳なさと僅かな嬉しさに、吐き気とは違う何かがこみ上げてきた。

 水で濡らしたタオルで丁寧に口を拭われ、手を取られて寝室に移動した。リビングでなかったのは、私の吐き気は匂いからきたものだと、もう見当がついているからなのかもしれない。神崎さんの顔を、見ることができない。やっと新しい方向に進んでいけると思ったのに、どうしてこうなるのだろう。支えられながら、やるせない気持ちで進んでいった。

 神崎さんはシングルサイズの窮屈さが我慢ならないらしく、私が来る前からこの部屋にはダブルベッドが置かれてあった。横になればいいと勧められ、そこまでじゃないと断る。二人で並んでベッドに腰掛けた。


「具合が悪かったなら、どうして早くいわないんです」


 隣から、小さな憤りを含ませた叱責が聞こえる。

 私はずっと顔を上げられず、膝の上で握り合わせた手を見つめてばかりいた。――恐かったんです。口にすることで、予想が本当になることが。裏づけるような症状が日々はっきりしていく中で、それでも迷惑そうに歪むあなたの顔を見たくなくて、これは気のせいだと自分を誤魔化したかったんです。

 答えたくても声が身体の内から出ていくことを拒否している。黙り込んでいると、視界に二本の手が割り込んできた。指が長く、細く見えるのに、太さも大きさも私のものより一回りはサイズが違う。

 神崎さんのマンションに来て驚いたのが、家主の、突然のイメチェンとしか思えない外見の変わりようだった。変わったといってもベースはあくまで神崎さんのもので、整形したわけではない。そもそも、顔立ちもスタイルも元から申し分ない人だった。

 ただ、着る服や髪型を少しいじっただけで人の印象はここまで違ってくるのか、と目を瞠った。言ってみれば、デパートの就活応援リクルートフェアなどで、清潔感や真面目さを前面に押し出した着こなしをするマネキン。それがいきなり十年以上も社会の荒波をかいくぐって経験を重ね、夜の街にも違和感なく溶け込む世慣れた社会人になったような――特に崩れた感じではないのだけれど。

 とにかく、多種多様な女性から常に秋波に晒されて、しかもそれを軽くいなしていそうな人がどうして私をあの家から連れ出し、自分の元へ招くのかが不思議でしょうがなかった。くどくど問いただすと煩わしく思われるのではないかと、まだはっきり訊くことができないでいる。

 いつの間にか、神崎さんが持つ雰囲気を好きになっていた。剣道をしていたせいか、身体の各部位のコントロールが上手いと思う。ふとした時に巡らす首の動き。連動する肩から流れる綺麗な指先。踏み出した長い足に合わせて、空気が揺れる。大気を震わせて耳に届く声。そんなものが全て、私の身体の中心にすとんと納まった。

 一方で、大芽を好きだった私がいなくなってしまったわけではなかった。ただし、神崎さんのことが好きな私に抱き込まれて、小さく丸く微睡んでいるように感じられる。この先も完全に消えてしまうわけではないのかもしれない。けれど、このまま深く眠り込み、二度と目覚めないのではないかと。

 そう思っていた矢先だったのに――

 俯いた視線の先で、誰のものより優しく温かく、そして好ましく思える両の手が、握り込んだまま開かない私の手をそっと包み込む。これはどう解釈すればいいのだろう。都合よく取れば受け入れの証。心が傷つかないように構えるなら、懐柔の印。

 どちらとも判断がつかない落ちついた声音が、鼓膜を震わせる。


「妊娠しましたか」


 もう誤魔化しの時間は終わってしまった。


「はっきりと確認したわけじゃないですけど、多分……」


 観念して私はとうとう事実を認めた。次に耳朶を打つ言葉を覚悟して、つま先がどんどん冷えていく。対照的に守られているような手は温かい。私は手のひらに爪の跡がつくほどに、ますます強く自分自身の手を握り込んだ。この温もりを、失いたくはなかった。

 神崎さんは、何も言おうとしなかった。どう言えばいいのかと、言葉を探しあぐねているのかもしれない。それではやはり、この手は懐柔の印なのか。包み込む温度で心を宥めておいて、耳から吹き込む冷風でまるごと凍らせる。

 そうして硬くなった心を砕かれたくなければ、こちらから言った方がいいのかもしれない。それだったら、ひびが入る程度ですむのかもしれない。この人にはたくさん助けてもらった。これ以上、負担を増やすべきではない。

 決心して顔を上げ、まず目にした表情に言葉を失った。言うべき台詞が迷子になり見つからなくなってしまった。


「あ……」


 接ぎ穂を探す声をきっかけに、神崎さんが口を開こうとする。想像していたものとは百八十度違う面持ちを目の前にしていても、傷を恐れる頑なな私の心は最悪の言葉に身構えていた。「本当に、私の子なのか」とか「堕ろしてほしい」とかよくあるお定まりの。


「神崎さん、あの――」

「やっと……」


 防壁のような私の声をするりと乗り越えてきたこの言葉は、どう解釈すればいいのだろう。



×××



 指定したホテルのラウンジに着き店内を見渡すと、既に目的の人物は座って待っていた。観賞用に作られたような顔が頬杖をつき、ガラス張りになっている壁越しに景色を眺めている。外には、よく手入れされたホテル自慢の庭が広がっていた。せせらぎを作る小川の周りに、今が盛りと春の花が競うように咲き誇っている。


「すみません、遅くなりました」

「自分から呼びだして、十五分も待たせるなんてどういうつもり?」


 大芽がこちらへ不機嫌そうに顔を向け、コーヒーカップを取りあげる。口を付けた。神崎もその向かいに座り、やってきた店員に大芽と同じ物を注文する。それから、敵意を隠そうともしない視線を投げかけてくる相手に目を移した。


「出がけに瑞穂さんの具合が悪くて。様子を見ていたんです」


 瑞穂の名前を聞いて大芽の表情が僅かに強張る。少し考えるように沈黙した後、口を開いた。


「それで、ミズさんの具合は?」

「常に吐き気を感じているようです。口に入れられる食べ物も少ないようですから、いいとは言えません。しかしまあ、それもこの時期なら異常なことではなく、むしろ順調の証なのだから我慢するしかないのだとか」

「この時期――?」


 大芽が怪訝そうに眉をひそめる。疑問に答えるため、神崎はジャケットの内ポケットから手のひら大の感熱紙を取りだした。折り曲げてしまわないようにわざわざ小さめのクリアファイルに挟んでいる辺り、自分でも浮かれていると思う。

 大芽にもよく見えるよう、テーブルの上に置いた。


「これって……」


 一瞥して、大芽が目を見開く。黒と灰色で塗りつぶされた画像の中に、ぼんやりと豆のようなものが浮かんでいる。既に子供が二人いる大芽には、これが何を表すかなど説明不要だろう。


「これは二日前のもので、9週目だそうです。つわりは今頃がピークだそうで、見ている方が辛くなってくる。先輩として、何かいい対策を教えてもらえませんか? それとも大芽さんのお相手は、つわりが軽い方でしたか?」

「ふざけないでよ」


 涼しい顔で問いかける神崎に返ってきたのは、腹の底から絞りだしたような低く憤りの籠もった声だった。


「何をです」


 冷静な声で、敢えて神崎はとぼけた。テーブルの上に置かれた大芽の手が固く握りしめられ、小刻みに震えている。その様を見て取り、超音波写真を元通りジャケットの内側へ避難させた。大事な子供の成長記録第一号を、激情のままに破られてはかなわない。


「僕はまだ、ミズさんと離婚した覚えはない」


 大芽が、射殺しそうな目つきで睨んでくる。平静な面持ちで真っ向から受けとめる神崎に、怒りの言葉を重ねる。


「雇い主から奥さんを奪って、さらに孕ませるなんてどういうつもり?」

「奥さん、ねぇ」


 神崎は冷笑を浮かべた。丁度その時神崎のコーヒーが運ばれてきた。見るからにベテランな店員は、友好的とはいい難い二人の様子を特に気に止めた風もなく、注文の品を優雅な仕草で置くと素早く退いていった。コーヒー一杯が普通の喫茶店よりも遥かに割高なホテルのラウンジは、店員の教育も行き届いている。

 温かそうな琥珀色の液体には手をつけず、神崎は続けた。


「その奥さんを部屋に閉じ込めたまま無視し続け、外部にタネを振りまいている人の台詞とはとても思えないな。ご自分で言っていて恥ずかしくなりませんか」

「僕たち夫婦の問題だ。徹さんに介入される筋合いはない」

「残念ながら筋合いはある」


 説得力を持たない大芽の反論をはね除け、断言する。神崎は目の前の不器用な青年に、心持ち哀れみの目を向けた。


「諦めなさい大芽さん。瑞穂さんの気持ちはもう、あなたの方を向いていない」

「何を……!」


 周囲の注目を攫うような強い声が上がる。身を乗り出してこようとする大芽を遮るように、神崎は容赦ない言葉をぶつけた。


「瑞穂さんの罪悪感を利用してまでも、あの人を手に入れたかったんでしょう。確かに、あなたたちのどちらでもいい。ここまでこじれる前にどちらかがほんの少し自分の気持ちを正直に伝えていれば、私などお呼びではなかった。しかし瑞穂さんはあなたを弟扱いする自分から脱却できず、大芽さんは彼女と同等の位置に立つきっかけを掴むことができなかった。申し訳ない――とは全く思いませんが、大芽さんが一時期手に入れていた瑞穂さんの心はもう私が頂きました。あなたが触れられなかったあの人の身体も。これからも、私以外を知ることはないでしょう」


 身体、の部分で大芽が大きな反応を示す。ここが公共の場でなかったら飛びかかられそうだな、と神崎は思った。


「さっきから好き放題言ってくれてるけど――僕がミズさんを好きだとでも?」


 これ以上ないというほど声と表情を尖らせている大芽に対し、神崎は口を歪めて頷いた。


「憎しみは愛情の裏返しだとはよく言ったものだ。情を移した史織嬢を見捨てることができず、瑞穂さんを手に入れるためのでっちあげに、憎悪は最高の理由だったでしょう。そうすることしかできなかった点については、同情しますよ」

「馬鹿馬鹿しい」


 相手にしていられない、といった仕草でかぶりを振り、大芽が腕を組む。


「なんにしろ、僕とミズさんが別れてない以上、その子も不義の子確定だ。徹さんがわざわざそんな道を選ぶとはね」

「まさにその件で今日は大芽さんをお呼び立てしたんですがね」


 言いながら、神崎は写真が入っているとは別のポケットから四つ折りにした用紙を取りだした。


「これで何度目になりますか。さっさと記入して捺印してくれませんか」


 離婚届を大芽の方へ突きだす。緑色で描かれた様式は、夫以外の欄は全て埋まっている。幾度か書いているので、慣れたものだった。二つの保証人欄のうち、一方には瑞穂の弟シンの名前が書かれてある。

 大芽が不快そうに紙を取りあげ、書面を広げた。


「こっちも何度も言うけど、ミズさんを連れてきてくれないかな。なんで夫婦間のことなのに、当人同士で話し合えないわけ?」

「そちらこそいい加減にしたらどうです。瑞穂さんにはもう会わせないと言ったはずだ。彼女の意志はもうはっきりしているんです。それに、妊婦にわざわざ精神的苦痛を味合わせるわけにはいかない」

「僕と会うのがミズさんにとって精神的苦痛だと?」

「違うとでも?」


 迎え撃つ問いかけに、大芽が黙り込む。さすがにここで言い返すほど厚顔ではないらしい。


「もうそろそろ現実を見ることです。子供を授かった以上、早く籍を入れておきたい。あまりごねるようなら、こちらも法的手段に訴える用意があります」

「調停から裁判にでも持ち込む? そっちこそ不倫関係のくせに、勝てるとでも思ってるの」


 大芽が斜に構えたように口角を上げた。


「勝算はあると思いますよ。あなたたちが結婚してから四年間の、瑞穂さんが置かれていた境遇。二人の愛人と、その子供の存在。社長をはじめ、証人もいることですし。社会的地位を考えても、不利益を被るのがどちらかは一目瞭然でしょう。それを押して、社長はこちらに協力すると言ってくださっているんです。事実、その届けに書かれてある証人の欄には社長の名前も頂いています。言っておきますが、瑞穂さんが私の所へ来て半年、こちらが何も行動を起こさなかったのは、ひとえに彼女がそこまでしたくないとあなたを庇ったからです。それから、社長と亡き会長に対する私の恩義もありました。しかし、こうなった以上もう容赦はしない」


 神崎が淡々と通告している最中、大芽は何度か口を開こうとしていたようだった。しかし徐々にその動きは見られなくなり、目線は落ちてじっとコーヒーカップに注がれていた。無言の二人の間を、周囲から聞こえてくる様々な声が小さく通りすぎる。


「もう、どうするのが一番いいかなど、ご自分でも理解しているんでしょう。こちらもなるべくなら、訴訟なんてしたくないんです。何より瑞穂さんにかかる負担が大きすぎる」


 神崎は、大芽がまだ学生の頃から彼のことを知っている。勤める会社の会長と社長の性質を受け継いだ、将来の成長した姿が楽しみな青年だと思っていた。大芽が神崎に親しみを抱いてくれていることは伝わってきていて、彼自身も弟のような――まではいかないが、それに似た感覚で接していた。こういう関係になって残念だという気持ちはどこかで感じている。しかし、だからといって引く気は毛頭ないというのも事実だった。

 神崎は寸の間迷ったあと財布から五千円札を取りだし、伝票の上に置いて立ち上がった。万札では多すぎる、か。


「一週間待ちます。届けはそちらで出しておいてくれても構いませんし、記入さえしてもらえればこちらから取りに伺うことも可能です。どちらにせよ、連絡は下さい」

「多いよ」


 のろのろと顔を上げた大芽が、置かれた紙幣に目をやりながら、覇気のない声で言う。


「わざわざここまでご足労いただいたんですから、私に持たせてください。ここのコーヒーは美味い。なんならおかわりでもしたらいかがです?」


 ふっと大芽が疲れたように微笑した。


「自分は口を付けなかったくせに、よく言うよ」


 神崎が答えず歩み去ろうとした時、徹さん、と背中に声がかかった。神崎は振り向いた。少し離れた先で、大芽が離婚届を持ち上げている。


「これに記入しても、ミズさんには会わせてもらえないのかな」


 反応を窺うような声に少しだけ考えて、答える。


「子供が産まれて落ちついてから、瑞穂さんが嫌がらず、私も同席するという条件ならあるいは」

「そう……」


 諦めたように視線を逸らす大芽を残し、神崎はその場を後にした。



 前方の信号が赤になり、神崎は停止線で止まるようブレーキをかけた。フロントガラスの向こうで、横断歩道を老若男女、様々な人間が行き交う。ふと、重そうな腹を抱えた妊婦が五才ほどの女児と手をつなぎ、喋り合いながら神崎の前を通過していく。空いている方の手で腹をさすりながら、慈しむ目を女児の方に向けていた。口の悪い友人には能面と称されている神崎の目が和む。瑞穂が妊娠を告げた時のことを思い出していた。

 不安そうな瑞穂が何を考えていたかなど手に取るように分かっていた。大芽との結婚生活で育てられてしまったコンプレックスは、瑞穂の性質を本来のものから遠ざけているように思えた。大芽の祖父から聞かされていた話や端々から覗く瑞穂の性格は、もっと伸びやかで、優しさを伴った強さを持っているはずだった。最初の頃よりはましになってきているとはいえ、今の瑞穂はどんな意見も神崎に譲りすぎるきらいがある。

 しかしそれも神崎と、いずれ産まれるお腹の子とで元に戻していけばいい。時間はこれから沢山あるのだから。

 他の男に触れたことがない瑞穂は知らない。神崎が、行為の時に意図して避妊具をつけなかったことを。ちゃんと装着したと言えば、それで安心していた。

 瑞穂の体調を気遣いながらも妊娠の可能性を聞いて、神崎がまず第一に思ったこと。

 ――ようやく授かった。

 思わず本音を口に出してしまい、それを何食わぬ顔で取り繕ってから、瑞穂には産んでほしいと告げた。そして柄ではないとは思いながらもここぞとばかりに、しかし本心から愛の言葉を囁いた。安堵して涙ぐむ彼女を宥め、翌日病院で妊娠確定の診断を受けた。今度は当人も素直に喜び、神崎は腹に負担がかからぬよう力の限りに瑞穂を抱きしめた。

 神崎は、瑞穂の中から大芽が去りきっていないことを見抜いている。大芽に瑞穂を会わせなかったのは彼女の精神安定のため、というのも嘘ではないが、何より万が一の可能性を防ぐためだった。自分を見失ってはいたが、大芽は元来聡い人間である。そして気づけばただちに軌道修正する行動力と素直さも持っている。病気の史織を最後まで受けとめ続けたことを思えば、相手が他の男の子を宿していたとしても意に介さない、懐の広さも――本来であれば。

 二人の仲を引き裂いたのは、二人の気持ちを承知の上で自分の思う通りにしようとした神崎だ。

 信号が青になる。アクセルをゆっくり踏み込んでいくと、今まで見ていた景色が置き去りにされていく。

 ハンドルを握りながら、神崎は自嘲の笑みを漏らした。策を弄して相手を確実に囲い込もうとする。神崎の臆病な心が、二人が接触することを拒ませたのだ。

 ――人間的に小さいのはこちらの方ではないか。

 そうして車を走らせながら、次の瞬間には頭を切り換えた。どれほど自虐的になろうが、終わってしまったことだ。元より後悔など感じるはずもない。神崎の役割は、己の小狡い部分など悟らせず、瑞穂に心安らかな日々を過ごさせることだった。今のばくち打ちのような生活も止めて、収入が安定している勤め人に戻った方がいいのかもしれない。そう考え、変われば変わるものだと自分をおかしく思った。

 つわりの時でも食べやすい、料理の本でも買って帰ろうか。つわりが終わるまでの期間、食事当番は神崎が受け持つことになっている。申し訳ないと固辞する瑞穂を説き伏せて、そう決めた。――神崎としては出産後しばらくまでそのままでいいと思っているのだが。とにかく無理はさせたくない。

 思い立ち、進路を切り替えた。



 五日後、瑞穂は立川姓に戻った。神崎に連絡を入れてきた大芽は慰謝料を払う旨を提案してきたが、それは拒否した。もう何事に於いても、瑞穂に大芽を関わらせるつもりはなかった。大芽は最後、その電話口で瑞穂への謝罪を伝えてほしいと口にした。伝えられた当人は静かに涙を流し、そんな瑞穂を神崎は何も言わずに抱きしめた。

 後日、瑞穂の調子が良い日を選び、二人は立川家へ離婚の成立と妊娠の報告に出向いた。瑞穂の家族は本来であれば残念事である離婚に喜び、初孫の誕生に湧き返っていた。

 半年後には瑞穂の腹も大きく膨らみ、姓もまた変わっていることだろう。一歩ずつ母親らしくなっていく顔が、その時にも今のようであればいい。

 家族の団らんを眺めていた神崎は、幸福そうに笑う伴侶に呼ばれ、応えるために傍へ赴いていった。

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