揺らぐ心、灯る決意(1)
季節は梅雨に入り、燈ノ杜学園の6月下旬は文化祭準備一色に染まり始めた。
演劇部ももちろん、その流れの中にある。
ただ、彼らの本命はその先――8月上旬に行われる高校演劇の地区大会。
文化祭は、いわばリハーサルであり、“本気の前哨戦”だった。
演目は『花に宿る』。
稽古もいよいよ本格的に、「通し稽古」ではなく、シーン別に分けた集中練習へと段階が進んでいた。
「――んじゃ、次。三場の神社の対峙シーン、やるぞ」
辻井凌央(部長)が台本を軽く振って指示を出す。
その言い方は相変わらずだるそうだが、指示の内容は的確だ。
「翠心、お前の間、さっきからちょっとズレてんだよな。怖がってないのはいいけど、“迷い”がないのはおかしいだろ?」
「……すんません、凌央先輩」
「そこは言葉じゃなくて演技で返せっての。な?」
茶化すように片目をつぶって笑うと、凌央は肩を回す。
すぐ隣で、安楽悠嵩(副部長)がフォローを入れるように声をかけた。
「翠心、焦らなくていいよ。今の段階は“気付き”ができてるだけで充分だから。身体の軸を下ろして、相手の呼吸を感じてみて?」
その声は優しく、温度がある。
翠心は、小さく頷いた。
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だけど。
どうしても自分だけ“浮いている”気がする。
立ち振る舞い、台詞の感情、身体の重心――
周りの部員はどんどん動きを自分のものにしていくのに、自分だけが、ずっと“なりきれてない”。
「……やっぱ、俺なんかじゃ無理なんじゃねぇの……」
舞台の隅、照明の影の中でぽつりとつぶやいた翠心は、台本を軽く握りしめると、音もなく部室を出た。
誰にも気づかれずに出ていけたことが、逆に胸に刺さる。
そのまま、鞄を取りに行くふりをして、その足で校門を出た。
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午後五時。梅雨空は重く垂れこめ、細かな雨がしとしとと降り続いていた。
高校のすぐそばにある小さな公園のベンチ。
翠心は傘も差さず、頭と肩に雨粒を受けながら、ただぼんやりと座っていた。
足元の水たまりに、落ちた雨粒が小さな輪を広げる。
「……やっぱりここかよ」
背後から声がして振り返ると、桔平が黒い傘を差して立っていた。
制服の肩口は少し濡れていて、息がわずかに上がっている。
「何で来たんだよ……」
「お前の顔、部室出る前から死んでたもんな。そりゃ追っかけるだろ」
桔平はためらいなく傘の中に翠心を引き入れる。
ふわりと香る柔らかなシャンプーの匂いと、傘に当たる雨音が近くなった。
「……無理だって、俺。動きも覚えらんねぇし、台詞の感情も全部頭ん中だけでぐるぐるして……」
翠心は、濡れた前髪の下で唇を噛みしめる。
「ヒロインなんか、俺じゃねぇ方が……」
「――それじゃ、俺が納得いかねぇんだよ」
桔平が静かに、でもはっきりと言った。
「……は?」
「お前がやるって決めた時の顔、見てたし。最初の読み合わせの時、“お前しかいない”って、俺思っちまったんだよ」
桔平の視線は、まっすぐだった。
「なんでそんなに固執するんだよ……」
「だってさ――お前にしかできないもんが、あるって思ってんだよ。俺は」
その声には、雨音に負けないほどの確かさがあった。
翠心はしばらく黙っていたが、やがて、小さく息を吐いた。
「……ほんっと、お前うぜぇな」
でも、その頬にはほんのり赤みが差していた。
「……わかったよ。戻るよ。仕方ねぇな」
桔平は、口角を上げて笑う。
「んじゃ、パフェ奢ってな。文化祭終わったら」
「何でだよ! バカか!」
ふたりの笑い声が、雨音と混ざって、小さな公園に溶けていった。
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体育館の一角。仮設の舞台を模した床上で、今日も演劇部の稽古は進んでいた。
「――はいカット! ストップや、ストップ!!」
顧問・宮吉皓介の大きな声が響く。関西弁で言うと少し柔らかく聞こえるが、内容は結構ガチだ。
「翠心、今の芝居な。……“自分が泣く芝居”に夢中になっとるやろ」
翠心は、手に持った台本をギュッと握ったまま、静かにうなだれる。
「芝居ちゅーのは、“アクション”よりも“リアクション”や。たとえば、目の前で大切なもんが壊された時、お前が“どう反応するか”の方が、客は見とるんやで?」
宮吉は舞台中央へ歩きながら、ポケットから指し棒を取り出し、トントンと床を叩いた。
「“泣きたい気持ちをこらえる”ってのはな、芝居の中でもっとも難しい表現の一つや。だって、人間て感情を全部見せる生きもんちゃうやろ?」
そのまま、翠心のすぐ近くでしゃがみこむ。
「悲しみってのは、ドバーッと出すよりも、堪えてるほうが“伝わる”。わかるか?」
翠心は、視線を上げて小さくうなずいた。
「……はい、わかりました」
「それでええ。うちはそういう“抑える演技”で勝負しとる学校や。他の学校は“泣ける演技”とか“叫ぶ芝居”で感情ぶつけるとこ多いけどな。うちはちゃう。内に込めて、観客の心を動かす。そっちのが、強い」
その言葉に、稽古を見ていた他の部員たちも表情を引き締める。
そんな中、舞台の袖からひょいと顔を出したのは――
3年の副部長、安楽悠嵩だった。
「宮吉先生、たまに厳しいこと言うけど……あれ、全部期待の裏返しだからね」
翠心のそばに歩み寄り、にこっと微笑む。
「翠心くん、期待されてるんだよ。君がこの役をどこまで深くできるかって」
そして後ろから、辻井凌央も腕を組みながら口を挟む。
「うん、そんだけ目ぇつけられてるってことは、実力あるって証拠。……てか、お前最初の読み合わせのときから“コイツ持ってんな”って思ったもんな」
「……それ、フォローになってんのか?」
翠心がぼやくと、凌央はにやっと笑って肩をすくめた。
「まあ見とけって。抑える演技って、やってみると案外ハマるぞ。お前の目つき、そういう“耐えてる”芝居に向いてる気ぃするしな」
翠心は台本を見つめながら、小さく息を整えた。
「……やってみます」
「それでええ。それが“芝居”っちゅーもんや」
宮吉はそう言って満足そうに頷いた。
稽古場の空気が一気に“挑戦”の色に変わっていく。
翠心の目に、揺らぎながらも確かな“芯”が灯り始めていた。
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午後の稽古は、いよいよ問題のシーンへと入った。
翠心が演じるヒロイン――神の力を宿す巫女の生まれ変わりが、守り続けてくれた妖・桔平の狐と別れる場面だ。
台詞は短くない。感情の揺れが激しい場面で、翠心にとっては最も難関だった。
「……ありがとう。でも、もう行かなきゃ」
翠心の声は少し震えていた。だが、以前のように泣き真似をするような演技はしていない。
“泣きたいけど、泣けない。”
“別れたくないけど、別れなきゃならない。”
宮吉の言葉を胸の奥に思い返しながら、その心情だけを台詞にのせる。
「……ここまで護ってくれて、本当に、ありがとう。――もう、帰って」
視線を合わせた桔平の“狐役”も、黙って頷いた。
その瞬間――
翠心の目元に一瞬だけ光るものが浮かぶ。
涙は流れなかった。
けれど、舞台の空気が一気に張り詰めたのがわかった。
「……はい、カット」
静かに、宮吉の声が響いた。
誰もが、彼がどう評価するのかと固唾を呑んで見守る中――
「……ええな。さっきより、ずっとよかったわ」
翠心の肩がふっと緩む。
「感情、よう堪えとった。言葉よりも、その“黙る間”で伝わっとったで。……今の演技、舞台でやれたら、お客泣くな」
部室の隅で見ていた悠嵩が、小さく拍手を送る。
「……ほらね。やっぱり、翠心くんは“持ってる”って言った通りだ」
凌央も腕を組んだまま、やれやれといった風に頷いた。
「その調子で文化祭まで突っ走れ。つっても、文化祭はウォーミングアップだけどな」
「っスよね、次は地区大会っスよね!」
坂本蓮真が元気よく叫ぶと、他の部員たちも一斉に活気づいた。
「せや、うちの本番は8月の地区大会や。文化祭はその“顔見せ”。けどな――」
宮吉が舞台の上の全員を見渡す。
「だからって手ぇ抜いた演技したらあかん。文化祭で“うわ、燈ノ杜の演劇部ヤバない?”って噂流させるぐらいのインパクト、残してこうや」
「「はいッ!!」」
部員たちの声が一つに重なった。
舞台の上、照明がゆっくりと落とされ、また次の稽古が始まる。
翠心は台本を持ちながら、小さく息を吸い――
静かにまた、一歩を踏み出した。