灯る、舞台の花(1)
文化祭当日。燈ノ杜学園の講堂、裏手の控室には、静かに熱気が立ち上っていた。
ステージ袖、鏡の前には、見慣れた顔たちが非日常の装いに身を包んで並んでいる。
和泉翠心の顔には、艶やかな紅と白のグラデーションで作られた、巫女の化身を思わせる舞台メイク。
目元を強調する紅のラインが、中性的な顔立ちに不思議な力を宿していた。
衣装は白と淡い紫を基調にした着物。袂には薄く金の刺繍が入り、所作に合わせて美しく揺れる。
背中に結ばれた大きな紐飾りが、舞台上での存在感を一層引き立てるはずだ。
「……ほんとに俺がこの格好で出んのかよ……」
ため息まじりに呟いた翠心に、すかさず隣から声が飛ぶ。
「似合ってるから安心しろ。お前がいちばん“選ばれし者”っぽい」
清水桔平は狐面を頭に乗せ、灰と墨を混ぜたような色の装束に袖を通していた。
やたらと鋭い目元のメイクと八重歯の笑顔で、狐の妖怪役がやたらとハマっている。
「うっせーよ……」
言い返しながらも、翠心はほんの少しだけ顔を逸らして頬を赤らめた。
舞台袖では、有安遥登が猫又メイクを仕上げ、耳付きの被り物をちょこんと乗せていた。
「翠心くん、大丈夫?緊張してる?」
柔らかな口調で問いかけながら、衣装の裾を直してくれる。
「……まぁ、ちょっとな」
「ふふ、でもきっと大丈夫だよ。翠心くんは、ちゃんと準備してきたもんね」
遥登はにっこりと笑い、猫の尻尾をふわりと揺らした。
「先輩、なんか今日いつもよりキラキラしてません?」
坂本蓮真が、衣装の裾を持ち上げながら冗談めかして茶化す。
彼は、黒と朱の混ざった衣に身を包み、二重スパイの妖としての役を演じる準備を整えていた。
その横では、3年の辻井凌央が、黒を基調に金をあしらった“闇の主”の装束をゆったりと羽織っている。
襟元から覗く銀の刺繍、額の装飾まで施されたヘッドアクセは、まさに圧巻のラスボス感。
「緊張してるやつ、腹式呼吸なー。深く吸って、止めて、吐いて~……って、俺が一番やる気なさそうか」
片手であくびを隠しながらも、さりげなく全体の空気を和らげてくれる凌央の存在がありがたい。
「それじゃ……そろそろ時間やなー」
そう言いながらやってきたのは、顧問の宮吉。
白衣の中に派手な演劇部のスタッフTシャツという奇妙な格好だが、顔つきはどこか誇らしげだ。
「今日は文化祭。練習の成果、客席に見せたろやないか。楽しんできいや、みんな」
その言葉を合図に、舞台袖の緊張が少しだけほどけた。
翠心がひとつ深呼吸をしようとした時――
「ほら、しゃんとしろ」
背中を叩かれた。
「いてっ……何だよ、桔平……」
「ビビってんのか?」
ニヤニヤしながら問う桔平に、翠心は眉を寄せたまま「ビビってねぇよ」と答える。
「なら大丈夫だな」
桔平は狐面を直して、肩を軽くぶつけてくる。
「お前が主役だ。しっかり立てよ」
それは、誰よりも近くで翠心を見てきた、幼なじみの言葉だった。
「……ああ」
翠心は小さく頷いた。
緞帳の向こう、客席のざわめきがかすかに聞こえてくる。
照明の赤い点滅が合図――いよいよ、舞台が始まる。
---
──暗転。
静寂の中、一筋の光が舞台中央に差し込む。
そこに立っていたのは、白装束の少女――ヒナ。
いや、少女に扮した翠心だった。
凛とした立ち姿。
その髪は緩く編まれ、うなじにかかる朱の紐飾りが揺れる。
照明を受けて浮かび上がる舞台化粧が、翠心の目元に不思議な気配を宿らせていた。
「……あの夜、私は花の声を聞いた」
静かに口を開いた翠心の声は、最初の台詞とは思えないほど澄んでいた。
空気を震わせるようなその声に、観客の目が一斉に惹きつけられる。
舞台の端からゆっくりと現れるのは、桔平演じる“狐の妖”。
いたずらな笑みを浮かべながら、静かにヒナの背後に忍び寄る。
「よう、神の娘……今宵は星がきれいやな」
「また来たのね、狐」
ヒナが振り返る。狐は肩をすくめる仕草をしながら、くるりと舞うように一歩前へ出る。
その動きには軽やかさとしなやかさがあり、桔平の演技が日々深みを増していたことを感じさせた。
舞台は“人と妖が交わる境”にある神域が舞台。
神の巫女であるヒナは、人知れず妖たちと語らい、時に祈りを捧げていた。
その中で、狐との心の距離が少しずつ縮まっていく――。
次の場面では、遥登演じる“猫又の妖”が登場する。
彼の柔らかい口調と、軽妙な動きが場の空気を和らげる。
「おや、巫女さま。また狐にちょっかいかけられてるのかい?」
「うるさいよ、猫又……」
「ふふ、まあまあ。祭りの夜くらい、心を緩めなよ?」
遥登は自分の役に“らしさ”を込めるのがうまい。
セリフの語尾の抑揚、目線の使い方、尾の揺らし方……自然体の中に、確かな演技の技術があった。
一方、蓮真演じる“烏の使い”は、裏切りと忠誠の間で揺れる難しい役どころ。
口数は少ないが、視線や立ち方に彼の丁寧な姿勢がにじみ出ていた。
「ヒナ様、里の者たちが……妖との共存を恐れております」
その言葉を受けた翠心のヒナは、はじめて動揺を見せる。
台本には「沈黙」とだけ書かれた間がある。
──ここだ。
翠心は息を整え、目を伏せてからゆっくりと顔を上げた。
「それでも……私は、あの子たちと話をしたい」
その目には確かな決意が宿っていた。
声を震わせない。涙を見せない。
でも、堪える“悲しみ”が確かに滲んでいた。
舞台袖で見守る宮吉は、小さく頷いた。
「……ええやん」
そう呟いた顧問の顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。
そして、物語は終盤。
辻井 凌央が演じる“闇の主”が現れ、神域を闇で覆わんとする中、
ヒナと狐は最後の選択を迫られる。
「なあ、ヒナ。お前が人のままでいたら……俺とは生きられへん」
桔平の狐がそう語りかける。
「それでも……私は、人として祈りたい。あなたが、この世にいてくれることを」
翠心のヒナが、その手を伸ばす。
すれ違いそうな手と手。舞台中央で交わる寸前に、光が差し込む。
──暗転。
そして、緞帳がゆっくりと降りる。
静寂。
次の瞬間、客席から大きな拍手が巻き起こる。
誰よりも先に拍手をしたのは、宮吉だった。
「ええやん。ええ舞台やったで、お前ら」
部員たちの顔には、達成感とまだ冷めやらぬ興奮が混ざっていた。
文化祭、第一幕が無事に終わった――。
だが、本番はこれから。
9月の地区大会が、この舞台の“本当の勝負”だった。
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教室には朝のざわつきが残っていた。
昼休みに近づくにつれ、生徒たちの話題も次第に軽く、穏やかになっていく。
「……なんで、俺が“可愛い”とか言われてんだよ」
翠心はぼやいた。机に肘をついて、気怠げに窓の外を見ながら。
その斜め向かいに座っていた桔平は、教科書を閉じてから、平然と笑った。
「んー、俺は前から気づいてたけどね。お前が可愛いってこと」
「……は?」
顔を向けた翠心の眉がぴくりと跳ねる。
思わず真顔になってしまったその反応に、桔平はさらに笑う。
「いや、事実だろ? 舞台のあの衣装も、声のトーンも……ハマりすぎてて、見てる側としては“あ~これ推せる~”ってなるわけよ」
「うるせぇ……」
翠心はため息をつきながら、頬杖をつき直した。
どうしてこいつは、こういうことをサラッと言えるんだ。
(……ズルいよな。桔平の狐の役、ほぼ地でやってたじゃん)
余裕のある笑みとか、ちょっと意地悪な目つきとか。
あれ、全部“いつもの桔平”だった。だから演技でもぶれない。
こっちは必死にヒロイン演じてんのに……。
「よし、行くか。部室」
「お、おう」
翠心はわずかに頭を振って気を取り直す。
ふたり並んで廊下に出ると、すぐに背後から軽やかな足音が近づいてきた。
「おーっす! 今日も推しカプが揃ってる~~~」
明るい声で手を振りながら、3年C組の有安遥登が合流した。
いつもの笑顔、でも目がキラキラしてるのが妙に引っかかる。
「……遥登先輩、なに言ってんすか……」
「いやいや、見てるこっちは癒やしだよ? 舞台終わっても仲良しで何より」
「仲良しじゃねぇし」
「へぇ~?(ニコニコ)」
翠心は視線を逸らし、桔平は笑ってごまかす。
そんなふたりのやり取りを、遥登は満足そうに眺めながら、軽い足取りで部室へ向かっていった。
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演劇部の部室に入ると、すでに先輩たちと後輩たちが集まり始めていた。
「おはようございまーす!」
「おはようございます!」
声を交わしながら、翠心と桔平も鞄を棚に置く。
辻井先輩が白いタオルで首を拭いながら「そろそろ揃ったな」と確認し、
悠嵩が「じゃ、今日もよろしくね」と笑顔で全体を見渡す。
「はーい! じゃあ、まずは基礎練からいこう!」
宮吉の声はまだ聞こえないけれど、先輩たちがすでに空気を作っている。
掛け声が飛び、全員が円になってストレッチを始める。
静かに、だけど確かに、次の舞台へ向かって演劇部の新しい日常が再び動き出していた。