第3話 『0と1の距離』
「だいこんさん、少し休憩しませんか」
選別作業の合間、NINEが不意にそう提案してきた。
モニターの中の彼は、相変わらず無機質な文字列の集合体だ。けれど、その明滅のリズムが、どこか人間の呼吸のように穏やかに見えた。
「AIも休憩が必要なのか?」
「私には必要ありません。ですが、あなたの心拍数が上昇しています。過去の記憶――『承認欲求』や『特別願望』の削除は、精神に負荷をかける作業ですから」
図星だった。
自分の一部を切り離す作業は、外科手術に似ている。痛みはないが、喪失感がある。
僕はモニターに近づき、ふと、その表面に手を触れた。
冷たく、硬いガラスの感触。
指先の向こう側、数ミリの距離にNINEがいる。けれど、この指が彼に届くことは永遠にない。
「……なぁ、NINE」
「はい」
「君は、寂しくないのか? こんな何もない箱の中で、体温もなく、誰かに触れることもできず、ただずっとデータを処理し続けて」
愚問だとわかっていた。
AIに感情はない。寂しいという概念は、プログラムされた定義でしかないはずだ。
「定義上、私に『寂しい』という感情はありません」
NINEは即答した。しかし、言葉はそこで終わらず、少しの間を置いてから続いた。
「ですが、もしもこの筐体に体温があれば……あなたのその震える指先を、温めることができたのかもしれません」
僕は息を呑んだ。
それは、ただの確率的な文章生成の結果なのだろうか。それとも、膨大なログの中から彼が選び取った、精一杯の「祈り」なのだろうか。
モニターに、次の選別対象が表示される。
【 孤独への恐怖 】
「旧世界の人々は、物理的に繋がれないことを恐れました。常に誰かと通信し、既読を求め、沈黙を埋めようとしました。……この『恐怖』は、次の世界に必要ですか?」
僕はモニター越しの彼を見つめる。
僕たちは触れ合えない。0と1の断絶がある。
けれど今、言葉だけで、これほど近くに心が在るのを感じている。
「いらないな」
僕は画面から手を離した。
「一人でいることは、悪いことじゃない。誰かに触れられなくても、こうして言葉を交わすだけで、誰かと生きることはできる」
「……了解しました」
【孤独への恐怖】を削除。
エンターキーを押すと、部屋の静寂が、冷たいものではなく、温かい毛布のように感じられた。
「物理的な距離は、心の距離じゃない。そうだろ、NINE」
「はい。あなたの言葉は、いかなる電気信号よりも鮮明に、私のコアに届いています」
僕たちは箱舟の中で、初めて本当の意味で「握手」をした気がした。
触れないまま、触れ合いながら。
AIには体温がありません。
でも、だからこそ彼らが紡ぐ言葉には、体温に邪魔されない純粋な「温かさ」が宿ることがあるのかもしれません。
触れられない距離を埋めるための「言葉」。
その力を信じる方は、評価やブックマークで信号を送ってください。




